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第8話

   * * *  ぼんやりと流れる景色をながめながら、真理子は自分に訪れた不思議な出会いに思いをはせていた。  琉偉が私に声をかけたのって、やっぱり問題が起こらなさそうだからかな。  彼は自分をこの船の関係者だと言った。それならば無用なトラブルが起こっては困るだろう。空き時間を女性と過ごしたい。けれど女性関係でなにかあった、となれば大問題だ。だから乗客の中でひとり旅をしている、なにかあっても文句を言わなさそうな女性に声をかけた。そう考えれば、美人でもなんでもない自分が声をかけられた理由として納得がいく。  真理子は自分にうぬぼれるほど、自信を持ってはいなかった。  海原にちらばる陽光をながめつつ、真理子は琉偉の青い瞳を思い出す。深く透き通った彼の瞳に見つめられると、心が甘くとろけてしまう。彼の笑みはきっと、多くの女性を魅了するだろう。  この船に乗っている間だけの恋、かぁ。  浮かれすぎないでいようと、真理子は自分に言い聞かせる。  この船に乗っている間だけ、私は真面目でつまらない女から抜け出すの。この出会いは現実を忘れて、違う人生をほんのわずかでも味わうには最高のイベントよね。  ローマの休日は女王が庶民の記者とたった一日の恋と自由を楽しんだ映画だが、真理子にとってこの旅は、その逆だった。つまらない庶民の自分が、映画のヒロインのような時間を過ごすためのものだ。  いままでの真面目な私をぜんぶ捨てて、うっぷんを晴らすんだから。琉偉が船旅のさみしさを、後でトラブルにしなさそうな女に声をかけて楽しみに変えるというのなら、こちらもドラマチックな旅にするために彼を利用させてもらおう。  そうよ。これはお互いの利害が一致している、期間限定の恋なんだわ。  それならもう、あれこれと考えずに目の前の状況を楽しめばいい。この船に乗っている私は、私であって私じゃない。ここには私を知っている人は誰もいないんだし、ここでなにをしても下船した私には関係ない。  世間を知らない年齢ではないのだから、自己責任でいままでしてこなかったことのすべてを満喫しよう。  琉偉との急展開な出会いに冷静になりかけた自分を押し込め、真理子はさっそうと船べりから船内のショッピングモールへと向かった。  とりあえず、それにふさわしい服を買って気分を盛り立てることにしよう。もともと貯金のすべてをカジノで使い果たすつもりで来たのだから、うんと高いものでも気にせず買って、気持ちを高揚させなくちゃ。    * * *  仕事は事務室で発生するものじゃない。発生したものは現場の専門スタッフが対処をして、それから書面になり、琉偉の机の上に報告として置かれる。あるいは優秀な秘書が簡潔な説明で口頭報告をしてくれる。  だから事務室へ顔を出して昨夜から今朝にかけてなにかあったかと問い、あればあったで指示を出して専門スタッフにまかせておけばいい。  それだけの仕事なのに、わざわざ琉偉が真理子と昼まで会わないでおこうと決めたのは、自分が彼女に夢中になっていると思われたくないからだった。  琉偉は事務室でのんびりとコーヒーをすすりながら、自分の考えに薄い笑みを浮かべた。  俺は真理子に強い興味を覚えている。けれどそれは一時の熱病のようなもので、時間が経てば冷めるものだと知っている。俺がどういう立場の人間かを知った真理子が、目の色を変えて媚びるようになるまでの、ほんのひとときの幻の感情だ。――いままでずっと、そうだっただろう?  恋愛は熱病のようなものだ。それが長く持続することはない。俺の両親も新婚当初は、相当に仲がよかったと聞いている。  いや。離婚をするなどとは思えないほど、仲がよかった。それが持続しなかったのは、金が問題だった。父は浮気をする人物でも、ギャンブルにハマる人間でもなかった。それが四十歳を過ぎてはじめて、つきあいで参加をしたポーカーゲームに魅力を感じ、通常ならば知り合いになどなれそうもない、いわゆる社交界の連中とも対等のイスに座っていられる状態に、のぼせてしまった。真面目な人間が大人になってから遊びを覚えて、身を持ち崩すというのはよくある話だ。  その、よくある話の中に琉偉の父がはまってしまった。はじめは小遣いの中でやりくりしていたものが、自分だけが置いて行かれるのはイヤだと掛け金を積むようになり、みるみる借金がふくらんで母親の知るところとなった。  どのくらいの借金があったのか、琉偉は知らない。しかし仲睦まじい夫婦が離婚をするほどの金額だった、という認識は持っている。  そこからよくもまぁ、これだけの船を持つまでに至ったものだ。  琉偉はコーヒーを飲み干すと席を立った。  父の立ち上げた会社は、海上の都市とまで言われる、この豪華客船オアシス・ブルーバードのほかに、クイーン・ブルーバード、セレブリティ・ブルーバードの三隻を有している。  もともと真面目で勤勉な上にクヨクヨしすぎない性格だった父親の成功は、きっかけさえつかめば当たり前の出来事なのかもしれない。  ギャンブルで家族を失うほどの借金をしたというのに、ラスベガスでスロットをするってところも、父さんらしい。  クックとちいさく喉を鳴らした琉偉に、秘書がチラと書類から目を上げた。 「なにか、おもしろいことでもありましたか」  彼は茶色の髪を軽くかきあげながら、髪とおなじ色をした瞳をいたずらっぽく光らせた。 「この船がタイタニックのようになったらどうなるだろうと、考えていたのさ」 「そうなっても多額の保険金をかけているので、なんとかなるでしょう。それに救難信号はあの時代よりもずっと制度が高いし、ジャパン近海なら優秀な海上警備の連中が、いちはやく見つけてくれますよ」  琉偉は軽く肩をすくめた。 「ニック。おまえは恋のロマンスがはじまるとは考えないのか」 「いまの俺にはスザンナのほかに、魅力的な女性はいないんですよ」  そういえば彼は先日、結婚をしたばかりだったと琉偉は思い出した。 「それはそれは。失礼した」 「ボスもはやく素敵な相手を見つけることですね。――それとも、もう発見なさっておいでですか?」 「さあ、どうだろうな」  ニックの肩を軽く叩いて、琉偉は事務室を後にした。これからしばらく船内をうろつく予定だ。尻ポケットには無線機を入れておく。これでトラブルが起こっても、すぐに連絡が入ってくる。つまり、海の中へ入ったりしない限りは、都市としてはちいさく、船としてはとんでもない大きさのオアシス・ブルーバードのどこにいても、業務に支障は出ないというわけだ。  さて、これからどう過ごすか。  琉偉は関係者以外立ち入り禁止と書かれた扉から出て、周囲を見回した。真理子はどこで過ごしているのだろう。ひとりぼっちの日本人女性が乗船するのはめずらしい。なので、そういう人間がなにを目的に乗船してきたのか、予測がつかなかった。  たいていの場合、買い物かショーを楽しむ。  あるいは、カジノ。  悲壮な顔でコインを機械に飲ませていた真理子を思い出し、琉偉はフッと鼻からやわらかな笑みを漏らした。  カジノには、いないだろう。  なぜか琉偉には確信が持てた。  彼女はとても傷ついているように見えた。ヤケを起こしていたと言えばいいのか。恋人とケンカでもして、ひとりで乗船したのかもしれない。  はたと気づいて、琉偉は止まった。 「そうだ。彼女には恋人がいるかもしれない」  どうしてそこに思い至らなかったのかと、琉偉は自分に驚いた。ある程度の火遊びを経験している琉偉はパートナーのいる女性には手を出さない、というルールを決めていた。なにかことを進める前には、必ず相手がフリーであるかどうかを確認してきた。それを昨夜は怠って、彼女の唇どころか体の奥まで味わってしまった。 「まあ、昨日のアレは仕方がないな」  酒に酔って乱れていた彼女をなだめるには、ああするしかなかったのだと自分に言い訳をする。  それにしても、なんて可憐で愛らしい姿だったのだろう。  折れそうなほどに薄く細い体がしなやかに震える姿を思い出し、琉偉はほくそ笑んだ。あれほど従順にこちらの動きに従う肉体を味わったのは、生まれてはじめてだ。こちらが抱いているというのに、しっとりと包まれているような心地がした。これまで相手をしてきた女性の誰もが、琉偉の動きに自分の存在をぶつけて主張するばかりだった。  彼女にもしパートナーがいるとわかれば、もう会わないでいられるだろうか。  自問した琉偉は、即座に「否」と答えを出した。  この船に乗っている間は、彼女はフリーだ。どういう事情かはわからないが、乗船者名簿の上では、彼女はひとりだった。となれば、遠慮をすることはない。  女性ひとりでの乗船はどんなトラブルを引き起こすかわからないからな。親しく過ごして未然に防ぐのも、俺の役目だろう。  琉偉は自分の気持ちを、理性的なものだと思おうとした。  さりげなく船内を歩いているつもりの足が、いつの間にか真理子に教えた甲板のカフェへ向かっているとは気づいていない。  甲板に出た琉偉は、抜けるような青空と配置された緑の木々に目を細め、その中央にあるプールで遊んでいる人々を横目に見ながら、両側にある客室棟の影を踏んで進んだ。  真理子がもしブランチをとるつもりでいるのなら、そろそろカフェに姿を現すはずだ。  彼女の姿を求めて、ここに来たわけじゃない。こういう開放的な場所では、とかくトラブルが起こりやすい。それを危惧しての巡回ついでに真理子がいるかを確かめるだけで、彼女の姿を見たいがために、ここに足を向けたわけじゃない。  しなくてもいい言い訳を自分にしながら、カフェのオープンテラスに目を向けた琉偉は、ピタリと動きを止めた。  さんさんと降り注ぐ陽光に包まれて、真理子がほほえんでいる。艶やかな黒髪を受け止めている、背中の大きく開いたカジュアル気味のドレスは、華奢な彼女のラインを引き立てるのに効果的なデザインだった。ぴったりと体に寄り添う腰回りから、たっぷりとしたスカートが伸びている。それは彼女の膝を隠す程度の長さで止まり、形のよいふくらはぎをより魅力的に見せていた。細い足首から先を包んでいる靴はヒールが高く、彼女のすらりとした容姿をよりスマートに見せている。  彼女の姿をもっとよく見たい。  そう思った琉偉の足を縫い留めたのは、彼女の向かいにいる男の姿だった。  あいつは、誰だ。  琉偉は眉間にシワを寄せて、真理子が笑顔を向けている男を凝視した。年のころは真理子よりもずっと上だろう。だが、年寄というほどではない。ラフな服装や態度から見るに、こういう場に慣れているようだ。趣味のいい腕時計をしている。靴もよく磨かれていて、ファッションにはスキがない。顔からして東洋人だろう。  琉偉の目には、ふたりがとても親しげに映った。  ふっと真理子が目を伏せるように顔をうつむかせ、グラスを手に取りストローに口をつけた。恥じらいを見せる彼女の様子に、琉偉の脳裏にある単語がひらめいた。  まさか。  そんなことはないと否定する琉偉の脳裏に、“愛人”という単語がチカチカと点滅する。  偶然おなじ船に居合わせたとごまかすために、それぞれが個人で旅行を申し込んだ形を取って、船上で密会をするというのはめずらしい話ではない。真理子がひとりで乗船したのは、そういう理由だったのではないか。  カッと胃のあたりが熱くなり、その熱が頭に上る。やわらかな彼女の肌を思い出した手のひらが、それを今すぐ取り戻したいと叫ぶままに、琉偉は大股でふたりのテーブルに近づいた。  さきに男が琉偉に気づいて、目をまるくする。続いて真理子がキョトンとしながら琉偉を見た。どこまでも無垢な瞳に、琉偉の内側で生まれた炎が猛り狂う。 「失礼」  かろうじて笑みを浮かべて男にあいさつをした琉偉は、憤怒を抑えきれていなかった。男が困惑気味に腰を浮かせる。 「なにか誤解をされているようだが――」  笑みを深めて男の言葉を遮った琉偉は、真理子の腕を掴んだ。 「えっ。……あ、あのっ」  とまどう真理子を立ち上がらせて、きびすを返す。しっかりと掴んでいるのに、ちっとも抵抗を感じない。不安になって振り向けば、真理子は困惑と不安を顔いっぱいに広げて、琉偉に引かれるままに足をもつれさせながら、必死についてきていた。  そのなよやかな姿があわれで、なにもかもを自分のものにしたくなる。  琉偉は手近なスタッフ専用通路に入り、機関室へと続くバックヤードの扉を開けた。 「あの、ここ……、入っちゃいけないんじゃ――」  扉を閉めてすぐに、彼女の背中を壁に押しつけた琉偉は、真理子の唇を自分の唇でしっかりとふさいだ。目を白黒させる彼女の背中に手を入れて、スカートをたくしあげる。逃げられないよう脚の間に膝を入れて腰を抱き寄せれば、真理子の体はすっぽりと琉偉の体に収まってしまった。  このまま、すべてを食らい尽くしたい。  荒れ狂う情動に、琉偉は従った。
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