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第5話

   * * *  扉を後ろ手で閉めた琉偉は、深く太い息を天井に向かって吐き出すと目を閉じた。  まぶたの裏に真理子の不安そうに揺れる瞳が焼きついている。なんて愛らしい人なのだろうと、琉偉は想いを噛みしめた。  彼女は誘いに乗るだろうか。  肩で扉を蹴って、琉偉は廊下を進んだ。  客室の廊下から出ると、すぐにスロット・マシンの並ぶフロアに出る設計になっている。船内の配置は、アメリカ人の父がラスベガスのホテルを参考にして決めたのだと聞いていた。  スロット・マシンのフロアを抜けるとカードやルーレットを楽しめるフロアに出る。そこを抜けてようやく、レストランや劇場、ショッピングのフロアに到着する。  そんな状態であれば、たとえカジノを目的としていない人間でも、ほんのちょっと遊んでみようかという気持ちが芽生える。空間に踏み入るまでの敷居は高いが、入ってしまえばどうってことはない。そんな人間心理を突いているのだと、父は得意げに話していた。  彼女はあっけなく、自分の心を射止めてしまった。  琉偉は去り際に見た、真理子の頼りなげな視線を思い出す。  もしかすると、彼女の気持ちのスロットは火を噴くライオンの絵柄を、ふたつまでそろえているのではないか。あとひとつ、火を噴くライオンがそろえば、めでたく彼女の気持ちは俺に向かって押し寄せる。  俺は彼女の空間に踏み込んだ。――いや。彼女が俺を受け入れたのか。  どちらにしても、ハードルはクリアしてしまった。あとは、彼女がどう出るか。  もしも明日、予定の時間に彼女が来なかったら。  そのときは、そのときに考えればいい。ギャンブルは、勝つことだけを考えてするものだ。  チラリと後方を振り返った琉偉は、真理子の部屋番号を脳裏で確認する。  彼女がひとりで乗船したのか、そうではないのかをチェックしておこう。余計なトラブルを避けるために、手に入れられる情報は持っておくべきだ。  にこやかな乗船客の間をすり抜け、琉偉は関係者以外立ち入り禁止の扉を開けて、事務所へ向かった。    * * *  彼は何者なんだろう。  閉じられた扉をながめて、真理子はいまさらな疑問に首をかしげた。手の中のペットボトルに視線を落とし、キャップを開けて喉に流したただの水が、とてもおいしく感じられる。  どうして彼は酔った私に注意をするだけじゃなく、部屋に運んでキスまで――。 「っ!」  頬が熱くなり、真理子は残りの水を飲み干すと、ベッドに倒れ込んだ。まだ唇にキスの感触が残っている。指でそっと唇をなぞれば彼を受け入れた箇所がうずいた。  耳の奥に残っている、熱くせつない彼の声に吐息をこぼす。真理子、という平凡な名前が特別なもののように感じられて、心が震えた。 「明日の八時半にレストラン」  つぶやいて枕元の時計に目を向ける。  行かなければ、彼との縁はこれっきり。日本人だと言っていたけれど、身ごなしは真理子の思う日本人とはかけ離れていた。こういう船にも乗り慣れている様子だった。だから真理子の様子を見とがめて、声をかけてきたのだろう。きっと、女性の扱いにも慣れている。でなければ初対面の相手に、あんなに自然なキスはできないはずだ。 「遊ばれたのかな」  御しやすそうだと思われた? 船旅は退屈だから、この船に不慣れらしい女に声をかけて、短い恋愛ごっこを楽しもうとでも考えたのか。  遊び慣れた女には飽きたから、地味な私に声をかけたのかも。  そういえば悪い人は、おとなしくて反撃などしないような女を狙うと聞いたことがある。後腐れなく遊べる女には飽きたけれども、それ以外の相手だとめんどうが起こるかもしれない。それなら泣き寝入りをしそうな、こういう場所になれていない相手をエスコートし、ちょっとの間だけ楽しんで別れようと考えているのだとしたら―― 「私……」  どうしようと思いながら、真理子は時計の目覚ましをセットしていた。普段の自分なら誘いに乗るなどありえない。しかしこの旅はいつもの自分を捨てるのが目的なのだから、誘いをチャンスと考えて飛び込まないと損かもしれない。 「あんなイケメンと知り合うってこと自体、ありえないんだから」  これはいままで頑張って、品行方正に過ごしてきた自分に与えられた神様からのプレゼントだ。平凡すぎてなんの面白味もなく、そのかわり大きな不幸もなかった平穏な人生。はたから見れば「つまらない人間」として、大人からすれば「都合のイイ子」として生きてきた私に、羽ばたくチャンスが巡ってきた。  高校デビューとか大学デビューとか社会人デビューとか、いろいろと変革のきっかけになりそうなものは、世間一般の人たちとおなじ数だけ得ていたのに、いつまでも変わらぬまま、どう変わっていいのかすらもわからなかった私に巡ってきた、一世一代の大変革期。それがきっと、いまのはず。  騙されてもいい。むしろ、騙されて泣くくらい、ドラマチックな旅になればいい。下船して元通りの平々凡々な生活に戻ったとしても、心の中に冒険の記憶があれば、きっといままでとは違った気持ちで過ごせるはずだから。  もう大人なんだから、思い切り傷ついたってかまわない。 「カジノを目当てに来たんだから、私を賭けてみてもいいわよね」  いままでの自分を捨てるために、全財産をカジノで使おうと考えていたのだから、自分自身を賭けたってかまわない。むしろ、ここで尻込みをすれば、しなかった後悔をずっと抱えて生きていかなければならなくなる。  ふいに、自由奔放に周囲を振り回していた妹の幻影が映った。幻の妹は夫となった男の腕に腕を絡め、もう片手には赤ちゃんを抱いて真理子を見下している。  その唇が、ゆっくりとあざけりの笑みを浮かべて開いた。 ――大人の言いなりになってばっかりで、お姉ちゃんは楽しいの? なにがしたくて生きているのか、ぜんっぜんわかんないね。  十年ほど昔、夜中にコッソリ家を抜け出そうとした妹を見つけて叱ったことがあった。あの日に返された言葉を幻の妹に浴びせかけられ、真理子は空のペットボトルを投げつけた。 「あんたに、なにがわかるっていうのよ!」  迷惑をかけないように、嫌われないようにと努力をした結果がいまの自分だ。それなのに両親から無趣味でつまらない娘だと、これからが心配だと言われるようになってしまった。 「私の気持ちなんて、ちっとも知らないくせに」  どれほどの葛藤と羨望を妹に向けてきたか。優等生であることに、どれほど苦しんできたのかを、妹どころか両親すらも理解してくれない。あれほど周囲が望むようにと気をつけて、ルールを守って模範的なイイ子でいようと努力をしてきたのに。 「もう全部、捨ててやるんだから」  ハメを外したくとも、外し方を知らない自分と決別をするために、この船に乗ると決めた。  カジノで散財をして、スッキリしようと思っていたけれど、それ以上の好機が目の前にぶら下がっている。 「私だって、好き放題に過ごしてやるんだから!」  そう決意をしながらも、真理子はついつい習慣で、癇癪を起して投げたペットボトルを拾い、きちんとゴミ箱に捨ててからシャワールームへ入っていった。
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