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第2話
* * *
なんて愛らしい人なのだろうと、三沢琉偉は真理子のふるえるまつ毛を見つめた。
しなやかな細身の体は、ほんのすこし力を込めただけで、簡単に折れてしまいそうだ。素顔とそう変わりない薄い化粧に、少女のようにナチュラルで指通りのいい黒髪。どうしてこんな女性が、この船に乗り合わせていたのだろう。
琉偉は彼女と出会えた幸運に感謝の祈りを捧げながら、真理子の唇をむさぼった。懸命に応えようとする舌の動きはぎこちなく、彼女はそれほど経験をしていないということがわかった。その初々しさに、琉偉は慈しみの気持ちを膨らませた。
彼女は、俺がいままで相手をしてきた、男を食ってしまうほどパワフルでしたたかな女性ではない。乱暴に、欲望のままに扱っていい人ではない。丁寧に、壊れないよう大切に、ガラス細工を扱うがごとく愛さなければ、あっけなく砕け散ってしまいそうだ。
「ああ、真理子」
気持ちを込めて名を呼べば、真理子は閉じていたまぶたを持ち上げ、わずかに笑った。羞恥のにじむ、つつましい笑顔に琉偉の心は痛いほどの愛おしさに絞られる。
俺はなんて幸運なんだ!
心の中で叫びつつ、琉偉は夢中で真理子にキスをした。薄い彼女の体は猫のようにしなり、琉偉の肉厚の胸にピッタリと寄り添っている。うっかりすれば腕の中からこぼれ落ちてしまいそうなほど、真理子の体は頼りなかった。
真理子の体を潰さないよう気をつけながら、琉偉は彼女の上にかぶさった。
態度とおなじく、つつましい胸は琉偉の手のひらに収まった。蒸しパンのようにやわらかな乳房は、従順に琉偉の指の形に添って変形する。しかし完全につぶれてしまう前に、適度な弾力で琉偉の指を押し返した。ツンと尖った胸の先を指の股で挟めば、か細い声で真理子が啼いた。
まるで迷子の子猫が助けを求めているようだ。
触れれば触れるほど愛おしさを感じてしまう。もしかすると、真理子は悪魔なのではないかと、琉偉は冗談とも本気ともつかぬ考えをよぎらせた。
あんなに乱暴にカクテルをあおり、スロット・マシンに無造作にコインを投入するような人間に、無垢な女性がいるはずはない。きっとこれは男を虜にするための演技で、真理子はしたたかな悪魔に違いない。
触れれば触れるほど、のめりこんでしまう自分を止めようと、琉偉は思考を巡らせる。けれど腕の中にいる真理子は、哀れでいたいけな窮鳥にしか見えなかった。
傷つき、打ちのめされて保護を求めている、ちいさくて弱い生き物。
力強く大きな存在が包まなければ生きていけない、雨の中に放り出された子猫のようにしか感じられない。
「真理子……、ああ」
「琉偉、んっ、ぁあ」
耳朶に軽く歯を立てれば、真理子の体がちいさく震えた。奔放さのかけらもない、恥じらいに満ちた反応に、琉偉は体中の愛おしさを込めた唇で、彼女の唇をそっとふさいだ。
* * *
これといった趣味もなく、贅沢をすることにも興味のなかった真理子は、学生時代から堅実にコツコツと貯金を増やしていた。
流行を追いかけることもなく、旅行に行ったりもせず、芸能人に夢中になりもしなかった。なにか理由があって貯めていたのではない。お金を貯めることが目的、というわけでもなかった。ただ単に、使う場面がなかったので自然と貯金が増えていった。それだけのことだった。
真面目に、両親や世間の模範になるように、ひかえめに、つつましく過ごしているうちに、そうなってしまった。
けれど。
もう全部、使い果たしてしまいたい!
発作的に、真理子は強い衝動に突き動かされた。
思い切りバカをやって、真面目な自分をぶち壊したい。
そうは思っても、したことがないのでどうすればいいのかがわからない。貯金のすべてをパーッと使ってしまいたいと考えてはみたものの、不必要な買い物をすれば荷物が増えてゴミになるだけだし、暴飲暴食に走れば体調を崩してしまう。旅行をするにしても付き合ってくれそうな人は思いあたらず、だからといって個人旅行に踏み切る勇気もなければ、ひとりでツアーに参加するのもいたたまれない。
根が真面目な真理子にとって、ハメを外すという行為は最高に難しい問題だった。
使ってしまうのなら、ギャンブルが手っ取り早そう。
それなら余計な買い物で部屋に物があふれることもないし、暴飲暴食のように体調を崩す心配もない。旅行のように誰かいっしょに、と相手を探さなくてもいい。
そう思いついたはいいものの、パチンコ店でずっと座っているのは苦痛になりそうだ。それ以前に、入るのが怖い。競馬や競輪、競艇あたりもおなじ理由で、真理子は途方にくれてしまった。
そして同時に、なんてつまらない人生を過ごしていたのだろうと、自己嫌悪を深くした。
どうしようもないほど優等生な人生を歩んできた自分に打ちのめされた真理子が、習慣のように出社して真面目に仕事に取り組んでいると、豪華客船がもうすぐ日本にやってくる、という雑談が耳に入った。
その豪華客船はアメリカからやってきて、各国の主要な港を経巡る。バカでかい商業施設つきのホテルが海に浮いていると言っても過言ではない船の中には、レストランやショッピングモールはもちろんのこと、プールもあればショーを見せる劇場もあり、船に乗っているとは思えないらしい。中でもとびきり魅力的なのは、カジノ施設があるということだ。日本で立ち寄る港は、室蘭、横浜、神戸、博多の4か所で、その間だけでも乗船が可能だという。
仕事をしながら聞くともなしに聞いていた真理子は、カジノという単語に息を呑んだ。
カジノ!
それこそバカな行為をするにふさわしい、最高で最適な場所だと思えた。その上、豪華客船のクルージングとは、ものすごく魅力的な組み合わせだ。
まったく自分に縁のない、異世界に近いものが人生の近くにやってくる。
それは、自暴自棄をしたい真理子の心を強く魅了した。
日本の港を移動する間だけの乗船でもかまわない、というところも、無茶をしなれていない真理子にとっては行動を起こすに便利な条件だった。
有給休暇はまるごと残っている。それをすべて、貯金とともに使ってしまおう。いままでの真面目な自分を清算する機会がきているのだと、真理子はさっそくネット検索をして日程を確認し、有給届を上司に提出した。
そうして乗り込んだ船は想像以上の大きさで、圧倒されつつも「自暴自棄にはふさわしい空間だ」と眉を引き締め、真理子はまっすぐカジノエリアに入った。
宿泊日数に合わせて、1日に使う貯金額を割り振り――そこは真面目が抜けなかった――、本日分の金額すべてをサイフに入れて、さあやるぞと気合を入れたものの、ルールがさっぱりわからない。日本語のできるスタッフに相談をして、それならスロット・マシンが無難だろうと教えられ、真理子はそれに従った。
コインを入れてレバーを倒し、絵柄がそろうと配当が吐き出される。ものすごくわかりやすく、とっつきやすい。なにより、考えることなく手を動かせばいいだけなので、お金を無為に使いたい気分にはピッタリだった。
真理子はひたすらコインを入れて、レバーを倒し続けた。
当たったり負けたりを繰り返す真理子の傍に、水着かと思うような、露出度の高い衣装を着た金髪のウェイトレスが、愛想のいい笑顔で「カクテール、カクテール」と言いながら近づいてくる。どうやらカクテルの注文を受けてチップをもらう仕事らしいと気づき、カクテルを注文した。チップの相場がわからないので適当に支払うと、彼女はちいさく「オゥ」とつぶやき、それからは真理子のグラスが空になると、ひんぱんに声をかけてくるようになった。
これも自暴自棄のひとつだと、彼女に声をかけられるたびに注文をし、チップを払った。飲みつけないアルコールに頭の芯をたゆたわせ、スロットを回す単調な動きを淡々と繰り返す真理子の肩を誰かが叩いた。
それが、いまキスを交わしている三沢琉偉だった。
琉偉は彫りの深い顔を苦くゆがめて、流暢な日本語を話した。
「もう、そのくらいにしておいたほうがいい」
「どうしてぇ?」
言ってから、真理子はアルコールが相当回っていると知った。ろれつがあやしく、頭が悪そうな感じに語尾が伸びてしまっている。
「飲みすぎは体によくない。それにスロットをすこしも楽しんでいるようには見えない」
彼の瞳は悲哀に満ちていた。とがめているのではなく、心配をしてくれているのだとわかって、真理子の心のさみしさが刺激された。
「私のお金だもん。好きに使っていいでしょお」
下唇を突き出したのは、見ず知らずの男に甘えてみたくなったからだった。どうしてなのかはわからない。ただなんとなく、この人には甘えてもいい。そう真理子の本能が感じていた。あるいはただの、アルコールのなせる幻覚的心理だったのかもしれない。
しかし、そんなことはどうでもいい。
真理子は生まれてはじめて、男に向かってだらしのない態度を取ったのだ。
私って、こんな態度もできるんだ。
その発見がうれしくて、真理子はしまりのない顔で男に笑いかけた。
「私の体だって、私の好きに使っていいの」
うふふ、と真理子は目を細めた。いままでは親の世間体や周囲からの評価を気にして生きていたが、自分の人生は自分のものなのだから、好きにしてもいいじゃないと言葉にしてから実感する。
「そうよ。私は、私の好きにしていいの」
だから、と真理子は愛らしく肩をすぼめて琉偉を見上げた。
「いっぱいお酒を飲んで、いっぱいスロットを回すんだぁ」
カクテルの残りをあおり、真理子はスロットに向き直った。コインを入れようと腕を持ち上げると、手首を掴まれ阻まれる。
「なによぉ」
「そんな遊び方は、スロットに失礼だ」
「なに、それ。機械に失礼もなにも、ないでしょ。名前も知らない相手に、お説教なんてされたくないわ」
プンッとむくれながらも、真理子は叱られるという行為に新鮮な心地よさを感じていた。見ず知らずのハンサムな男の人が、自分の身を真剣に案じてくれている。まるでドラマのようではないか。
アルコールにたわんだ意識は、夢とうつつの境目をあやふやにし、ドラマの主人公になった錯覚を真理子に与えた。
「三沢琉偉」
「ん?」
「俺の名前だ。――名前を知ったんだから、俺の忠告に耳を貸してくれるな?」
真理子は深い海のような青い瞳を、ぼんやりと見つめた。
「日本人みたいな名前ね」
「俺は、れっきとした日本人だ。まあ、ハーフではあるけどな」
だから彼はハリウッドスターのような顔立ちをしているのかと、真理子は納得した。
「それで。俺の忠告を聞いてくれるだろう」
「恋人でもない人の忠告を、聞く必要なんてある?」
真理子はフフンと鼻を鳴らして、琉偉の青い瞳が困惑に揺れるのを楽しんだ。
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