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第43話 七章 4

 浴衣に描かれていたものを見たとき、亜紀は表情をほころばせた。  衣紋掛(えもんが)けに掛けられていた浴衣には、流水と千鳥文様(ちどりもよう)が描かれていた。千鳥が仲良く寄り添う姿はとても愛らしい。ガウン姿でそれを眺めていると、和明が寝室へやって来た。 「取り急ぎ用意したものだが、サイズは合っていると思う」 「そう、ありがとう。ところで、あなたは着替えないの?」  衣紋掛けから水色の浴衣を外しながら尋ねると、何かを思い出したように和明が口を開く。 「取りあえず持ってきたが……」 「じゃあ、着替えたら? 私だけ浴衣は寂しいわ」  そう言うと、和明が驚いた顔をした。それを見て亜紀はつい目をそらす。さらりと口から飛び出た言葉に動揺しながらも、それを感づかれまいとして話をそらそうとした。 「と、ところで、あなたの浴衣はどこ?」  ベッドの上に置かれている肌襦袢(はだじゅばん)と裾よけを手に取り、亜紀は問いかけた。そのすぐ側には、麻の八寸帯(はっすんおび)が置かれている。和明を見ないようにしながら、亜紀はいそいそと着替える準備をし始めた。そのとき、和明の気配が遠ざかっていることに気がつき、亜紀は慌てて呼び止める。 「どこに行くの?」  するとドアに向かっていた和明が、振り返った。 「一階にある和室に、俺の浴衣が置いてあるからそこへ。どうした?」 「う、ううん。なんでも、ない」 「帯、一人じゃ結べないだろう? すぐに着替えてくるから、ここで待っていてくれ」  笑みを向けられ、それに頷くと和明は寝室から出て行った。  着替えを済ませ外に出てみると、湿った暖かい空気が漂っていた。  だが、以前来たときよりも涼しくて、季節の移ろいを感じずにはいられない。亜紀は浴衣の上に水色のストールを羽織った姿で、和明とともに夜道を歩き出そうとした。  そのとき、大きな手に手を繋がれた。側にいる和明を見上げると、懐中電灯を手にしながら歩き出そうとしている。軽く握り返すと、それを待っていたかのように和明が歩き出す。暗闇の中、手を繋ぎながら歩いている途中で、亜紀は先ほどのことを思い出してしまい、くすりと笑った。 「どうした?」  亜紀が笑みを漏らしていると、隣にいる和明から尋ねられた。 「ううん。なんでもない」 「なんでもないのに、笑うのか?」 「さっきのことを思い出しただけ」 「……仕方がないだろ」  着替えのときを思い出したのか、和明がぶっきらぼうに返事する。暗くてよく見えないけれど、きっとふてくされたような顔をしているに違いない。亜紀が思い出したのは、浴衣の帯を締めてもらっているときのことだった。  浴衣に着替え終えた和明が寝室へやって来て、早速帯を結ぼうとしたけれど、かなり苦戦しているようだった。かなり時間を掛けて結んでもらったものは貝の口、和明の帯と同じ結び方だ。だから二人の帯は、そろいになっている。 「そう言えば結納の夜も、帯を解くのに苦労していたものね」 「もういい、言うな……」  バツが悪そうにしながら話す和明を見て、亜紀はかわいいと思った。 「森崎から教えてもらったんだが、あいつは説明が下手だから……」 「言い訳は駄目。森崎さんのせいにしないで」  咎めるように言うと、隣からため息が聞こえてきた。  夜のとばりがすっかり落ちた歩道に、虫の声とともに下駄の音が響く。始めの頃は、二つの足音だったけれど、いつの間にか一つの足音になっていた。重なった下駄の音を聞きながら歩いていると、以前一人でいた公園に差し掛かり、亜紀は照明に照らされているベンチへと目を向けた。 「あのときは済まなかった」 「え?」 「仕事で来ていたのに、突然押しかけて済まなかった」  父親から頼まれた往診で、ここを訪れたときのことを言っているのだろう。互いの仕事に口を挾まない約束を交わしているのに、それを破るような行いをしてしまったと思っているようだった。そのときのことを思いだし、亜紀は視線を落とし薄く笑う。  あのときは、不安だらけだった。自分が知らないところで、何かが動いている気がして。今でも不安は残っているけれど、過去を知った今ならば、あのときほど不安ではない。でも、だからといって、このままでいいわけがない。聞きたいことがある以上、和明の口からそれを話してもらわない限り、不安はなくなってくれないような気がした。  亜紀は改めて決意する。和明からすべてを聞き出そうと。  そのきっかけとなる言葉を亜紀が考え始めると、急に和明が立ち止まった。亜紀はとっさに、隣にいる和明に目を向けたけれど、暗がりの中では表情が分からない。 「前は草むらの中を歩いたが、蛍が見える場所に続いている歩道があるんだそうだ」 「そうなの? もしかして、八木橋さんに聞いたとか?」 「ああ、ここがその歩道の入り口だろうな。ほら、目印が置かれている」  それまで道を照らしていた小さな光が、すっと前に動いた。その光に目をやると、確かに目印代わりの赤いコーンが道ばたに置かれている。恐らく八木橋が用意したものだろう。 「といっても、池の近くで途切れているらしいから、少しだけ草むらを歩くことになる」 「そうなの?」 「そういえば、足、痛くないか? 下駄は履き慣れないと鼻緒(はなお)のせいで痛くなる」 「大丈夫。痛みはないわ」 「そうか、じゃあ行こう」  気遣うように手を引かれ、亜紀は和明とともに歩道を歩き出した。  暗い夜道にカラコロと音が響く。  湿った草いきれが漂う中、二人は手に手を取って歩き続けた。徐々に目的の場所へ近づいているようで、かすかに川のせせらぎの音が聞こえてきた。それと同時に、前を歩く和明が立ち止まる。 「ここから先は茂みになっている。足元気をつけろ」 「うん」  注意されてゆっくり前に進むと、踏みしめる感触が変わった。柔らかな草の感触がする。だが、以前のように足の甲に草が掛からない。それに亜紀が気づくと同時に、和明が話し出した。 「どうやら、しっかり草を刈られたようだな」 「八木橋さんに蛍を見に行くこと話したからじゃない?」 「ああ、そうだろうな。夜出かけると行ったら、どこへと聞かれたんで、蛍を見に行くとは話したから、草を刈っておいてくれたんだろうな」 「有り難いことね」 「そうだな……。気を遣わせてしまったようで、申し訳ないが助かった。明日、別荘を出るときに挨拶に来るだろうから、そのとき礼を言おう」 「そうね。そうしましょう」  会話を交わしながら歩いていくと、再び和明が足を止めた。懐中電灯の灯りが消えたあとの暗闇を眺めていると、淡い光が見えた。とても頼りない光が、暗闇にぼんやりと浮かぶ。 「亜紀。見えるか? 蛍だ」  そう呼びかけられて、視線を前に向けると、かすかではあるが小さな光が見えた。その光は漆黒の闇の中、淡い光を発しながら、ふわふわと飛び回っている。夏の終わりのせいなのか、その数はかなり少なくなっていたけれど、これはこれで美しい。手を繋ぎながら見ていると、以前和明の部屋で思い出した記憶が蘇ってきた。 「私、以前にもここで蛍を見たわ。父と一緒に」  不安と期待が入り交じる中、亜紀は意を決し問いかけた。 「あなたとも見たのかしら。覚えていないけれど」  隣に意識を向かわせるが、和明は黙り込んでいる。虫の声だけが響く暗闇で返事を待っている間、心臓がどくどくと音を立てながら脈打った。重苦しい沈黙が流れる。亜紀は祈るような気持ちで、そのときを待っていた。  どうか、話してほしい。和明の口から全てを聞きたい。その祈りが通じたのか、ようやく和明が静かに話し始めた。 「ここをお義父さんに教えたのは森崎だ。お前に蛍を見せたいと言って聞かなくて」 「そうなの?」 「あいつにせがまれて、お義父さんに話したら、じゃあみんなで見に行こうという話になってな。それ以来、夏はここで蛍を見ていた。お前があっちへ帰る前の夜、見たのが最後だったけれど」  話し終えた和明に、手を強く握られた。亜紀は握り返す。 「なぜ、教えてくれなかったの? ここで会ったこと」 「俺は中学生だったが、おまえは三歳だ。覚えていないだろうと思ったから言わなかった」 「覚えていたわ、私。それに、待っていたのよ、ずっと。いつかきっと迎えに来てくれるはずだからと」  正確に言えば、指輪をもらったときのことしか覚えていない。  だが、そのとき交わした約束はしっかり覚えていたし、それが心の支えになっていた。いつか、きっと迎えに来る。そう信じることで、つらい毎日に耐えられた。  厳しい躾に耐えていた頃の自分自身を思い出してしまい、亜紀は涙ぐむ。するとそれに気がついたのか、それまで前にいた和明にそっと抱き寄せられた。温かいものに包まれて、亜紀は涙をこぼしながら抱きしめる男の体に身を委ねる。 「あの指輪を見たとき、焦ったよ」  唐突に和明が話し始め、亜紀は目を大きくさせた。指輪を取り上げられた日のことを思い出し、胸が痛む。 「あの指輪は、御守がわりだったの。それを急に取り上げられて、悲しかった」 「まさか、持っていてくれていたとは思わなかったんだ。あっちに戻ったら必ず返す。つらい思いをさせてしまって本当に済まなかった」  亜紀は頭を横に振った。謝罪の言葉より何よりも、和明が過去の出来事を話してくれたことが嬉しかったからだ。それまで胸につかえていたものが、みるみるうちに溶けていく。  伊豆行きを決めたとき、亜紀はある思いを抱いていた。それは和明に切り出しても、嘘をつかれたならば、そのときは心を閉ざしたまま結婚するつもりだった。  だが、和明は話してくれた。それが何よりも嬉しくて、亜紀は体を震わせて涙を流す。 和明に抱きしめられながら蛍へ目をやると、闇の中で近づいたり離れたりを繰り返している。その様が、今までの自分達のように見えた。  しかし、時間は掛かったけれど、ようやく今重なることができた気がする。それを実感することができて、亜紀は嬉しかった。
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