40 / 40

第40話 七章 1

「なに、難しい顔してるんだよ」  急に話しかけられて、亜紀は現実に引き戻された。声がした方へ目を向けると、スーツ姿の剛毅がすぐ後ろに立っている。心配そうな顔を向けられていたけれど、亜紀は笑みを作って見せた。  朝の詰め所は出勤したばかりの医師と、これから帰る夜勤の医師がいて、そこに看護師もいるものだから、密度が高い。その様子を眺めながら、亜紀は席を立ち上がり、剛毅とと  もに空いているソファへ向かった。 「今日はどんな用事?」  亜紀がソファに腰掛けると、剛毅は面倒くさげに隣に腰掛けた。 「今日は和明さんの手伝い」 「え?」 「今日は今年度以前の経営状況を調べることになっている。なんでも、過去の経営状況を見てひとつの指針にしたいそうだ」  ぶすっとした顔を向けられてしまい、亜紀は苦笑する。 「いままで通りの方針でやっていくと、そう遠くない将来患者に見向きもされない病院になる。親父はそう言っていたから、良い機会だと思う」 「叔父さまの思うとおりの結果が出るって、なぜ分かるの?」  亜紀が問いかけると、剛毅は黙り込んだ。  理事となった和明が、どのような結果をはじき出すかは分からない。しかし、彼は病院経営のプロだと自ら言い切っていたし、どんな状況であっても冷静な判断をするはずだ。となると、叔父が望んでいる結果に限りなく近いものを和明がはじき出すかもしれない。  だが、問題はそのあとだ。幾ら前向きな結果が出たとしても、祖父がそれを認めない限り表に出ることはない。下手を打つと、握りつぶされてしまうだろう。亜紀が不安を募らせていると、それまで口を閉ざしていた従兄弟が声を潜めて話し出した。 「過去の財務資料を出してほしいと和明さんが言ったら、爺さんは断ったそうだ。今までなんの問題もなかったのに、なぜそれをするのかと。そうしたら伯父さんが、爺さんを説得したらしい」 「お父さまが?」 「ああ、どういうわけか、ふだんは爺さんの言いなりになっている井川さんも、それに何も言わなかったっていう話だ。変な話だろ」  苦笑を向けられたとき、亜紀は直感的に思った。父親と和明の計画が動き出したのだと。あのとき父親はどのような計画なのか、教えてくれなかった。しかし、今の話を聞けば、どのようなものかなんとなく分かる。二人の計画、それは上条会の一掃だ。そうとしか思えない。  ただ一つだけ疑問に思ったことがある。どうてし井川が祖父に反旗を翻すような真似をしたのか分からない。井川は確か、祖父のツテで理事になった男だし、一番の側近だった男だ。そこが気になり、亜紀は剛毅に問いかけた。 「ねえ、井川理事ってどこから来たか分かる?」 「退任した二人の理事は婆さんのツテで来たことは知っているが、井川理事は分からないな。恐らく関連団体のどこかから引っ張ってきたと思ってたが……」  祖母が関わっていることを知ったとき、すぐに浮かんだのは北条会だ。北条会は、北海道全域で多くの病院や福祉施設を運営している。和明は、二つの団体のあいだに不正な資金のやりとりがあると踏んでいるようだった。  不正がどんな部分を差しているのか分からないだけに、不安ばかりが募る。亜紀は不安をひた隠し、それとなく話をそらそうとした。 「そう。でも良いことじゃない」 「え?」 「叔父さまが望む結果に繋がるといいわね」 「ああ。診療の質の向上は、昔から親父が言ってたことだからな。経営の見直しが、それに繋がればいいなと思ってる」  剛毅がネクタイの結び目に指をかけて緩めながら話す。 「どこの病院を選ぶかは、最終的には患者の判断に委ねられている。そのためには患者一人一人と時間をかけて向き合い、最後まで付き合う姿勢が医師に求められる。それなのに、現実はそれができていない。医師の数を増やせばいいと言ってるやつもいるが、数を増やしたって質が向上しないかぎりはな……」 「叔父さまは、ずっとそう言っていらした。そういう病院ならば、選ばれ愛されるのだと」  叔父がそういうことを主張するには理由がある。曾祖父がその信念のもと、病院長になっても変わらず患者と接していたのを見続けてきたからだ。そして、父親も信念を持って診療を続けていたに違いない。恵理のこともあっただろうが、それはきっかけのひとつにすぎないのだから。 『毎週私が伊豆に行っていたのは、恵理を診るためだ。病院にいる医師を信頼していないわけではないが、彼女が生まれたとき、診断したのが私だったから。それに、お前の姿が重なって見えていたから、少しでも長く関わりたかったというのもある』  父親は恵理を診察しながら、祖父の元へ行かせた自分を思っていたという。父親から本音を聞かされたときのことを思い出したら、胸がじんと熱くなった。亜紀は、体の内側からせり上がってくる熱いものを押さえこむ。 「和明さんは、アメリカでそういう病院を山ほど見てきたらしいし、そういった病院が最後に選ばれることをわかってんだな、きっと」 「詳しいことは知らないけれど、長い間向こうの病院経営に関わっていたらしいし、そうかもね」 「まあ、どうなるか分からんが、やるだけやってみる。といっても、手伝いにもならんかもしれないがな」 「そう言ってないで、頑張ってよ」  大きな背中に手を添えて励ますと、剛毅はソファから立ち上がった。 「さてと、そろそろ行ってくる。これを機に経営について勉強もしないとな」 「これも仕事なんだから、ちゃんとやってね。くれぐれも寝ないように」 「分かった。じゃあ、またあとで」  そう言った後、剛毅は手を振って庭を立ち去った。亜紀はその後ろ姿を見て思った。いままでの流れが変わりつつあると。そしてその流れを作るために、和明はやって来た。  二人が立てた計画は始まったばかり。二人がたどり着こうとしているところが分からないだけに、亜紀は不安で仕方がなかった。  同窓会は、上条病院から少し離れた場所で行われた。  仕事を早めに切り上げて向かうと、店の奥にある部屋で既に始まっていた。  部屋に入ると、さほど広くない座敷に十人に満たない友人たちがいて、それぞれ盛り上がっていた。その面々を見ると、彼らと過ごした大学時代に気持ちが戻ってくる。  あの頃は、必死だった。ようやく医師への第一歩を踏むことができたとはいえ、それは始まりにしか過ぎなかった。人間の生死に関わる仕事なだけに、学ぶべきものが多かったし、知識だけでなく経験を積まなければならない。だから大学時代の思い出を振り返ると、楽しいものばかりではなかった。  しかし、同じ志を持つ友人との思い出は別だ。それに、かつての恋人とのことは特に。そこにいる友人たちの姿を見渡しながら、亜紀は嘉納の姿を探し始めた。 「上条さん、こっち」  懐かしい声がした方へ目をやると、かつての恋人が笑みを浮かべながら手招きしていた。その姿は、最後に目にした姿とさほど変わっていない。ただ、少し疲れているようにも見えたが、気になるほどではなかった。亜紀は懐かしそうな目で、嘉納を見る。  人のよさそうな柔和な顔立ちは、学生時代から何ら変わっていない。年を重ねてはいるけれど、それが年相応の落ち着きを感じさせた。向けられたまなざしが春の日だまりのように優しくて、自然と笑みが漏れていた。座敷に腰を下ろしている友人たちに挨拶しながら嘉納へと近づくと、隣の席がおあつらえ向きのように空いていた。そこに腰を下ろし、亜紀は嘉納に挨拶する。 「久しぶりね、嘉納さん」 「久しぶりだね」  そう言い終えたあと、嘉納が顔を陰らせた。 「以前学会で見かけていたけれど、声を掛けるのがためらわれた。だって……」  自嘲するかのような笑みを向けられて、亜紀もまた同じような表情で返した。 「仕方がないわよ。お互い忙しかったし」  申し訳ない気分になって顔を俯かせると、嘉納から急に問いかけられた。 「ところで、結婚が決まったって聞いたけど……」  遠慮がちに尋ねられ、亜紀は笑みを浮かべて頷いた。 「ええ。来年の春に」 「そうか。おめでとう。お相手は医者?」 「違うわ。といっても、病院経営に携わっているから、一応は関係者になるわね」 「なら、上条病院の行く末は安泰だな。きっとお相手は、亜紀のことを支えてくれるだろうし」  我がことのように喜ぶ嘉納の姿を目にして、亜紀は胸が痛んだ。どう返事をしていいか、分からない。曖昧な笑みで返すと、嘉納がぼそりとつぶやいた。 「できれば、俺が亜紀の隣にいたかったけどな……」  その言葉を耳にしたとき、亜紀は思わず目を閉じた。学生時代ならいざ知らず、医師として働き始めたあとも付き合いをしていれば、いずれ結婚を意識せざるを得ない状況になってくる。その前にどうにか手を打ちたかった。己が背負っているものを、背負わせたくなくて。だから、亜紀はあえて連絡を絶った。そして嘉納からの連絡も途絶えた。  今思えば、もっと良い方法があったかもしれない。ちゃんと話し合って別れていたならば、嘉納に罪悪感を抱かせずに済んだのにと。ずっと心の奥にしまい込んでいた後悔が頭をもたげ出したが、亜紀は気を取り直す。所詮、今更だ。 「でも、そうしていたら、今のあなたはいないわ。フィラデルフィアはどう?」  連絡が途絶えた直後、嘉納はフィラデルフィアへ渡っている。研修医時代に世話になった指導医の力添えで留学し、そのまま今も働いていた。  そして、そこで出会った女性と結婚したと風の噂で聞いている。それを思い出し、ふとグラスを持つ左手を見ると、それを示すように結婚指輪がはめられていた。亜紀が指輪を眺めていると、嘉納が言いにくそうに話し出す。 「実は、日本に戻ることにしたんだ」 「そうなの? てっきりそのまま向こうにいると思ってた……」  指輪から視線を逸らし嘉納を見ると、都合が悪そうにしていた。嫌な予感がする。不安を抱きながら嘉納を見つめていると、思い詰めた表情でグラスに残っていた酒を飲み干していた。 「あのまま向こうにいても良かったんだが、ね」 「何か、あったの?」  意を決し尋ねると、それまで思い詰めていたはずの表情が一変した。嘉納が体の向きを変え、笑みを向けてきた。 「週明けから同僚になる。よろしく、上条先生」  急に嘉納から手を差し出され、亜紀は目を大きくさせた。  同窓会が終わったのは、夜更けを少し過ぎた頃だった。  亜紀は友人たちと別れたあと、和明にメールを送る。すると、すぐに返事が届いたが、その内容に驚きを隠せなかった。 『すぐ、迎えに行く』  思いがけない返事が届き、亜紀は思わず隣にいる嘉納を見た。同窓会が終わったあと、二人は店のカウンター席に座って話し込んでいたのである。話の内容は、別れていた四年のあいだの出来事だ。  嘉納はフィラデルフィアに渡ったあと、そこで働く看護師と付き合いだし、間もなく結婚していた。しかし、その翌年には離婚しているという。それがもしかしたら、このたびの帰国に関係しているような気がしたけれど、嘉納は違うと言い切っていた。  ならば、どのような理由なのか気になったけれど、 当人は話そうとしない。もやもやとしたものを抱えながら、世間話に興じているうちに、店の閉店時間が迫っていた。  亜紀がメールを眺めていると、 隣にいる嘉納もまたスマホを操作し始めた。しばらくそうしていると、急に嘉納が席から立ち上がり話しかけてきた。 「じゃ、俺はそろそろ帰るよ」 「え?」 「今日は会えて嬉しかった。あと、週明けからよろしくな」  優しい笑みを向けられて、亜紀もそれに笑みで返した。別れの挨拶を済ませると、嘉納は店を出ようと歩き出す。その後ろ姿を見ていると、そのとき店の格子戸がからりと開いた。店の外にいたのは和明だった。  嘉納が店を出ようとして、スーツ姿の和明の脇を通り過ぎようとした。そのとき、二人の視線がぶつかったように見えた。だが、二人の視線はすぐに離れ、和明が店の中に入ってきた。そして、嘉納が座っていた席に腰を下ろす。 「待たせた。悪い」  亜紀は二人の男の視線がぶつかったときのことを振り返り、隣にいる和明を見た。 「ううん、ついさっき終わったばかりだから」 「そうか。じゃあ、帰ろう」 「うん……」  今し方目にしたものは、ただの偶然だ。  亜紀は、そう自分自身に言い聞かせ、気を取り直して和明とともに店をあとにした。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!