39 / 40

第39話 離婚二日前 1

「おはよう」  声がした方へ目をやると、詰め所の隣にある休憩室から嘉納が出てきたところだった。夜勤明けであっても、嘉納はすっきりとした顔をしている。しかし、よく見ると顎の辺りに小さな傷がある。  そういえば、嘉納はひげそりするたび、小さな傷を作っていた。それを思い出し、亜紀は苦笑する。手術のときはあれほど正確にメスを扱えるのに、カミソリや包丁はそうではない。そんなギャップにも心惹かれたのは、もう十年以上前だ。それを思い出したら、重く沈んでいた心が少しだけ軽くなった。 「上条先生。今僕のことを笑いましたよね」 「えっ?」  すぐ背後から嘉納の声がして、亜紀は驚き振り返った。すると嘉納からにっこりとほほ笑まれる。 「この傷が上条先生の笑顔に繋がったとみていいんですよね」  亜紀が見つめる中、嘉納は傷がある当たりを撫でさすりながら、他人行儀な言葉で問いかけた。 「相変わらず不器用ね。メスは正確に扱えるのに」 「あのね、メスとカミソリは別物だって、昔教えただろう?」 「そうかしら、同じだと思うんだけど」 「それ偏見だって、昔も言った」  お互いに、付き合っていた事実を過去のものとして受け止めているからこそできる会話だ 「でも、まあ、いいか」 「ええ?」 「いや、ずっと暗い顔をしていたから、さ。なんかあったのか?」   嘉納から尋ねられ、亜紀は苦笑する。 「それ」 「え?」 「何かを抱えているとき、いつもそんな顔して唇噛むんだ、クセだよな」  嘉納から指摘されたとき、和明からも指摘されたことを思い出した。伊豆へ行こうと誘ったときだ。あのときが一番幸せだったような気がする。その後の出来事を振り返れば、そう思わずにいられない。できることならあのときに戻りたい。でも、そのときから、いや最初から和明の心には自分はいないだろう。そう思うと、一度は軽くなった気持ちが再び重くなる。 「何があったのかは分からないが、僕でよければ話を聞きますよ」 「えっ?」 「あのとき、背中を押してもらったから、そのお返し。っと、そろそろ帰らないと」  そう言って嘉納は慌てながら立ち去ろうとする。その背中を見つめながら、亜紀は寂しげにほほ笑んだ。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!