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第38話 六章 5

 自分以外の誰かの気配がして、亜紀は目をさました。  考え事をしているうちに、どうやら眠ってしまっていたらしい。  ぼんやりとしながら起き上がる、体に掛かっていたブランケットがめくれ上がった。亜紀はガーゼのブランケットをたたみながら、無意識のうちにキッチンへと目を走らせる。 「起きたか」  キッチンにいた和明と目が合った途端、体が温かくなった。それと同時に、もの悲しさを覚えてしまうのは、窓から差し込む日差しのせいではないだろう。西に傾いた日差しによって温められた空気が、リビングに満ちていた。亜紀は起き抜けのおもだるさを感じながら、ソファから立ち上がる。 「まだ、寝ていて良いぞ。疲れているんだろう?」 「もう大丈夫よ。ぐっすり寝ていたらしいから、すっきりしたわ」  和明を見ると、苦笑を向けられた。 「だろうな」  スーツ姿ということは、自分が眠っていた間どこかへ出かけていたのだろう。そして帰宅に気づかないほど、深く眠り込んでいたに違いない。和明から向けられた苦笑を見て、そう思った。悪いことなどしていないのに、いたたまれない気分になる。それを表情に出さないようにして、亜紀はキッチンへと足を向ける。 「腹、減ってるだろ。もう少しで出来上がるから、席に座って待ってろ」  亜紀が近づいていることに気づいたからか、和明は調理した料理を手早く皿に盛り付け始めた。キッチンに入ったとき、ふいにシンクへ目をやると洗い物が残っていた。亜紀はそれを洗おうと手を伸ばす。 「手伝ってくれることはありがたいが、食べ終わった食器と一緒に洗うつもりだから手をつけるな」 「あっ。ごめん、なさい」  咎められたわけではないのに、つい謝っていた。亜紀は、気まずそうにそろそろと手を引っ込める。すると、料理を盛り付け終わった和明が、申し訳なさそうにしている亜紀の側に寄る。 「別に叱ったわけじゃない。だから、唇を噛むな」 「え?」  無意識のうちに唇を噛んでいたらしい。下唇を確かめると、濡れていた。 「気づいてなかったのか、癖に」 「癖?」  和明を見上げると、困ったような顔をしていた。 「我慢していることがあると必ず唇を噛んでいるんだ」  そう言えば、以前にも指摘されたような気がする。確かそれを言ったのは、四年前に別れた恋人だった。すっかり忘れていたけれど、その元恋人と来週顔を合わせることになっている。同窓会があることを和明に言おうとしたら、唇に温かなものが触れた。 「唇を噛みすぎると、傷ついて腫れてしまう。だから、どんなことがあっても我慢するな」  唇を指でそっと撫でられた。傷が付いていないか確かめるためにそうしているのだろう。それが分かっているというのに、体が熱を帯びてくる。指の動きに意識が向かい、心臓がとくとくと脈打つ音と振動が体に響く。和明を見上げると、目が合った。  そのとき、時間が止まったような気がした。亜紀は息をするのも忘れ、心臓の音を聞きながら、和明をじっと見つめる。どちらからともなく、顔が近づいていた。亜紀は無意識のうちに唇を開き顔を傾ける。しかし、唇から指が離れた。 「これをテーブルに運んでくれ」  亜紀は、閉じかけたまぶたを開いた。それまで目の前にいたはずの和明が、少し離れた所に立って、料理を盛り付けた皿を差し出している。和明の急な行動に動揺してはいたけれど、気を取り直した。 「分かったわ」 「助かるよ、ありがとう」  亜紀は和明から手渡された皿を受け取ると、ダイニングへと向かったのだった。  亜紀は食事をとりながら、和明をちらちら盗み見ている。  それは、急にキスをやめたことが引っかかっていたからだった。  もしかしたら、思い違いだったかもしれない、しかし、和明は確かにキスしようとしていた。顔がゆっくりと近づき目を閉じようとしていた。形のいい唇がうっすら開き、期待が高まったそのとき、唇から指が離れた。そのときのことを思い返せば、気分が落ち着かなくなってくる。キスだけで、こんなに動揺したのはいつ以来だろう。そんなことを考えているうちに、亜紀はあることを思いだした。 「金曜日の夜に大学時代の同窓会があるんだけど、遅くはならないから、週末伊豆へ行かない?」  亜紀が切り出すと、和明は箸を持つ手を止めた。探るような目を向けられて、居心地が悪くなる。亜紀は伊豆へ行くもっともらしい理由を挙げ連ねた。 「父からも言われたの。できるだけあなたと一緒に過ごす時間を持ってほしいと。あなたは週明けにはシンガポールへ発つし、結婚式まで戻れない。それなら、週末伊豆で二人きりで過ごした方が良いかもしれないと思って」  亜紀はまっすぐ和明を見た。祈るような気持ちで見つめていると、和明が箸を置いた。 「二人で過ごすだけだけなら、ここだってできる。現に今、二人で過ごしているじゃないか」 「そうだけど、もう一度蛍が見たいの。蛍はここでは見られないし」 「金曜の夜は同窓会なんだろう?」 「遅くはならないわ。もしも遅く起きてしまっても土日だし、問題ないと思う」  再び探るような視線を向けられたけれど、亜紀は耐えた。祖父母の教えを今ほど有り難く感じたことはない。厳しい躾のおかげで、どのようなときであっても動揺を見せないようになっていたからだ。しばらくにらみ合いに近い状態でいると、予想外の言葉を掛けられた。 「何があった?」 「え?」 「亜紀、答えろ。何があったかと聞いている」  和明の表情が険しいものに変わった。それに怯みそうになったけれど、亜紀は平然とした顔で答える。 「別に、何もないわ。ただ蛍が見たくなっただけよ」  そう答えると、和明は苦々しい顔で席から立ち上がり、目の前から去っていった。  シャワーを軽く浴びたあと、寝室へ向かう頃には日付が変わっていた。  ベッドに体を横たえると、亜紀は隣で眠る和明の大きな背中を見始めた。  手を伸ばせば、すぐに触れられるところにいるはずなのに、やけに遠く感じる。急に心細くなってきて、無意識のうちに体をすり寄せると、触れたところがぬくくなりようやく人心地つくことができた。パジャマの布越しに伝う硬い体に顔を寄せ、亜紀はそっとまぶたを閉じる。  すると、寝ているはずの和明の体が動いた。うとうととし始めていた矢先のことだけに、亜紀は慌てて体を離そうとした。だが、寝返りを打った和明に抱き寄せられてしまう。たくましい腕に抱かれたままじっとしていると、頭上から和明の声がした。 「眠れないのか?」  けだるげな低い声で問われたが、何も答えずじっとしていると、答えを促すように強い力で抱きしめられた。硬い体に押しつけられそうになり、どうにか押しのけようとしたけれど叶わなかった。  和明のぬくもりと匂い。そして体を抱きしめるたくましい腕。それらのせいで、体から徐々に力が抜けていく。同時にそれまで抱いていた不安が、ゆっくりと溶けていった。  亜紀は和明の背中に腕を回し、シャツをぎゅっと握り締める。するとそれに応えるように、和明が覆いかぶさってきた。耳に唇を押しつけられてしまい、肩が勝手に竦んでしまっただけでなく、思わず声が漏れてしまった。 「ん……っ」  亜紀が艶めいた声を漏らしてしまったことに気をよくしたのか、和明が小さな耳を執拗に舐り始めた。耳に這わされる舌の動きに合わせて、聞くに堪えない音が立ち上がる。まるで耳を犯されているような気になってきて、体の奥が一気に火照りだした。  下腹の奥に生じた疼きに耐えかねて、両脚を閉じようとしたら、和明の膝が両脚のあいだに入り込んできた。ナイトドレスの裾をたくし上げながら、大きな手が亜紀のほっそりとした足をなで上げる。  指先が触れるか触れないかのところで腿を掠め、そこからぞくぞくと震えが走る。亜紀は、切なげな表情で体を捩らせた。だが、和明によって身動きできないように押さえ付けられている以上逃げ出すことなどできるわけがない。その間にも和明の指先は亜紀を苛んでいた。  それまで嬲られていた耳を軽く噛まれてしまい、亜紀はとっさに声を詰まらせる。思わず開いた唇はすぐに塞がれた。柔らかなものを押し付けられて、同時に更にきつく抱きしめられる。出迎えるように舌先を伸ばすと、熱い舌が入り込んできて、尖った舌先がまるで味わうようになぞり始めた。  寝室に、舌が絡まりあう音と二人の息遣いが響き始める。それとともに、体の火照りが酷くなり、どんどん理性が溶けていく。  たとえこの先どのようなことが起きたとしても、和明に対する気持ちは変わることはないだろう。それは、和明に求められるだけで、女に生まれて良かったと思わずにいられないからだ。それを言葉にして伝えたいけれど、心から溢れ出るものをそのまま言葉にしてみても、全て言い表せないような気がした。  亜紀は和明の首に腕を回し、より深く口づける。  だが、心に根付いてしまった不安は、消えてはくれなかった。
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