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第37話 六章 4

「詳しい事情は分からないが、どうも私達が別荘に越してくる一年前に、和明は母親を亡くしたらしいんだ。それで、守り役の親子とともに暮らしていたんだと思う」 「その娘さんが森崎さんなのね」  亜紀が尋ねると、父親は頷いた。 「あの頃は毎日が楽しかった。爺さんや婆さんのことなど考えずにいられたし。その甲斐あって聡子は健康を取り戻していったんだ。伊豆に来たときは、もう心身共に疲れ果てていたんだろう、泣いてばかりいたんだよ。でも、少しずつ回復していったんだ、明るい聡子に」  父親が懐かしみながら話す姿を、亜紀は眺めていた。 「和明が住んでいた家とは、庭同士が隣接していた。だから、たまに和明や茜ちゃん、茜ちゃんの父親の姿は見かけていたんだが、伊豆の診療所を再開させたばかりだったこともあって、声を掛けられないまま半年が過ぎた」 「そういえば恵理さんから聞きました。その診療所の機能を生かして、いまの町立病院にまでしたと。恵理さんのお父さまのお力もあったでしょうが、お父さまの強い意志と情熱がなかったら、きっとあそこは今も病院がなかっただろうって」  往診した恵理の父親は、そこの議員だった。生まれたばかりの恵理の様子がおかしいからと、診療所に駆け込んできたのが縁で知り合ったという。そして町立病院建設に携わっていたらしい。その話を恵理から聞かされたときは、驚いたものだった。 「当時、一番近い病院でも一時間以上掛かっていたし、診療所も閉鎖していたからね。お前の曾祖父、つまり私の祖父が開いた診療所はすっかり廃屋になっていたよ。お前をおんぶした聡子と一緒に片付けから始めて、ようやく診療所としての許可が下りた。そして診察を行っていたんだが、爺さんから横やりが入ってね。そこで恵理の父親の力を借りたんだ」 「どういうこと?」 「恵理の父親はただの町議会議員じゃない。中央の太いパイプを持っている人間なんだよ。そこで爺さんの動きを止めてもらったんだ」 「どうやって?」 「上条診療所の必要性を強く訴えただけだよ。元厚生大臣がね。それで爺さんは何も出来なくなったんだ。爺さんは、政治家との付き合いを続けていたから。それで平穏を取り戻したある日、聡子が和明と茜ちゃんに声を掛けたんだよ。そこから和明との長い付き合いは始まったんだ」  そう言って、父親は紙コップに残っているコーヒーを飲み干した。 「和明がお前と結婚したいと言い出したときのことは、今でも覚えている。お前が一歳になろうとしていたときだ。そのとき和明は十二歳、何をとち狂ったかと思ったよ」 「確かに、そう思っても仕方がないわよね……」 「あいつは家族との縁が薄い。だから私達親子の姿に、自分と両親の姿を重ねていたんじゃないだろうかと思うんだ」  和明が、どのような少年時代を送ったのかは分からない。ただ、今まで彼が発した言葉と父親からの話を聞けば、決して恵まれたものではなかったと思われる。だからあのような言葉が出たのだ。亜紀はそう思った。 「和明にそう見えていた裏では、いろいろあったよ。おとなしくなったはずの爺さんが騒ぎ始めたから」 「え?」 「聡子の実家が倒産したんだ。もう援助は必要なくなったし、聡子はもう出産できない状態だったから、これ幸いとばかりに離婚しろの一点張り。あれには正直参った」  その当時のことが思い出されたのか、父親の表情が曇る。確かに祖母はことあるごとに、母親に対して離婚を促すような言葉を掛けていた。それを思い出してしまい、亜紀もまた表情を曇らせる。 「しかし、こっちに戻って亜紀の養育を任せてくれれば何も言わない、そう言っていたんだ。若かった私はそれを受け入れた。だが、それがそもそもの間違いだったんだ。もしも、言われた言葉など聞かずにいたら、お前は苦しまなかったんじゃないかと」 「お父さま?」 「そうすれば、お前は心を煩わせずにいられたんじゃないか、家のことも、和明のことも。聡子はいずれそうなることを分かっていたから、あれほど反対したんだ。それなのに、私は……」  吐き出すようにそう言った後、父親は苦しそうに顔を歪め目を閉じた。 「お父さま、これを」  そう言って亜紀は剛毅から借りた写真を父親に差し出した。父親はそれまでずっと胸につかえていたものを吐き出したからか、落ち着きを取り戻していた。  亜紀の目の前で、父親は懐かしそうな目で写真を眺め始めた。しばらく写真を眺めたあと、父親は深いため息を吐く。 「随分と懐かしい写真だな。これは兼元が撮ったものだ。美音子さんと剛毅に見せるためにね。この誕生日の翌日、私たち三人はこっちに戻ったんだよ。そしてお前は……」  兼元と美音子は剛毅の両親だ。急に父親が表情を曇らせる。 「それから先は、おぼろげにしか覚えていないわ。剛毅と一緒に、おじいさまとおばあさまのもとに行ったのよね」 「家の敷地内に小さな離れがあるだろう? そこに私と聡子が住んでいたのだが、母屋に近づくことを許してもらえなかった。お前を跡取りとして教育するためだからと」  三歳の誕生日の翌日から、祖父母のもとに引き取られ、厳しく躾けられた。余りの厳しさに耐えかねて、庭で泣いていたことも一度や二度ではない。そんなときは、必ず剛毅が大きないたずらをして祖父母にこっぴどく叱られていたのを覚えている。そのときを振り返り、亜紀は薄く笑う。 「離れと母屋を繋いでいる庭で、お前が泣いている姿を見ては、聡子は泣いていた。その姿を見るたび、私は悔やんだ。お前を跡継ぎにする為だからとはいえ、条件を飲んだことも」  父親の表情が苦しげに歪んだ。その姿を目にして、亜紀は言葉を詰まらせる。幼い頃庭で泣いていた姿を両親はつらい思いをしながら、見ているだけしかできなかったのだ。  母親が男児を産まなかったばかりに、父親は愛人の元へ通っているのだ。だから、父親を責めてはならないし、子供だからといって甘えてはいけないのだと言い聞かされたものだった。その話を聞かされるたび、幼い亜紀は孤独を感じた。両親と祖父母が同じ敷地にいて、共に暮らしているというのにだ。  ただ、ひとつだけ救いがあった。幼い剛毅がいつも側にいてくれたから、辛うじて亜紀は孤独にならずに済んだのだ。その頃を振り返れば、当たり前のことだが気持ちが沈んでいく。医師になって、祖父母のもとから離れられたはずなのに、彼らの存在を無視することができないし、未だに影響を受け続けている。  子供のころは分からなかったけれど、大人になると分かることがある。今なら幾らか分かる、両親がどのような思いであの小さな離れで暮らしていたかを。父親を見ながら、亜紀はそんなことを思っていた。 「私が誤った選択をしてしまったばかりに、お前をつらい目にあわせてしまった。和明は、そのときの私と同じ過ちを犯そうとしているようにしか見えない。過ちを犯している人間は、これでいいのだと思い込む余り、周りが見えなくなるものだ。あのときの私のように」  父親から頭を下げられてしまい、亜紀はどうしたらいいのか分からなくなった。  亜紀が自宅へ戻ったのは、翌朝だった。  玄関に入ってすぐに目についたのは、きちんと揃えられていた男ものの革靴だった。それを見て、亜紀は思わず腕時計を見てしまう。  いつもであれば、和明が家を出ている時間になっていた。亜紀がその靴を見下ろしていると、そこにちょうど良く和明がやって来た。 「亜紀?」  突然名を呼ばれてしまい、亜紀は勢いよく顔を上げた。すると、和明が廊下に立っている。シャワーを浴びていたらしく、ズボンだけ履いている和明の上半身が濡れていた。すっかり見慣れたものであっても、妙に気恥ずかしくなってしまい、亜紀はふいと目をそらす。 「おかえり。疲れただろう。早く上がって休め」  様子を窺うように和明を見ると、穏やかな笑みを向けられていた。和明の視線を感じながら靴を脱ぎだすと、廊下に立っていた和明が背を向けてリビングへ向かっていた。  和明の背中を追うように廊下を進むとリビングにたどり着いた。大きな窓からは、朝日がさんさんと降り注いでいる。亜紀は入り口で足を止めた。それは、あるものが目に入ったからだった。  視線の先にあるソファには、毛布が掛かっていた。肘掛けには、クッションが幾つか重なって置かれている。それに、ローテーブルの上にはグラスが置かれていて、酒がわずかに残っていた。それを見たとき亜紀は思った。和明はここで夜を過ごしたに違いないと。  和明がここで過ごしていた理由もなんとなく分かる。いつ帰るとも分からぬ自分を、待っていたのだ。それを知ったとき、胸が痛んだだけでなく罪悪感がいや増した。  申し訳ない気分のままソファへ近づくと、甘い香りがした。それに気がつき、キッチンの方へ目をやると、和明がプラナカンのマグカップを手に近づいてきた。 「これ飲んで待ってろ。すぐに朝食を用意する」  差し出されたマグカップを受け取ると、すぐに和明はキッチンへ戻っていった。湯気が立ち上がるココアを一口飲むと、温かいものが全身へ広がり、徐々に体から力が抜けていく。それだけでなく、心まで温かくなった。 『和明も茜ちゃんも、お前をとても可愛がっていた。だが、お前は和明にしか興味がないようで、私たちや茜ちゃんが抱っこしようとすると嫌がっていた。困り果てた茜ちゃんが和明を呼びに行って、連れてくるまでお前はわんわん泣くし。あれは本当に困ったものだったよ』  全てを話終えたあと、父親は昔語りをしてくれた。 『和明はしょっちゅう許しをもらいに私のところにやって来た。聡子は子供の言うことだからとのんきに構えていたが、そうは思えなかった。和明の目が真剣なものだったから。必ず幸せにする、守り抜く、だから亜紀と結婚させてほしい、和明はそう言っていた。思えばそのとき、違和感を抱いたんだ』  父親が抱いた違和感、それは守るという言葉だった。 『なぜ、和明は守り抜くという言葉を使ったのかが気になっていたが、いつの間にか忘れていた。多分、母親の死が関係しているんじゃないかと思っている』  その話を聞いたとき、亜紀の頭にあの指輪が浮かんだ。そして、そこに刻まれた愛の言葉も。あの指輪は和明の母親にとって、とても大事なものだったはずだ。だから、結婚の約束を交わしたとき、和明は母親の形見である指輪を贈ったのだ。  それなのに、なぜ和明はあの指輪を自分から取り上げたのだろう。昔交わした約束を果たしにきたなら、その約束を言わないわけがない。しかも、契約結婚を持ち出してきたのは和明だ。そこにどういう理由があるのかが分からない。分からないことはそれだけではない。和明は、なぜ過去を隠そうとしているのかも分からないままだ。伊豆へ追いかけてきたことが、何かを隠そうとしているように見えたから。  父親から過去の話を聞けたのに、疑念を完全には拭いきれなかった。そればかりか、新たな疑念が増える。亜紀は、眩しい日差しが差し込むリビングで、ココアを飲みながら考えを巡らせる。するとそのとき、キッチンの方から和明の声がした。 「来週からシンガポールへ行く。引き継ぎが残っているから」  突然告げられた言葉を耳にして、亜紀は目を大きくさせた。亜紀が驚いている間に、和明が亜紀に近づいた。 「恐らく、結婚式まで戻れない」  側にいる和明に目をやると、特に表情は変わっていなかった。 「そう……」 「俺がいない間、実家に戻っていてもいいし、こっちに行ても構わない」 「分かったわ」 「あと、何かあったら森崎に連絡してくれ」  事務的に話すものだから、すぐ側にいるのに遠く離れているような気にさせられた。和明がなぜ、こうまで自分と距離を置こうとしているのかが分からない。しかし、何も言えないまま、亜紀はココアを口に含む。甘いはずのココアが、今日はなぜだかかほろ苦かった。
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