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第36話 六章 3

 剛毅と別れたあと、亜紀は病院へ足を向けた。  それは、自宅に戻る気になれなかったからだった。  恐らく和明は自宅にはいないだろう。今までのことを振り返り、気持ちを整理するにはちょうど良い。しかし、和明や家族以外の気配が欲しかったからだった。  病院の敷地に入って産科の詰め所のあたりを見上げると、夜更けが近いにも関わらず、窓からは煌々とした明かりが漏れていた。詰め所に入ると、案の定ソファで仮眠をとっている医師がいて、亜紀はほっと安堵する。その姿を眺めたあと、和明へメールを出した。 『今日は病院に泊まります』  病院へ泊まる理由を添えるべきか、亜紀は悩んだ。しかし、こういったことは別に珍しくない。そう自分に言い聞かせ、自分の席につこうとしたとき、スマホがブルブル震えだした。 『どんなに遅い時間になってもいい。家に戻って休め』  亜紀は和明から届いたメールを眺めながら、ため息をつく。和明は医師という仕事を理解しているし、だからこそ余計なことで頭を悩ませないようにしてくれる。しかし、それと同時に不養生にならないように気遣ってくれてもいた。  だから届いたメールに書かれている言葉は、自分のことを心配した上でのものだと思う。でも、伊豆での一件や父親から聞かされた話のせいで、そう受け取ることができなくなっている。 『和明が伊豆へ行ったのは、確かに仕事もあったからだが、お前が伊豆へ行くと聞いたから、あわてて仕事をいれたんだよ』  その理由について、父親はこう話していた。 『知られたくないことがあるからだ。それが伊豆にあるから、知られる前に和明は手を打とうとしたんだろう。しかし、お前は事実の一端に触れた』  父親が言う事実の一端とは、祖父に黙って伊豆へ来ていたことで間違いない。それに、和明が隠したかったものと繋がりがあるのだと思う。亜紀は、剛毅から借りた写真を取り出した。  もしかしたら、和明が隠したいものとは、過去に自分と関わったことではないか。写真に写る和明の姿を眺めながら、亜紀は思った。だから、あの指輪を取り上げた、そう思えば合点がいく。  確かあの指輪には、刻印があったはずだ。それを思い出し、亜紀は記憶に残っている刻印をメモに書き留めた。  Love Kanako.Kazuhumi (愛してる、カナコ。カズフミ)  あの刻印に気づいたときは驚いた。贈られた指輪に自分の名前ではないものが、刻まれていたのだから。しかし、母親が父親からもらった指輪を、子供が婚約指輪にすることが有ると知ったとき、大事なものをもらったと受け止めていた。  もしもあの青年が和明ならば、あの指輪に刻まれていた名前は彼の両親だ。亜紀はラップトップの電源を入れて、まずは父親の名前を調べてみることにした。  すると亜紀の予想通り、和明の父親だった。結納の席で顔を会わせたときの姿が頭に浮かぶ。和明は自身のことを愛人の子供と言っていたから、彼の隣にいた女性は恐らく義母だろう。その義母の隣には、和明の弟が座っていたはずだ。それも恐らく義理の弟だ亜紀は確信した。  少年だった和明は、どのような気持ちであの指輪を自分に贈ったのだろう。大人になったら迎えにいくと約束を交わしたはずなのに、実際迎えに来たとき、和明はそのことを持ち出さなかっただけでなく、初めて会ったような素振りをしていた。それに指輪だって取り上げられてしまった。  それらを振り返ると、やはり和明は伊豆で自分と関わったことを、隠したいのだとしか思えない。それに、父親と和明が立てた計画を進めるためには、そうすることが必要なのだろう。亜紀が表情を曇らせて、和明からのメールを眺めていると、軽快な電子音がした。  ラップトップの画面に目をやると、メールが届いたサインが出ていた。亜紀は、和明に返事を送らないまま、届いたメールを開いた。  メールの題名を見ると、同窓会のしらせのようだった。そして、メールの宛先人を確かめたとき、亜紀は目を見開いた。  嘉納 永智(かのう えいじ)  メールの差出人は、かつて恋人だった男だった。亜紀は、懐かしむような目で、嘉納の名前を眺め出す。  嘉納は、亜紀と同じ産科医で初めての恋人だった男だった。大学時代から付き合い始め、医師となったあとも連絡を取り合っていたが、お互い忙しくなったことで自然消滅のように別れている。  その後、彼は渡米し、そこで出会った女性と結婚したらしい。その話を聞いたとき、何か大事なものを失ったような気がした。亜紀はそのときのことを振り返りながら、メールを開く。  同窓会は、来週の金曜日に行われると書かれていた。しかも、医学部全体のものではなく、同じゼミを受講したメンバーだけでやるらしい。カレンダーを見ると、奇遇にも同窓会の翌日は休みになっていた。親しくしていた友人たちも来るのなら、参加するのも悪くない。亜紀はそう思い、早速返事を送った。  それからすぐに届いたメールには、同窓会が開催される店の名前と住所が記されていたけれど、それ以外にひと言だけ書かれていた。 『元気だったか?』  嘉納からのメッセージを目にして、亜紀は寂しげな笑みを浮かべたのだった。  その電話が来たのは、そろそろ日付が変わろうとしていたときだった。  机の上に置いてある電話が鳴って、亜紀は受話器に手を伸ばす。 『亜紀か?』  電話を掛けてきたのは、父親だった。 「お父さま?」  受話器の向こうから聞こえてきた声が、父親のものであるとは分かっている。だが、つい確かめてしまったのは、こんな夜更けに父親から電話が来るとは思わなかったからだった。亜紀は怪訝な顔で、受話器を当てた耳を澄ます。 『和明くんからお前が病院にいるって聞いたんだが、今日は夜勤なのか?』 「え?」  父親から尋ねられ、亜紀は驚いた。和明に連絡してから一時間も経っていない。それなのに、父親が知っていると言うことは、短い間に連絡を取り合っていたことになる。 「調べ物をしているうちに遅い時間になっていたのよ。ところで、こんな時間にわざわざ電話してきたということは、何か急ぎの用でも?」  亜紀は訝しみながら、父親に問いかけた。 『ああ。さっき聡子から連絡が入ってな。お前と和明くんの結婚式の日取りが決まったから、それを教えようとして和明くんに連絡したら、お前がまだ帰っていないと聞かされてな……』 「そう、ですか。それで、いつ?」 『来年の三月三日。桃の節句だ。大安の土曜日になっている』 「そうですか。分かりました」  なるほど、そういうことなら連絡をしてもおかしくない。そう思ったら、無意識のうちに体から力が抜けていた。すると、意外なことが起きる。 『ところで、お前に話したいこともあるし、いまからそっちに行ってもいいか?』  思わず時計を見ると、日付が変わろうとしている。病院長である父親は、遅い時間でないと帰宅しない。しかし、日付が変わる頃まで病院にいるのは非常に珍しいことだった。 「いま、病院にいるの?」 『お前と同じだ。調べ物をしているうちにこんな時間になっていた。それでは、これからそっちに行くから、何か差し入れでもしようか? 温かいコーヒーはどうだ』 「え、ええ。じゃあ、お願いします」 『分かった。数分で行くから。またあとで』 「わかりました。お待ちしております」  そう返したあと、父親は電話を切った。  詰め所へ父親やって来たのは、電話を置いてから五分後のことだった。  父親は、詰め所で寝ている若い医師を見て、苦笑していた。  詰め所ではなんだからと誘われて、隣にある休憩室に移動したが、父親は何も話そうとしない。そう広くはない休憩室の真ん中で、白衣姿の父親と娘がコーヒーを飲んでいる。そこに会話があったなら、仲の良い親子に見えなくはないだろう。  でも、実際は違う。亜紀が知る限りでは、父親は家庭を顧みようともしなかった。しかし、それが本当の姿なのか、今では分からなくなっている。それは多分、以前聞かされた話のせいかもしれない。亜紀はそのとき聞かされた話を思い返した。 『前々から感じていたんだが、お前は父の影響を受けすぎているような気がする。何を言われてきたかおおよそ想像はつくが、それは本当のことでは――』  和明からの連絡がないことを一人で思い悩んでいたとき、聞かされた言葉だ。今、思い返せばそのとき、父親は真実を告げようとしていたのだろう。話を最後まで聞かなかったこともだが、不安を悟られまいとして、つい反抗的になってしまったことが悔やまれる。亜紀が目線を下げたそのときだった。 「亜紀?」  急に名を呼ばれ、亜紀ははっと我に返る。父親を見上げると、不安げな表情を向けられていた。気を取り直し、笑みを向ける。 「随分遅い時間まで病院にいらっしゃるのね」 「お前こそ。幾ら仕事が溜まっているからと言って、根を詰め過ぎないように、な」 「分かっています」 「半年後には結婚するのだし、和明くんと一緒に過ごす時間を大事にしてほしい。お前達に足らないものは、一緒に過ごす時間だと思うから」  向けられたまなざしは、とても真面目なものだった。掛けられた言葉が、父親の心からの願いのように聞こえるのはなぜだろう。  和明との結婚は、表向きは政略結婚だ。そこに信頼以上のものは必要ないはずなのに、父親はそれ以上のものを求めているような気がする。それは、恐らくあの写真を剛毅から見せられたからだろう。亜紀は、父親を見つめ返す。 「どうした?」 「い、いえ。そこまで気に掛けてもらっていたことに驚いてしまって……」 「娘のことを案じない親などいないよ。お前のことを、心配しなかったときなどなかった。だが……」  父親の表情が、みるみるうちに曇りだした。 「私はどうやら大きな間違いを犯したようだ」  思い詰めた表情を向けられた理由が分からず、亜紀は怪訝な表情で見つめ返した。 「もう分かっていると思うが、お前は産まれて間もない頃から三年、伊豆にいた。それは聡子を思ってのことだった」  日付が変わった休憩室は、壁に掛かっている時計の秒針の音が響いている。隣接する詰め所からは物音一つしなかった。そんな中、亜紀の目の前で彼女の父親が紙コップを持ったまま、昔語りを始めていた。 「私は若い頃遊びが過ぎて、勘当される寸前だった。そのとき聡子と見合いをさせられてね。始めの頃はどうしたものかと思ったが、関わるうちにいつの間にか惹かれていた。だから私と聡子は見合い結婚ではあるが、恋愛結婚だったと言っていい。そしてその一年後、お前が産まれた」 「その当たりはおばあさまから聞かされていたわ。お母さまの御実家の借財を肩代わりする代わりにお父さまと結婚したのだと」 「まあ、婆さんが言ったとおりだ。聡子の実家は呉服店を経営していてね。婆さんはそこからいつも着物を買っていたんだ。それで、目を付けたんだろう、聡子に」 「どういうこと?」  亜紀が問いかけると、父親は苦笑した。 「借財を肩代わりするからと言えば、自分の言いなりになる。そう思ったんだろうな。そんな嫁が欲しかったんだ、婆さんはな。その言いなりには、跡取りになる男を生むことも含まれている。そこは分かるね?」 「私が産まれたことで、お母さまは随分つらい思いをしたと思うわ。おばあさまが心ない言葉を掛けているのを何度も見たし」 「ああ、お前が産まれたときのことは忘れられたものじゃない。分娩室から病室に運んでいる間、聡子はずっとなじられていた。幾らやめろと言ってもやめてくれなかったよ。あれには本当に参った。出産がどれだけ肉体的に負担を掛けるものか分かっているのに、なぜそんなことができるのか、私は分からなかった」  その頃を思い出したのか、父親がつらそうな顔をした。そのとき、亜紀は物心ついたときから祖父母から聞かされた話が偽りだったことを確信した。 「退院の日を迎えて、家に戻った聡子を待ち構えていたものは、つらい毎日だった。それで体調を崩してしまい、伊豆へ療養させることにしたんだ。お前を連れて。そしてそこで和明と出会った。和明は隣の家に住んでいて、寂しい毎日を過ごしていたんだよ」  父親の口から和明の名前が出たとき、亜紀は見合いの席で聞いた話を思い出した。 『確かに俺は長男だが、愛人の子供なんでね。父親の跡は弟が継ぐことになっている。だから婿に入ることに問題はない。むしろ堺家としては大喜びだ。何せ厄介者がいなくなるんだからな』  和明は、自分のことを厄介者と卑下していた。もしかしたら、そういった扱いを受け続けていたかもしれない。そう思うと胸が痛んだ。
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