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第35話 六章 2

 その店は、上条病院からかなり離れた場所にあった。  剛毅から届いたメールに添えられた地図を頼りに向かってみると、大通りから外れた路地に行き着いた。その小路の突き当たりには、どこにでもあるような雑居ビルがぽつんと建っている。正面玄関のすぐ脇にある入り口がスポットライトに照らされていて、そこへ近づくと地下へと続く階段が見えた。  階段を下りると扉が見えた。木製の扉に掛けられている金属のプレートを見ると、店の名前らしきものが彫られていた。 【MIROIR(ミロワール)】  亜紀は店の名前を確かめるために、スマホに転送したメールを見た。ここが剛毅が指定した店らしい。亜紀はドアノブに手を伸ばし押し開いた。  重い扉を開くと、すぐにタバコと酒の匂いがした。亜紀は思わず顔をしかめさせる。薄暗い店内に足を踏み入れると、すぐに声を掛けられた。 「いらっしゃいませ」  声を掛けたのは、カウンターの内側にいた年配の男だった。亜紀は恐る恐る名を告げる。 「上条、ですが……」 「上条さまですね、剛毅さんなら、個室の方にいらしていますよ」 「個室?」  亜紀は思わず店内を見渡した。  レンガで埋め尽くされた壁に囲まれたフロアには、酒瓶がぎっしりと並べられた棚とカウンターしか見当たらない。ボックス席ならいざ知らず、個室があるとは思えなかった。不審がる亜紀を見て何かを察したのか、男がおもむろにカウンターの外に出た。 「上条さまがお越しになったら通すように言われております。こちらからどうぞ」  男について行くと、カウンターの脇に細い通路があった。案内されるまま奥へ進むと、引き戸があって、男がそれを開いたそのときだった。 「遅い! どんだけ待たせんだよ……」  引き戸が開かれた瞬間、剛毅の声がした。亜紀は驚いてしまい、目を大きくさせる。剛毅がいる部屋は、四畳ばかりの狭い部屋で畳が敷かれている。部屋を見渡しながら中に入ると、座椅子に座っていた剛毅から話しかけられた。 「メシ、まだだろ?」 「えっ、ええ……」 「じゃあ、なんか持ってくる」  亜紀の目の前で剛毅はすっと立ち上がり、そのまま部屋を後にしようとした。 「ちょ、ちょっと待って。ここ、バー、よね?」  引き留めると、剛毅は立ち止まり振り返った。 「ここはバーだよ。でも、ちゃんとした料理もあるから安心しろ。座って待っててくれ」  そう言って剛毅は部屋から出て行った。  剛毅が持ってきたのは、分厚いカツサンドだった。  なんでもそれが店の隠れた名物らしく、それだけを食べにくる客もいるという。亜紀は目の前で豪快に食べ始めた従兄弟を眺めたあと、手元に置かれた皿を見下ろした。  そこには一口大にカットされたカツサンドが乗せられている。それを一つつまんで食べてみると、とてもおいしかった。なるほど、これだけを食べに来る客の気持ちもよく分かるというものだ。 「それで、何かあったの?」  食事をとりながら、亜紀は剛毅に切り出した。  剛毅を見ると一気に食べ終えたらしく、指先をタオルで拭いていた。 「今日の理事会で役割分担を見直すことにしたんだが、経営の方をあいつ一人で受け持つことになったんだ。辞めた二人の理事がそれまで分担して行っていた仕事だから、かなりの量のはずだと親父が心配し始めてね。結局、俺がその補佐をすることで、親父は納得したが……」 「そんなことがあったの」 「理事会が終わったあと、その引き継ぎをしたんだが、あの量をあいつ一人で捌くなんて、とてもじゃないが無理だ。しかし、だからといって俺が補佐をしても、なんの役にも立てないんだが」  自嘲するかのような笑みを浮かべる従兄弟に、亜紀はなんと言葉を掛けて良いものか迷った。剛毅は、今の今まで病院の経営に関わったことがないだけに、与えられた役割を果たせる自信がないのだろう。  剛毅はとても優秀な医師だ。それに、学校での成績は亜紀よりずっと上だった。しかし、剛毅は自らの力をひけらかすような男ではない。今からでも勉強すれば、十分与えられた役割を果たせるはずだが、どんな言葉でやる気を引き出せば良いのか分からない。 「和明さんの側で勉強しながら、やることが一番だと思うわ。彼は病院経営のプロだから」 「それは親父からも言われたよ」 「ね、それが一番よ」  笑いかけると、剛毅は苦笑した。周囲の人間から、やれ軽薄だのお調子者だと言われているが、剛毅は根が真面目な男だ。やらなければならないことに対しては、限界以上まで頑張ってしまう節がある。しかし、そういう部分を誰にも見せたくないのだろう。一人で全部抱え込む。だからこそ、不安を吐き出せる相手が必要だと亜紀は思う。今は自分がその役目をしているけれど、いつまでもできるわけではない。いつか、心を許せる相手が現れてくれることを祈りばかりだ。亜紀がそんなことを考えていると、せき払いが聞こえてきた。 「実は、話を聞いてもらう以外に、お前を呼び出した理由があるんだ」  思い詰めたような表情を向けられて、亜紀は不安になった。剛毅は、これからどんなことを言おうとしているのだろう。それが気になって仕方がない。亜紀が見つめる先で、剛毅が意を決したように口を開く。 「お前、あいつと会ってんだよ。昔」 「え?」  亜紀はすぐに意味が分からず、怪訝な顔を剛毅に向けた。 「剛毅? 誰のことを言っているの?」 「和明さんだよ。今から三十二年前、俺たちが生まれた年から三年、お前は伊豆にいたんだよ。伊豆の別荘の隣は堺家の別宅で、そこにあいつがいたんだ」 「待って。分かりやすく説明して頂戴」  亜紀が希(こいねが)うと、剛毅は顔をハッとさせた。そして息を一つつく。 「亜紀、お前は産まれた年から三年伊豆にいた。覚えていないかもしれないけれど、俺は今でもはっきり覚えている。お前と初めて会ったときのことを。爺さんと婆さんの間に座って不安そうな顔をしていた。俺たちが三歳のときだ」  亜紀が覚えている一番古い記憶は、六歳のものだ。自分が覚えていない思い出話を聞かされると、どうにも恥ずかしくなる。しかし、今は恥ずかしさを感じるよりも、剛毅の話に耳を傾けるときだ。亜紀は次の言葉を待った。 「お前が伊豆にいた頃、和明さんも伊豆にいたんだよ。調べてみたら伊豆の別荘の隣家が堺家の別宅になっていた。多分、あの写真はその頃撮られたものだと思う」 「写真?」  亜紀が問いかけると、剛毅は側に置いていた黒いブリーフケースから白い封筒を取り出した。 「見せたいものがあるんだ」  そう言って、剛毅は真剣な表情で、テーブルの上にそれを置いた。 「これを見ればわかるよ。昨日、親父の部屋の整理をしていたときに、偶然見つけたものだ」  剛毅が置いた封筒を、亜紀は手に取った。中を確かめると、写真が一枚だけ入っている。それを見てみると家族写真のようだった。両親と思(おぼ)しき大人の間には三人の子供がいて、幼い子供を抱いた女の子と男の子が立っていた。両親と思(おぼ)しき二人の顔には見覚えがある。 「これって、もしかして……」 「伯父さんと伯母さん、一番小さいのがお前だよ。お前の横にいる男の子が和明さんだ。お前を抱っこしている女の子が誰かは分からない。写真の裏書きを見てくれ、いつどこで撮影したものか分かるから」  言われたとおりに写真を裏返してみると、見覚えのある字が書かれていた。 「叔父さまが撮ったのね」 「ああ、お前の三歳の誕生日に招かれた親父が、伊豆で撮影したものだよ。知っているだろ、親父が写真撮るの好きだって」  亜紀は頷きながら、裏書きの字を目で追いかける。 『亜紀3歳誕生日、和明、茜、兼秋、聡子、伊豆の別荘にて』  亜紀は裏書きを読んだあと、写真を再び見始めた。小学生の和明の隣にいる女の子は、和明の秘書である森崎だ。新居を訪れたときに渡された名刺には、森崎茜と書かれていたのを覚えている。だから両親は森崎や和明と、和気あいあいと話していたのだろう。  写真に写る和明の姿を眺めていると、あの青年の姿がピタリと重なった。今まで幾ら思い出そうとしてもできなかったのに。指輪をくれたのは和明だった。しかし、その指輪は和明に取り上げられてしまっている。  和明はどうして指輪を取り上げたのだろう。それに、自分と再会したときだって、二人とも初めて会ったような態度をとっていた。それに疑念を抱いてしまい、亜紀は考え込む。 「このほかにも写真はあったんだ」 「えっ?」 「親父、そのときの写真をたくさん撮っていたらしい。多分、俺やおふくろに見せようと思っていたんじゃないかな」 「そう、なの……」 「ああ。お前が伊豆にいた理由は分からないが、和明さんとはそこで会っている。それから三十二年後に見合いをして結婚するだなんて、なんだか出来すぎているような気がしないか?」  剛毅から尋ねられたが、亜紀は返事をしなかった。出来すぎているどころか、それはあらかじめ計画されていたものだ。だが、それを剛毅には話せない。  父親と和明が立てた計画のひとつが、上条会の理事になることだった。そのために、和明は自分の婿となったのだ。だから、見合いの席で契約結婚を持ち出してきたのだろう。亜紀にとって都合のいい条件を提示して。そこまでして、和明が上条家に入る理由はなんだろう。それを探そうとしたら、剛毅から尋ねられた。 「亜紀? どうした?」  亜紀は、動揺を見せないように笑みを作った。 「剛毅、この写真を借りてもいい?」 「……どうするつもりだ?」  剛毅から問いかけられたが、亜紀はすぐに返事をしなかった。  写真を借りて和明に突きつけたら、素直に全てを話してくれるだろうか。そんな期待が浮かんだけれど、多分彼は話してくれない気がした。  どんな理由で和明が自分の婿になろうとしているのか、分からない。だから不安になる。  父親は半年待ってくれと言っていたが、その間にいろんなものが変わってしまうような気がした。  偶然聞いてしまった話も、計画に関係あるのだろう。北条会と上条会の資金の流れを調べさせているのなら、そこに何かがあるということだ。  急にいろんなことが起き始めたような気がして、亜紀は不安を募らせた。今は、できれば一人で落ち着いて考えたい。これからのことを。 「ひとまず、一人で考えたいの」  亜紀が写真を見ながらそう言うと、剛毅が不満げな声を漏らす。 「……また、一人で抱え込むつもりかよ」  剛毅を見上げると、つらそうな顔を向けられていた。 「お前、いつもそうやって一人で抱え込んでばっかだったよな」 「剛毅?」 「好きな女がつらそうな顔をしているのを、見ているだけしかできないつらさがわかるか?」  剛毅は体を震わせながら、怒りをあらわにした。亜紀は何も言えなくなってしまい、ただ従兄弟を見つめている。だが、すぐに我に返ったのだろう。剛毅はバツが悪そうに顔を逸らす。 「……すまない。こんなことを言いたくて呼び出したわけじゃない。今言ったことは忘れてくれ」  剛毅の横顔を見ると、傷ついたような顔をしていた。亜紀は、胸の痛みに耐えながら口を開く。 「剛毅、あなたのことはきょうだいと同じように思ってる。でも、それ以上にはならないの」  すると剛毅は大きく息を吐いたあと、気まずそうに亜紀に目を向けた。 「あいつのことを本気で好きなんだろ? 結納のとき、お前があいつをかばったときわかったよ」  剛毅から自嘲するような表情を向けられてしまい、亜紀は寂しげな笑みを浮かべたのだった。
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