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第34話 六章 1

「そうか。お前が診察しても、そうだったか……」  父親が思い悩んだ表情で、ため息交じりに吐き出した。その姿を見下ろしながら、亜紀は小さく頷く。上条病院の中庭のベンチに座っている親子の周りに、重苦しい空気が漂いだした。  伊豆での出張を終えた翌日、出勤するなり父親に呼び出された。呼び出された理由は、恵理のことである。ベンチに腰かける父親の様子を窺うと、父親が出したものと同じだったらしい。  医師としての経験や技術は、勿論(もちろん)父親の方が上である。扱うものこそ異なるけれど、同じ仕事に就いてみるとそれを思い知らされた。その父親と同じ診断を下したことに、亜紀はほっと安堵した。  しかし、それとともに父親に疑念を抱いていた。頼まれて往診に向かったはいいけれど、それが伊豆行きの目的ではないような気がしたからだった。  確かに恵理の場合は往診が必要だ。だが、本音を言えば今すぐ入院が必要な患者ではない。むしろ様子を見ながら、必要に応じて入院の措置を執るべきだ。亜紀はそう思ったのだ。  父親がどのような理由で、往診を依頼したのだろう。その真意が分からない。それは多分、恵理からあの話――父親が週末に診療のため伊豆に来ていた話――を聞いたからだろうと亜紀は思う。  幼い頃から、父親は週末になると家を出て行った。それは愛人のもとへ行ったと思い込んでいたけれど、どうやらそうではないらしい。恵理から聞いた話では、自分と同年の彼女が生まれたときから、父親は伊豆の病院へ来ているという。  亜紀は、それを知らなかった。祖母から聞かされた話を、疑いもせずに鵜呑みにしたままになっていた。父親が週末出かけるのは、愛人のもとへ行っている教えたのは祖母だ。祖母はその話をしたあと、決まって母親のことを散々なじっていた。  祖母から聞かされ続けた話と、恵理から聞かされた話、どちらが真実なのかなど分かりきっている。だとしたならば、祖母が嘘を吐き続けた理由があるのだろう。その理由については思い当たる節がある。そのことを考えていると、父親の声が耳に入ってきた。 「伊豆の病院ではなく、こっちで出産させた方がいいな。ここならば心臓の専門医もいるし、万が一子供に何かあってもすぐに対応できる」  父親は厳しい表情を浮かべていた。 「……起こりえるすべてのリスクを想定すればそうなります」 「わかった。なら早速手配をしよう。伊豆の方にも連絡しておく」  そう言った後、父親がよいしょと言いながらベンチを立ち上がった。目の前から立ち去ろうとする父親に無意識のうちに問いかけていた。 「お父さま。お尋ねしたいことがあるの」  父親は背中を向けたまま、その場に立ち止まった。そしてゆっくりと、振り返る。 「なんだ? 気になるところでもあるのか?」  向けられた表情を見ると、真面目なものだった。亜紀は、二つの疑問をぶつけていいかどうか躊躇してしまう。伊豆行きの真意と和明のことだ。今聞かなければ、恐らくそのままになってしまうだろう。向けられている瞳を、じっと見つめながら、ゆっくりと口を開く。 「……なぜ私を伊豆に?」  亜紀が尋ねた直後、父親の表情がこわばったように見えた。目の前で父親は口を閉ざしたまま立っている。その姿を見つめながら返事を待っていると、父親から寂しげな笑みを向けられた。わざわざ言わなくてもわかるだろう、そう言いたげだ。 「なぜだと思う?」 「え?」 「どうして、わざわざ伊豆へ行かせたのか、薄々気づいているんじゃないか?」  真剣なまなざしを向けられて、亜紀は言葉を詰まらせる。それは、なんと返したらよいのか分からなかったからだった。  亜紀が何に気付いたのか、父親は分かっているようだった。それと同時に、自分を伊豆へ行かせたのは、恵理を診察することだけが目的ではなかったのだと確信できた。しかし、何も聞くことができないまま、亜紀はその場に立ち尽くす。 「伊豆へ和明が行っただろう。お前を追いかけて」  突然和明の名前が飛び出してきたものだから、亜紀は思わず父親を凝視した。 「え、ええ。伊豆で仕事があったから、立ち寄ったと言っていたけれど……」  別荘に和明がやって来たときのことを思い出しながら答えると、父親は苦笑した。 「和明が伊豆へ行ったのは、確かに仕事もあったからだが、お前が伊豆へ行くと聞いたから、あわてて仕事をいれたんだよ」 「なぜ、そんなことを?」  亜紀は怪訝な表情を父親に向けた。しかし、父親は口を閉ざしてしまい、何も言おうとしなかった。黙り込んだ姿は、言おうか言うまいか悩んでいるように見えた。  時間にすれば恐らく数秒のことなのに、それ以上の時間に思えたものだった。亜紀は父親を見つめながら、次の言葉を待っている。父親が発する言葉を一言一句聞き逃すまいと、亜紀は耳を澄ました。  父親と娘が白衣姿で向かい合っている庭に、暖かい風が吹き抜ける。息が詰まりそうなほど張り詰めた空気の中、庭に植えられているドウダンツツジや桜の葉がさわさわと音を立てながら揺れたそのときだった。父親が、深い息を吐く。 「知られたくないことがあるからだ。それが伊豆にあるから、お前が知ってしまう前に手を打とうとしたんだろう」 「え?」 「しかし、お前は事実の一端に触れた。そうだろう?」  父親から探るような目を向けられた。亜紀は父親を見つめ返したが、何も答えずにいた。すると、父親は娘の目をまっすぐ見つめながら口を開く。娘に向けるまなざしは、悲しげなものになっていた。 「お前のつらそうな顔を見るたびに、あいつは俺との約束を忘れてしまったんじゃないかと思わされる。今の和明は何を考えているか全く分からん。このままでは、間違った方向へいってしまうんじゃないかと思って、それでお前を伊豆に行かせたんだ」  思いがけない言葉を聞かされ、亜紀は目を見開いた。体が凍り付いたように動かなくなる。  それでもどうにか声を振り絞り、亜紀は父親に問いかけた。 「どう、いう、こと?」  その言葉を出すだけで精一杯だった。父親が和明と知り合いだったことはわかった。そして、二人の間に何らかの約束が交わされているということも。しかし、その約束を和明が守らないから、自分を伊豆に行かせたことと、それによりずっと隠していた事実に触れさせた。そこまでは分かった。だが、交わされた約束が分からない。  確か見合いは、両親が策を講じたものだった。ということは、当然母親も全てを知っているのだろう。そう思ったとき、亜紀は一人だけ取り残されているような気がした。 「亜紀。あと半年待ってくれないか?」  父親を見ると、寂しげな笑みを向けられていた。 「半年?」 「そうだ。その間お前は不安だろうが、お前は医師としての仕事に専念しろ。お前に和明を引き合わせたのは、理由があるんだ。だから―― 「その間、私一人だけが蚊帳の外ってわけね」  すると父親の顔がこわばった。亜紀はそれを眺めながら、薄く笑う。  和明と父親が、どのような約束を交わしているかは分からない。しかし、和明も父親も自分に対し求めるものはただひとつ。医師としての仕事を全うしろ、それだけだ。できることなら今まで通りそうしたいのに、和明と関わるようになってからそうさせてもらえない。  父親と和明の目的が分からないけれど、些細なことで心を乱してしまった自分が情けなかった。亜紀は、父親をにらみ付けながらゆっくりと口を開く。 「お父様に伝えたいことがあるの。私はいずれ和明さんとは離婚します。彼とはそういう契約を交わした上で婚約していますから」  父親は娘を凝視しながら、顔をこわばらせた。その姿を見たとき、亜紀は確信した。この点について父親は知らないのだと。動揺を隠そうともしない父親が、焦ったような顔で娘に問いかける。 「亜紀? お前、いったい何を―― 「お見合いの席で二人きりになったとき、和明さんから取り引きを持ち掛けられたのよ、お互いの自由を得るために結婚しようと。だから、契約することにしたの。結婚して二年の間に妊娠して子供ができて、その子が男だったら離婚します。その二年のあいだに子供ができなくても離婚しますので、どうかそのおつもりで」  亜紀はそれだけ言うと、ぼう然となっている父親を見ようともせず、足早にそこから立ち去った。  午前の診療を終えたあと、亜紀は浮かない顔で詰め所に戻った。  衝撃的な言葉を聞かされても、仕事をしている間は考えずに済む。しかし、仕事から離れた途端、父親から聞かされた言葉が頭に浮かぶ。外来の診察室から詰め所に戻る間、父親から聞かされた話と、恵理から聞いた話が頭の中で駆け巡っていた。亜紀が浮かない顔をしているのは、そのせいだった。  父親の話を聞く限りでは、自分を伊豆に行かせたのは、和明へのけん制のつもりらしい。和明が約束を守っていないから、それで過去の一端に触れさせようとしたのだろう。  父親は和明と交わした約束の中身を、教えてくれなかった。そして和明がこれからやろうとしていることも教えてくれないままになっている。もしもあのとき、無理にでも聞いていたら教えてくれただろうか。亜紀はそんなことを考えながら席につく。  いや、多分父親は教えてくれないだろう。中途半端に打ち明けられたせいで、二人の間に存在する約束と、目的が気になって仕方がない。こうなったら和明に問い詰めた方がいいのかもしれない。いや、和明に詰め寄っても、はぐらかされてしまう気がした。そう思うと、ため息しか出てこない。するとそのとき、机の上にある電話が鳴り、亜紀は気持ちを切り替えて受話器を取った。 「はい、産科。上条です」 「亜紀、俺だ」  着信は剛毅からだった。気のせいか、焦っているような声だった。 「どうしたの?」 「お前、院内のスマホ切ってるだろ」 「えっ?」  亜紀は白衣のポケットにしまっているスマホを取り出した。剛毅が行ったとおり電源がオフになっている。亜紀は吐き出すようにため息をついた。  出勤してすぐに父親に呼ばれたせいだ。父親との話が終わったあとは、心ここにあらずの状態だったから、オンにするのを忘れてしまったのだろう。亜紀は気を取り直して、剛毅に詫びた。 「ごめんなさい、忘れていたみたい。それで? 何かあったの?」  ふだんなら決してしないミスを犯した理由を聞かれる前に、亜紀は先手を打った。 「今日の勤務は何時に終わる?」  剛毅から尋ねられ、亜紀は一瞬だけ言葉を詰まらせた。  しかし、すぐに落ち着きを取り戻し、返事する。 「今日は二十時には終われると思うわ」 「そうか、なら久しぶりにメシでもどうだ? あいつは爺さんたちと出かけちまったから、そのままどっかの料亭でお偉いさんがたと会食だろうし」 「会食?」 「そう、今日は理事になって初めての理事会だったんだよ、今終わった」  亜紀は、机の上にあるスケジュールに目を走らせた。確かに今日は理事会と書かれている。となると、きっと和明は夕食を用意しているはずだ。和明はそういう男である。  自分のために用意されているだろう夕食を思うと、少しばかり胸が痛むが、夜食にして食べれば良い。亜紀はそう思い直し、剛毅からの誘いを受けることにした。
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