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第33話 離婚三日前 5

「今日、理事を辞任することと離婚することを病院長へ報告した」  ずっと黙っていた和明から話を聞かされて、亜紀は箸を持つ手を止めた。  亜紀は動揺をひた隠し、短い言葉で返す。 「そう……」 「ああ、理事会でも辞任を承諾されたし、あとは離婚届を出して、俺がここを出て行けばそれで終わる。俺がいなくなっても、困ることにはならないから安心しろ」  和明はそう言った後、食事を再開させた。亜紀も食事を再開させたかったけれど、箸を持つ手が動かない。食事を取っていたとはいえ、砂を噛んでいるようだった。和明が作ってくれたおいしい料理の味が分からない上に、無理して飲み込むとつらかった。そんな状態であっても、それを気取られるわけにはいかず、亜紀は無理して笑みを作る。 「……もっと早いうちに出したかと思っていたわ。後任となる理事の選出が必要になるし」  和明を見もせずに亜紀は静かに話した。するとしばらく間があいたあと、向かい側から独り言のように小さな声が聞こえてきた。 「ぎりぎりまで……」 「え?」  亜紀が顔を上げて聞き返すと、和明と目が合った。心臓がどくんと大きく脈打つ。 「いや、もっと早い段階で出さないとならなかったんだが、仕事に忙殺されているうちに出すのが遅れたんだ」 「そう……」 「お義父(とう)さんが理事長になってから、体制を一新したからな。痛みをかなり伴ったが、これで上条会も何とか立ち直るはずだ」 「それならいいわ……」 「これで、俺もお前もやっと本当の意味で自由になれる」 「そうね……」  優しい笑みを向けられて、亜紀は作り笑いで応えた。  この二年の間、和明はあの約束に縛られ続けていた。いや二年どころではない。約束を交わしたときから、実に三十年という月日が流れている。子供の約束とはいえ、ずっとそれに縛られ続けた和明を自由にしてやりたいと亜紀は思う。亜紀自身は和明を愛しているし、できることならこのまま夫婦でいたいと思っていた。  しかし、和明からは女として愛されていない。和明がかつての父親のように、自分以外の女を抱いていることを亜紀は分かっていた。そして自分以外の女を抱いた腕で抱かれるたびに、喜びながらもこの行為が生殖のためにだけ行われることが悲しかった。亜紀は二年にわたる結婚生活を振り返り、薄く笑う。 「お父様に引き留められたんじゃないの? 剛毅はまだまだのようだし」 「いや、特に何も言われなかった」  それは、以前父親に契約のことを話していたからだ。伊豆に行かされたあとに。  多分、そのあたりには両親は気づいていたはずだ。和明が立てた計画の行き着く先が、別れだということを。それを薄々感じていたからこそ、あのような言葉を掛けたのだ。亜紀はそのとき聞かされた言葉を振り返る。  あの頃は、とにかく不安だった。でも、剛毅から見せられた写真がきっかけとなり、一度は心を通わせられたと思ったけれど、それは思い違いにすぎなかった。  長い長い年月のあいだに、和明は変わってしまったのだろう。そう思ったとき、シンガポールで目にした衝撃的な光景が脳裏に蘇り、亜紀はぎゅっと目を閉じた。 「と、ところで、引っ越し先はどこなの?」  思い出すだけでも忌まわしい光景から逃れるように問うと、和明は口を閉ざした。そして、しばらく黙り込んだあと口を開く。 「ひとまず前に住んでいたマンションに荷物を全部送って、それから次の引っ越し先を決めるつもりだ。無職だから、時間だけはたくさんあるし」  ということは、前職に戻るつもりはないのだろう。前の仕事に戻るならば、かつての職場はもろ手を挙げて喜ぶはずなのに。そして、再会する前までの自由な暮らしをするのだろう。そう思ったとき胸の奥が痛んだ。だからといって引き留めることができないのは、裏切りを許すことができないからだ。しかし、まだ愛している。たとえ自分を裏切り続けた男であっても。亜紀は胸の痛みに耐えながら、和明に問いかけた。 「そう……。いつ?」 「明後日には出て行く。明日、剛毅に引き継ぎをしないとならんからな」 「きっと剛毅は嫌がるわ。面倒くさいことが嫌いだもの」 「でも俺はいなくなる人間だ。やってもらわないと困る」  和明は、病院や医療法人の経営の見直しをし続けてきた。剛毅がその補佐をしていたが、ほぼ和明一人でやったようなものである。ようやくそれが終わったけれど、それでもまだまだ和明の力が必要なのは、誰の目から見ても明らかだ。それは剛毅は病院経営よりも、医師としての仕事が好きな人間だからである。和明だって、それを知っているはずだ。  和明と離婚したら、剛毅はどう思うだろう。いっときは和明のことを良く思っていなかったのに、今では頼りにしているようだし。それを思うと気分が重くなってきた。 「そういえば、今朝渡した離婚届だが……」  和明が言いにくそうにしながら切り出してきた。亜紀は持っていた箸を置き、すぐに返事する。 「もう、サインしたわ」 「そうか。俺がここを出て行ったあと、顧問弁護士に渡しておいてくれると助かる」 「ええ。分かったわ」  亜紀が返事をすると、和明は席から立ち上がり、その場を離れたのだった。
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