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第32話 五章 5

「何も考えずに仕事のことだけ考えていたいのに、そうさせないのは誰だと思ってるのよ」  亜紀は目に涙を浮かべながら、和明をまっすぐにらみ付けた。  すると、睨まれた男は全く動じないまま口を開く。 「それはお前が知ろうとしようとするからだ。余計なことなど一切考えるな。お前は今までそうやって生きてきたはずだ。だから契約結婚にのったんだろう?」 「だからといって、すべてを諦めたわけじゃないわ!」  亜紀は強い口調で言い放ちながら、力を振り絞って和明の体を押しやった。すると、それまで感じていた体温がすっと離れてしまい、途端に寂しくなる。だが、それを追いかけては駄目だ。亜紀は自分自身に言い聞かせながら、和明をにらみ付けた。  それまで饒舌だった男が黙り込んでしまい、亜紀は怪訝な表情を向けた。目の前にいる男の表情を窺おうとしたけれど、背後にある照明のせいで影になり分からない。それでもどのような表情をしているのか気になり、和明に近づこうとしたときだった。 「……諦めきれないものでもあるのか?」  それは、まるでつぶやきにも似た小さな声だった。亜紀は意味もなく不安になったけれど、気を取り直して返事する。 「あなたのように、すべてを諦められたら楽でしょうね」  口から飛び出したのは、和明に対する嫌みだった。  子供を産んだあと、自由を約束されていたって結局は家に縛られたままだ。それくらい分かっているし、和明だって堺家から自由になれても今度は上条家の婿として縛られることになる。それを自由という言葉で誤魔化す姿は、全てのものを諦めているとしか思えなかった。  立ち尽くす和明をにらんでいると、急に手首を掴まれた。とっさに腕を引こうとしたけれど、痛いくらい強い力で掴まれているせいでできなかった。そのまま引っ張られるように公園から離れようとしたときだった。 「今夜はもう遅いし、別荘に泊まる。明日の午前中に帰ろう」  顔を上げると、前を歩く和明の背中が見えた。  目の前にいるはずの男が、遠く感じて仕方がない。掴まれた手首には痛みは感じなくなっている。でも、胸の奥が酷く痛かった。  夏の到来を告げるような温かい風が、遠くに広がる海の香りを運んできた。  それに緑の匂いが混じったものが鼻をかすめていく。すっかり日が落ち暗闇が広がる歩道には、足下を照らす程度の外灯しかなくて、その頼りなげな灯りが道路を照らしていた。  今まで幾度となく肌を重ねた男であっても、その胸の裡(うち)など分かるはずもない。肌を重ねたら幾分かでも理解できると思っていたことが、思い上がりのように思えてくる。  和明は無遠慮に人の心の中にまで入り込んでくるくせに、自らの心には決して触れさせようともしない男だ。そんな男と結婚することを決めたことが悔やまれる。いや、そうではない。何を考えているか分からぬ男に惚れてしまったことを、亜紀は心の底から悔いていた。  和明の部屋で抱かれたときに向けられた、孤独の影を強く感じさせるあの瞳。そのまなざしを向けられたとき、恐らく心を奪われてしまったのだろう。もしもそれがなかったならば、こうまで心をかき乱されることはなかったはずだ。  感情を出してはいけないと、幼いときから祖父母から厳しくしつけられた亜紀の精神力は並大抵のものではない。医師とは常に冷静な判断を求められるものだからと、言われ続けた賜物(たまもの)だ。  それなのに、和明の言動にいちいち反応してしまい、結果振り回されている。特に抱かれると、それまで抑え付けていた感情が堰を切ったようにあふれ出してしまうのだ。振り返れば、恋人だった相手にはそうはならなかった。そのときのことを思いだそうとしたとき、和明が急に立ち止まり、亜紀も続いて足を止めた。別荘までは、まだほど遠い。 「ここら辺は、昔から蛍が見える場所らしい」  亜紀は俯かせていた顔を上げた。和明は背中を向けたまま、目の前に立っている。後ろ姿をじっと見つめていると、和明がくるりと振り返った。影のせいで、表情が分からない。 「今の時期しか見られないものだし、少し歩くが見に行くか」 「場所、知っているの?」 「管理人から聞いた。近くに小さい川があって、そこに蛍がいると」  話している間に、大きな手は手首から手に移っていた。そしてぎゅっと握りしめられる。急に蛍を見に行こうと言い出した意図を探ろうとして、和明の顔を見上げるが何も分からなかった。  以前新居で思い出した記憶の断片は、父親と手を繋ぎながら眺めた蛍の思い出だった。もしかしたら、和明がこれから行こうとしている場所は、あの場所かもしれない。亜紀は直感的にそう思った。 「どうする?」  低い声が耳に入り、亜紀は現実に引き戻された。  そこに行くのに迷いはないけれど、どうしてか言葉が出てこない。だから亜紀は、返事の代わりに、繋いでいた手を握り返したのだった。  その場所は、歩道を外れた草むらの先にあるという。  むせ返るほどの草いきれ、そして湿り気を帯びた空気が肌を掠めていく。温かかったはずの風がひんやりとしたものへと変わっていた。  濃厚な緑の匂いが漂う中、都会では聞くこともない虫の声が聞こえてきた。歩きながら空を見上げてみると、見事な星空が広がっている。漆黒の闇に浮かぶ星々の瞬きが、都会の空で見るものよりも力強いもののように感じた。 「ここからもう少し先にその場所があるはずだ」 「そうなの?」 「蛍は水辺から離れない。もう少し先に小さな川があるんだ」  和明は、確か管理人からその場所を教えてもらったと言っていた。だが、和明自身がそこを知っているような気がする。だが、それを尋ねることもせぬままに、生い茂った草をかき分けながら和明とともにその場所へ向かっていた。  しばらく歩き続けると、開けた場所へ行き着いた。水の流れる音が聞こえてくる。 「着いたぞ、見えるか?」  声がした方に目を向けるけれど、暗くてわからない。すると、急に腰を引き寄せられた。 「見えるか、蛍」  耳元で聞こえた声に、亜紀はとっさに身をすくませる。触れた場所から和明の体温が伝い、体が勝手に火照りだした。それを意識しないようにしながら目を凝らすと、暗闇にぼんやりと浮かんでいる蛍の光が見えた。  息づくように点滅を繰り返す淡い光が、暗闇にふわふわと浮かんでいる。目の前に広がる光景は、やはり過去の記憶と同じものだった。亜紀は記憶をたぐり寄せながら、闇夜に浮かぶ蛍の光を追いかける。 「きれいだな」 「ええ。とっても……」  触れた硬い体から発する熱が、接したところから伝ってくる。それに意識が向かった途端、とくとくと心臓がせわしなく脈打った。なるべくなら意識しないようにしたけれど、どうしても意識してしまう。  蛍の光を見ていると、ただの求愛行動のはずなのに、まるで生命のきらめきのように感じた。それはその光を発したあと、短い命を終えるものだから、そう見えてしまうのだろう。蛍は成虫になったあと二週間しか生きられない。その間に雌と出会い、次の命を託すのだ。そのためだけに光を放ち動き回る。その風景を眺めながら、もう何も考えずにいられたらどんなに楽だろうと亜紀は思う。  和明に対しても父親に対しても、幾つかの謎がある。だが、それらは決して本人達から聞くことはできないだろう。ならば疑念を抱いて疑心暗鬼になるよりも、和明が言っていた通り何も考えず、今までのように医師としてだけ生きれば随分と楽だと思ったのだ。しかし、その代わり真実にたどりつけないけれど。 「これから毎年、見に来よう。二人で」  もの悲しさを感じながら蛍を眺めていると、和明から告げられた。何も答えずにいると、同意を促すように強く抱きしめられてしまい、押しつけられたところから柔らかい熱が伝ってきた。腰に回された腕が、自分自身を縛り付けようとする鎖のように感じた。そこには恐らく心はない。亜紀はそれが辛かった。 「毎年、ね」  亜紀は見えないことをいいことに、自嘲気味な笑みを浮かべた。 「ああ。毎年ここに来て二人で蛍を見に来よう」 「そうね……」  きっと、心をろくに通い合わせることがないまま、このまま時間だけが過ぎていくのだろう。本当に欲しいものはすぐ側にあるというのに、とてつもなく遠い場所にあるような気がして、亜紀は寂しさを感じずにはいられなかった。
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