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第31話 五章 5

「仕事がこっちであったから、ついでに迎えに来た」  そう言いながら和明は、はす向かいの席に腰掛けた。  亜紀は腕を組みながら、ソファに腰掛け怪訝な顔を向ける。 「迎えってどういうこと? お父さまから頼まれたのよ?」  亜紀は沸いた疑念をひた隠し、和明に問いかけた。  仕事だと言ってはいるが、違うような気がする。もしも本当に仕事ならば、昨夜伊豆行きを告げたときに聞かされているだろう。それがなかったと言うことは、突発的な理由があるからここへ来たのだ。そしてその理由に思い当たるのは、自分の伊豆行きだ。亜紀はそう確信している。  着信から数分後に、和明はここへやってきた。しかも、別荘に着くなり意味が分からない言葉を口にされ、亜紀は疑念を募らせる。亜紀が見つめる中、和明はうっとうしそうにネクタイを緩め始めた。その姿を凝視するが、和明は一向に目を合わせようとしない。それがまた疑念を更に膨らませた。 「往診は終わったんだろう? 帰るぞ」  ようやく目を合わせたと思った直後、和明は座ったばかりのソファから立ち上がった。それがなんとも性急に感じられて、亜紀は身を乗り出して訴える。 「ちょっと待って! 私が分かるように説明して!」  するとそこから立ち去ろうとしていた和明が、足を止めて振り返った。向けられた顔には、わずかに険が滲んでいるように見えて、亜紀は思わず怯んでしまいそうになる。 「院長には話をつけた」 「話?」  亜紀が訝しむような顔を向けると、うんざりしたような顔で和明が頷いた。 「往診自体は終わったんだろう? なら帰っても問題ないはずだ」 「お父さまからは、入院を勧めるよう頼まれてるの。それができないまま帰れるわけがないでしょう?」 「聞けば、緊急度が高くない患者じゃないか。ならば来月、院長が直接説得されればいいだけの話だ」  和明から告げられた言葉のせいで、亜紀は言葉を詰まらせた。確かにその通りではあるけれど、だからといって頼まれたことをやらないまま帰るのは嫌だった。それに伊豆で確かめたいこともある。それなのに、和明の言いなりになって帰りたくない。しかし、喉まで出かけた言葉を亜紀は飲み込んだ。すると、和明が再びそこから離れようとした。 「とにかく帰るぞ。早く支度をしろ」 「ちょっと待って!」  亜紀は、とっさに和明を引き留めた。だが、和明は顔を逸らしたまま部屋から出て行こうとしている。亜紀は慌てて立ち上がり、背中を追いかけた。すると部屋の扉のノブに手を掛けたとき、和明がピタリと立ち止まる。 「そういえば、乗ってきた車はここに置いていけば良い。あとで誰かに取りに来てもらうから」  亜紀は和明の背中を凝視した。だが、和明はこちらを振り向こうとしない。 「だって、あの車は病院の車よ? 向こうから来てもらうことになるわ。時間の無駄よ」  亜紀が伊豆まで乗ってきた車は、往診用の車だった。それを亜紀自ら運転し、やって来たのである。それを置いて自分一人だけ帰れるわけがない。そうしてしまえば、一日その車は使えなくなってしまうのだから。亜紀が強い口調で訴えると、意外な言葉を聞かされた。 「なら、こっちの病院の人間に頼めばいい」  亜紀は目を大きく見開いた。すると、何かを察したのか和明がようやく振り返る。亜紀の表情を見るなり、顔をハッとさせた。 「ねえ。さっき、仕事でこっちに来たって言っていたわよね」 「ああ、それが?」 「あなた医療コンサルタントの仕事だったわよね」 「だから何が聞きたい」  亜紀は、一つ一つ確かめながら和明に問いかけた。恵理の話では、この地域には病院が一つしかない。しかも、週末になるとそこに父親が来ているという。そして、和明は医療コンサルタントの仕事をしているとなると、繋がりがあるような気がした。亜紀は和明を見つめながら口を開いた。 「仕事ってもしかして、この町の病院で?」 「ああ、そうだ。ここが俺の最後の顧客なもんでね、その挨拶に来たんだよ。病院はたしか院長の知り合いが経営している病院だし頼めばいい。今から連絡すれば、明日の昼前には向こうに届けてもらえるはずだ」  最後の顧客ということは、和明は今の会社を離れる予定らしい。それは、上条会の理事に就任することが決まっているからに違いない。そんな大事なことすら教えてもらってないことに気がつき、亜紀の心はささくれだった。急に何も言わなくなった亜紀に不審を抱いたのか、和明が怪訝な顔をする。 「何か不審な点でもあるのか?」  和明から尋ねられ、亜紀は我に返った。そつのない返事をされたけれど、まだ切り崩せる。そう思い、亜紀はゴクリとつばを飲み込んだ。 「父がその病院に週末に来ているのを、あなた知っていたんじゃないの?」  意を決し尋ねると、和明は特に表情を変えなかった。 「知ってた。仕事を請け負う際見せてもらう議事録に名前が書いてあるからな。それがどうかしたのか?」 「……なぜ教えてくれなかったの?」  無意識のうちににらみ付けながら尋ねると、和明は一瞬だけ口を閉ざした。だが、すぐに口を開く。 「知っているものとばかり思ってた」 「知らなかったわ」 「なら、知った。それでいいじゃないか」 「なぜ隠していたの?」  和明に父親の姿が重なって見える。亜紀は父親に聞きたい言葉を発していた。だが、それを自分に対してのものだと受け取ったのか、和明がいぶかしむような顔をした。亜紀は、それに気づき、不満げな顔を向ける。 「あなたに聞きたいことがもう一つあるの。お父さまが週末来ている病院は、あなたの顧客。お父さまはあなたとは見合いのときに初めて会ったと言っていたけれど、顔を合わせたことくらいあるんじゃないの?」  和明の表情の変化を見逃すまいと、亜紀は目を凝らした。だが、和明の表情は崩れない。 「何を誤解しているのか分からないが、落ち着いて聞いてほしい。院長とは、見合いの席で初めて顔を合わせたのは間違いない。顧客だからといって、そこにいる人間全てと顔を合わせることなどない。ただ、どうしても必要に迫られて書類を見るから、名前だけは知ってはいたが、それだけだ」 「嘘よ! なら、なんであのとき、父はあなたのこと呼び捨てにしたのよ! おかしいじゃない!」 「あのとき? どういうことだ?」  聞き返されてしまい、亜紀ははっとした。ふだんなら決して表に出さない感情を出してしまった気がして、急にいたたまれなくなった。  父親に対して疑念を抱いてしまったときに、タイミングよく現れた和明に、不満をぶつけたって仕方がない。そんなことくらい分かっているけれど、そうせずにはいられなかった。  しかし、和明に向かって不満を吐き出しても、膨れ上がった疑念も不満も消えてはくれなかった。そればかりか、疑念と不安は心の中で渦巻いている。亜紀はそれに耐えきれず、唇を噛みしめながら顔を俯かせた。 「亜紀?」  和明の声が耳に入ったけれど、亜紀は返事もせずに、その場から立ち去った。  たそがれ時の風景は、刻一刻と変化する。  夕焼けに染まっていた公園は、今や夜の帳(とばり)が落ちるのを待つばかりになっている。薄闇が迫ると海の方から潮とみどりの匂いが混じった湿っぽい風が吹き、青々と茂った草木をかすめていった。それと同時にもの悲しいヒグラシの鳴き声がして、それに気づき誘われるように空を見上げると夜の闇が濃くなり始めていた。亜紀はブランコに腰掛けたまま空を見上げている。  思いあまって出たはいいけれど、だからといってどこにも行けず、別荘から少し離れた場所にある公園へ行き着いた。湿った風から徐々に暑さが抜け始め、ひんやりとし始める。次第に暗くなっていく空を見ているうちに心が凪(な)いできた。亜紀は心を覆う不安を吐き出すように、深いため息をつきながら視線を落とす。  なぜ父親は伊豆へ来させたのだろう。  なぜ父親は週末ここへ来ていることを隠しているのだろう。  なぜ父親は和明のことを呼び捨てで呼んだのだろう。  そしてなぜ和明は急にここへ来たのだろう。  新たな謎が増えるたび、ため込んでいた疑念がそれを飲み込み更に膨らんでくる。父親や和明に直接聞けば済むことなのに、彼らは本当のことを教えてくれないような気がしたから聞けないままになっていた。  特に父親に関しては、それなりの理由があるから伊豆の病院で診療していることを隠し続けてきたのだろう。そして、和明はそれを知っているような気がした。  どうして亜紀がそう思い至ったのか、それには理由がある。それは、和明と森崎が、それぞれ自宅に来たとき、両親と親しげに話している光景を目にしているからだった。  夜の闇とともに、孤独感が更に濃くなっていく。亜紀は一人ブランコに座りながら、顔を曇らせ俯いていた。一人こうしていると、まるで自分ひとりが世界から取り残されたような気になってくる。そうしているうちに、あたりは真っ暗になっていて、公園の中央にある照明が光をともし始めた。ぱっと明るくなったあたりを見渡しながら、亜紀は胸につかえているものを吐き出すように、深く息を吐き出した。そのときだった。 「亜紀!」  その声がした方を見ると、和明が駆け寄ってきた。それに気づいて、亜紀は逃げ出そうとした。しかし、それに気づいたのか和明が大急ぎで駆け寄り、亜紀の体を抱き締めた。 「……勝手にいなくなるな」  頭上から聞こえてきた声は、切羽詰まったものだった。まるで余裕がない声を耳にしてしまい、ちくりと針を刺されたような痛みを胸に感じたけれど、それを心の奥に無理やり押し込め、抱き締める腕の中から逃げ出そうと亜紀は体を捩らせた。 「……離して」  亜紀は顔を歪ませながら、頑丈な檻を思わせる男の堅い胸を押しのけようとした。だが、体に回された腕の力は緩まないばかりか、更に強くなる。 「嫌だ。離してしまえば、また逃げるだろう?」 「痛いの。だから離して。もう、逃げないから」 「嘘だ」 「お願い。本当に苦しいの……、だから離して」  苦しいのは体ではない。胸の痛みだった。胸の奥に押し込めた痛みがずくずくと疼き、亜紀を苛んでいく。 「嫌だって言っているだろ。何度同じことを言わせるつもりだ。俺は一度手にしたものを手放すつもりはない」  たとえそれが本心でなくとも、亜紀は嬉しかった。無意識のうちにこわばらせた体から、力が抜けていく。それに気付いたからか、体に回された腕の力がようやく緩み、硬い体がわずかではあるが離れたのだった。  亜紀は恐る恐る目線だけを上げる。すると、和明から思い詰めたような顔を向けられていた。しばらく見つめ合っていると、緩んだ腕の力が強くなった。 「お前は俺の側で、医師としての誇りを守ることだけ考えていればいいんだ。それ以外の余計なことなど考えなくていい」  その言葉を耳にしたとき、全身がこわばり頭の中が真っ白になった。
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