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第30話 五章 4

「上条先生。本日はわざわざお越しいただいて申し訳ありません」  申し訳なさそうな表情を浮かべ、その女性は亜紀に頭を下げた。  落ち着いた色合いでまとめられている室内には亜紀とその女性が並んでソファに腰掛けている。彼女の主治医である父親が書いたカルテの内容を思い出しながら、亜紀は安心させようとほほ笑んでみせた。 「父からもよろしく頼むと言われております。それでその後いかがです?」  すると和泉 恵理(いずみ えり)は不安げな表情を浮かべ俯いた。 「動悸の頻度は落ち着いてきたのですが、その代わり長くなってきて……」  そう言いながら、恵理はわずかに膨らんだ腹に目線を落としそっと撫でた。彼女はほっそりとした体つきと、透き通るような肌の白さが印象的な女性だった。手入れがされた長い黒髪は健康的な艶を放っているし、顔色がさして悪いわけでもない。一見すれば彼女が心臓が弱いとは思えない。だが、生まれつき心臓が丈夫でない彼女は、そのために療養生活を余儀なくされていた。  話を詳しく聞いたところ、縁あって結婚したはいいけれど、持病のため子供を持つことは避けていたらしい。だが、どうしても子供が欲しくて主治医に相談したという。そして、ようやく身ごもったはいいが、今度はそれまでおとなしかった心臓が悲鳴をあげたということだった。  妊娠初期に動悸を訴える妊婦は多い。妊娠するとホルモンバランスが変化することにより、呼吸中枢が刺激され、動悸や息切れを引き起こすことがある。それにこれから妊娠後期にかけて心臓への負担はどんどん増えるし、動悸に悩まされることが多くなる。  恵理はもともと心臓が弱い。その上妊娠したことにより心臓に負担がかかっている。本来ならば、往診でなく入院させて様子を見るべき患者なのに、なぜ往診で対応していたのだろう。亜紀は疑念を抱きつつも、それを見せないようにしながら説明し始めた。 「これからどんどん心臓への負担が増えますし、いつ何が起きるか分からない不安を抱いたままでいるよりも、入院された方がいいのではないかと思います」 「そう、ですよね。分かってはいるのです。でも……」  頼りない声で恵理が言いよどむ。恐らく父親から入院の必要性は説明されているらしい。 「夫の側から離れたくないのです」  恵理は、腹に添えていた手をぎゅっと握りしめた。 「動悸がなかなか収まらないと、このまま死んでしまうのではないかと不安になります。それに無事に産んであげられるか分からないし……。でもそんな不安に襲われたとき、夫がすぐ側にいると思うだけで落ち着くのです」  恵理は明るい日差しがさんさんと差し込む窓の向こうを眺め始めた。その視線をたどると、離れが見えた。話の流れから察するに、そこに恵理の夫がいるのだろう。亜紀は再び恵理に目を戻した。彼女はまだ離れを見つめている。 「夫は私が妊娠したあと、ここで仕事をすることにしたのです」 「こちらで?」  恵理は振り返って頷いた。話を聞くと彼女の夫は身重の妻を慮(おもんぱか)って、自宅で仕事をすることにしたらしい。いつもなら、妻の目が届くところで仕事をしているらしいのだが、診察中は離れの方で仕事をしているという。なるほど、それで恵理は離れを見ていたのか。  初めての妊娠、それに心臓の持病と恵理は不安を抱かずにいられないだろう。それに、彼女にとって夫が心の支えになっているのは目にも明らかだ。  亜紀自身、側にいるだけで落ち着ける存在を知ってしまっただけに、彼女の気持ちも分からないでもない。だが入院を先延ばしにすれば、その分だけ心臓への負担は増えるだけだ。亜紀は意を決し口を開く。 「お気持ちは理解できますが、万が一のことを考えると入院を勧めざるを得ません。ここから一番近い病院でも車で三十分かかりますし」  亜紀が真剣な表情で答えると、恵理は腹に手を添えたままため息をついた。その様子から、彼女自身もそれを十分分かっていると感じられた。口を閉ざしてしまった恵理の姿は、余りにも頼りない。じっとしたまま何かに耐えるようにしている彼女の姿を眺めながら、亜紀はなぜ父親が伊豆への往診を持ちかけてきたのかを考え始めた。  伊豆には上条家の別荘があり、亜紀はそこへ泊まることになっている。  その間、父親から頼まれた往診をすることになるのだが、それまでただの一度も父親が伊豆へ往診に来ていることなど聞いたことがない。  それなのになぜ、それを自分に頼んできたのだろう。いつもとは違う父親の態度に疑念を抱いたとき、亜紀はあることに気がついた。  いつもと違う態度を見せたのは父親だけではない。  昨夜和明に伊豆へ行くことを告げたときのことを振り返ると、もしかしたら何か関係があるのではないかと思わざるを得なかった。そのときのことを思い返し始めたときだった。 「上条先生からも入院するべきだとは言われていました」  恵理の頼りない声で、亜紀は現実に引き戻された。彼女を見ると、沈んだ表情で俯いている。 「小さい頃からお世話になった方ですし、多分私以上に私の心臓のことを把握なさっている方からそう言われても、どうしても夫の側から離れたくなくて……。先生はそんな私のわがままをずっと聞いてくれていたのです」  気に掛かる言葉が飛び出したものだから、亜紀は恵理に問いかけた。 「父が主治医をずっと、ですか?」 「ええ。ただ病院にいらっしゃるのが週末だけなので、そのとき診ていただいていました」  亜紀はしばしぼう然となった。恵理だけを往診していたわけではなく、こちらの病院へ来ていたことを知り、驚いたのである。  父親は週末の夜決まって荷物を持って家を出て行く。そして月曜の朝に帰ってきて、また週末はどこかに出かけていた。それまで愛人のもとへ行っているとばかり思っていたが、そうではないらしい。  よくよく考えてみれば、父親が愛人のもとに週末行っていると言っていたのは祖母だけだった。祖母はことあるごとに、父親が若かりし頃女にだらしがないことを挙げつらねていたし、それは結婚後も変わっていないとこぼしていた。それを聞かせられ続けた結果、亜紀は週末留守にする父親の姿を苦々しく思うようになっていた。  恵理と祖母の話、どちらを信じたら良いのだろう。この場合、当然恵理の言葉を信じるべきなのは分かっている。しかし、確かめようとして亜紀は思い切って口を開いた。 「いつからか、分かりますか?」 「え?」 「伊豆に父がいつから来ているのか分かりますか?」  亜紀は動揺を抑えながら恵理に問いかけた。亜紀の様子にただならぬものを感じたのか、恵理が不安げな表情を浮かべ、自信なさげに話し始める。 「上条先生は私が生まれたときからずっと主治医だったの。だから三十二年前にはこちらへ来ていたと思うわ」  その言葉を聞いたとき、亜紀は驚きのあまり目を大きく見開かせた。  往診を終えたあと、亜紀は上条家の別荘へ向かっていた。  恵理の自宅から車で十分程度高台に上がれば、そこに目的の場所がある。  夕暮れ迫る林道には、まぶしい夕日が差していた。脇に生えている草花は、温かい潮風に吹かれ小さく揺れている。それを車の後部座席から眺めているうちに、別荘の管理人とのやりとりが浮かんできた。  亜紀が別荘へ到着したのは昼前のことだった。持ってきた荷物をひとまず置いてから、恵理のもとへ行ったのである。上条家の別荘には管理人が常駐しており、敷地内に建てられた離れに住んでいる。  管理人・八木沢に出迎えられたとき、懐かしそうな表情を向けられて、亜紀は不思議を感じた。それまでただの一度も顔を合わせたことがない人間から、そのような顔を向けられる理由がないからだった。しかし、それを出すこともなく軽く会釈すると、白髪頭の男は嬉しそうに顔をほころばせた。 「亜紀さま、お久しぶりでございます」 「数日お世話になります」 「いえいえ、どうぞいたいだけ居てください。ここはあなたさまにとって、特別な場所ですから」 「特別な場所、ですか? ごめんなさい、私よく覚えていないの、多分小さい頃だと思うのですが」  すると管理人は寂しげな笑みを浮かべて、瞳を陰らせた。 「そうですよね、覚えていなくて当然です。生まれて間もない頃だったと思いますから」 「え?」 「兼秋さまと聡子さま、そして亜紀さま。お三人でこちらにお住まいになられていたのです。三年ほど」 「三年も、ですか?」 「ええ、それに東京へ戻られたあとも度々いらしておりました。私が最後にお見かけしたのは、幼稚園を卒園される年です。聡子さまと御一緒にお越しになられておりました」 「あ、あのもし良かったらここへ三年もいた理由を教えていただけないかしら」  亜紀が苦笑しながら尋ねると、管理人は急に口を重くさせた。 「当時いろいろ御事情があったらしいのですが、私は存じ上げません。お役に立てず申し訳ありません」  管理人が申し訳なさそうに頭を下げる姿を見て、亜紀は表情を曇らせた。多分彼は理由を知っていると思われるが、何も教えてくれなさそうだった。亜紀はそれ以上何も聞かずに、荷物を二階へ運ぼうとしたとした。だがそのとき、あることを思い出し、まだ頭を下げている管理人に問いかけた。 「あの……。このあたりで蛍を見られるところはあるのかしら?」  ゆっくりと頭を上げたあと、管理人はほっとした顔をした。 「ええ、ございますよ。ああ、そういえば、以前よく兼秋さまとお二人で行かれてましたね」 「お父様と?」 「この近くにきれいな池がありましてね、そこにお二人で蛍を見に行かれたこともありました。そこは今でも蛍が見れますし、日が暮れてからお散歩がてら見に行かれてはいかがです?」 「そう、ね。なら夕方にでも散歩がてら見に行こうかしら」  そう言うと、管理人は嬉しそうな顔をした。  亜紀が思い出したのは、以前新居で蘇った記憶のことだった。  漆黒の闇に浮かぶ光を見たとき、父親とともに蛍を眺めていたときの思い出が、急に頭の中に浮かんできた。それがいつのものか分からなかったけれど、管理人の話から推測するに、幼稚舎へ入る前の話だろう。  それにあの指輪を受け取ったのも、ここではないかと亜紀は思う。なぜならそのときの記憶に残っている風景は、東京の家にはないからだ。  改めて亜紀は思う。父親はなぜここへ行くよう命じたのだろう。考えてみればこの往診は、最初からおかしな話だった。恵理の往診だけなら、父親でも問題ないはずなのに。それに恵理から聞かされた話も意外なことだった。 『上条先生は私が生まれたときから、ずっと主治医だったの。だから三十二年前にはこちらへ来ていたと思うわ』  恵理は亜紀と同い年だった。そして彼女が生まれたときには、もう伊豆にいたということになる。恵理の話によると、彼女が三歳の誕生日を過ぎたあたりに、父親は伊豆から離れたらしい。だが、その後週末になると伊豆へやって来ては、町の病院で診療を行っていたということだった。  恵理の話が真実ならば、父親は愛人のもとへなど行ってはいない。母親はそれを知っているような気がした。しかし、祖父母は知らなかったし、祖母からは不実な父親だと言い聞かせられたものだった。それをずっと信じ込んでいたのだが、どうやらそれは違っていたらしい。  二階の部屋に着いたとき、亜紀は衝動的に鞄の中からスマホを取り出し、父親へ電話しようとした。するとタイミングを計ったように着信が入り、スマホの表示を見てみると和明からの着信だった。すぐに電話に出ると、耳を疑うような言葉を聞かされたのだった。
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