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第28話 五章 2

 上条病院の敷地内には庭が二つある。  一つは患者に開放している庭だ。建物に取り囲まれている庭には四季折々の花や木が植えられていて、見舞いに訪れた客人と患者が利用している。  もう一つは渡り廊下に面している小さな庭で、そこは病院職員やドクター以外立ち入れないようになっていた。午前の診療を終えたあと、亜紀はその庭にあるベンチに腰掛けて、昨夜の出来事を振り返っていた。  上条家の婿になるなら、いずれは理事になるとは思っていた。それが少し早まった。そう思えばいいのだが、しかしそうは思えない。それというのも、タイミング良く古参の理事二人が急に辞任したことと関係があるような気がしたからだった。  辞任した中津川も張本も、とある団体から出向してきた人間たちだ。彼らが辞めれば、その代替となる人間がやって来るのが暗黙の了解となっているはずだった。  しかし、今回はそうでない。どういうわけか、剛毅と和明が空いた席に付くことになるらしい。剛毅に関しては、いずれ理事になることが決まっているが、和明に関してはそうではない。しかも和明に打診をしたのは、祖父だという。祖父が和明を引き入れようとしている理由など明らかだ。手駒にしようとしているに違いない。 『俺は病院経営のプロだ。おかしいところがあればそのときは遠慮はしない。たとえ身内であってもだ。約束する』  和明はああ言っていたけれど、言葉だけで不安はなくなるわけではない。しかし、だからといって、この不安を埋められるものなど見つかるわけもなく。亜紀は表情を曇らせ、ため息をついた。すると背後から足音がした。それに気づき、亜紀は表情を引き締める。振り返ると、白衣姿の父親が立っていた。  父親は様子を窺うような表情を浮かべていた。もしかしたら、悩んでいた姿を見られていたかもしれない。一瞬そう思ったけれど、何か尋ねられたならそのときはどうにか誤魔化そう。亜紀は内心でそう思いながら、作ったような笑みを父親に向けた。  すると、父親の表情が和らいだ。遠慮がちにしながらこちらに回り込んでくる。その姿を眺めていると、隣に腰掛けた。  だが、父親は話をすることもなく黙り込んだ。しばらくすると、気まずい空気が広がり始め、亜紀はどうしたものか悩んでしまう。今まで親子らしい会話をしたことがないだけに、こういった状況に慣れていないのである。しかしそう思うと同時に、亜紀はあることに気がついた。  振り返れば、ここ最近父親の様子がおかしい。和明との結婚が決まってからは、父親の方から進んで関わりを持とうとしているように感じて、それが不思議だった。  なぜ今更関わろうとしているのか。それまでただの一度も娘の人生に関わろうとしなかったのに。亜紀そう思いながら、心の中で毒づいた。  夏のまぶしい日差しが少しずつ西に傾き、その光に照らされ続けた石畳からは、ゆらゆらと陽炎(かげろう)が揺らめいている。熱をふくんだ風が、みずみずしい葉や花をかすめながら庭を通り過ぎていった。  亜紀は気まずさに耐えかねて、腕時計をちらりと見た。いきなり現れた父親が隣の席に座った理由が気になるところだが、そろそろ休憩時間も終わりだ。腰掛けていたベンチから立ち上がろうとしたとき、それまで一言も発しなかった父親が口を開いた。 「その……。和明、くんと、何かあったのか?」  唐突に尋ねられ、亜紀は動きを止めて隣にいる父親を見た。父親からは不安げな表情を向けられている。 「どうして?」 「どうしてって……。思い詰めた顔で考え込んでいたからだ」 「仕事のことかもしれないのに、なぜ彼のことだって思ったの?」  聞き返すと、父親は再び黙り込んだ。そういえば、同じようなやりとりばかりしているような気がする。両親に尋ねられると素直に答えられないばかりか、条件反射のように冷たく切り返してしまうのだ。  いつからこうなってしまったのかなど、もう分からない。しかし、両親に限って、いつもこんな感じで切り返してしまうようになっていた。そういう態度で返してしまうことに、心苦しさを感じないわけではないけれど、素直になれないのだから仕方がない。罪悪感を抱きながら口をつぐんでしまった父親を見ると、表情を曇らせていた。胸の奥がちりちりと痛む。再び重苦しい沈黙が流れたあと、ぼそぼそと隣から声が聞こえてきた。 「その、彼と同居を始めたばかりだからだ」 「そういえば、なぜ結婚前に同居をお認めになったのです? 向こうは花嫁修業なんてものを求めているわけでもなさそうだし。それなのに、なぜそうしたか、その理由を教えてほしいの」  亜紀はこれ幸いとばかりに、同居の理由を問いかけた。すると、意外な質問が飛び出したせいで驚いたのか、父親が探るような目を向けてきた。亜紀はそれを正面から見つめ返す。しばらく見つめ合ったあと、観念したかのようにため息を吐き出した父親が淡々と話し始める。 「和明くんと信頼関係を築いてほしかっただけだ。長い人生の中で共に生きるということは、互いに信頼関係がないと始まらないからね」 「それは結婚したあとでも築けるはずよ、違う?」 「結婚したからといってすぐにそんな関係になるわけがない。そうなるためには時間が必要なんだよ、亜紀」  諭すように言われたけれど、亜紀はどうしても納得できなかった。そうは言っているけれど、両親の間にはそのような物など存在しないではないか、そう思ったからだった。  それに和明から求められた信頼関係は、父親が話すそれとは全くの別物だ。彼は互いの役割さえ果たせたらそれでいいと言っていたし、それ以上求めるつもりはないと言っていた。今思えば、それに寂しさを感じてしまうが、それでもいいと決めたのは自分自身だ。亜紀は寂しげな笑みを浮かべ、視線を落とす。 「それに和明くんもそれを望んでいた。時間をかけてお前と理解しあいたいと」 「和明さんが?」  意外な台詞(せりふ)を耳にして、亜紀は目を大きくさせた。胸の奥がほのかに温かくなった。 「あ、ああ。お前という人間を知りたいと。確かそう言っていた」  とってつけたような言葉を述べたあと、父親が居心地わるそうな顔をした。それを見たとき、亜紀はピンときた。それが事実ではないことを。すると、亜紀の目の前で、父親は急にかしこまり、体の向きを変えてきた。 「と、ところで亜紀。お前に頼みたいことがあるんだ」 「何?」 「お前に行ってほしいところがあるんだ。できれば一人で」  父親から向けられるまなざしは、とても真剣なものだった。それに表情もこわばっているように見えて、これから話そうとしていることがとても大事なもののように感じた。亜紀は、気持ちを切り替えて、父親の次の言葉を待つことにした。 「伊豆へ往診?」  和明に尋ねられ、亜紀は箸を持った手を止めて頷いた。  仕事が終わり帰宅すると、既に夕食の準備ができていた。四人がけのダイニングテーブルの上には、和明が作ったおいしそうな料理が並べられている。必要に迫られて料理を作るようになったと言っていたが、それにしてはレパートリーも多い上に、なかなかの腕前である。  おいしそうな料理の向こうにいる和明を見ると、怪訝そうな表情を浮かべている。なぜ、和明が訝しげな表情を浮かべているのか分からず、亜紀はじっと凝視する。 「ええ。週末に」 「他にも医者はいるだろう? なぜあなたが行かなきゃならない」  問いかけに答えると、再び尋ねられた。亜紀は箸を置いてまっすぐ和明を見る。 「父から頼まれたの」 「院長が?」  すると和明がわずかに顔をしかめさせた。もしかしたら、伊豆に何かあるのではないかと直感的に思ったけれど、聞きづらいものがある。聞けば済む話なのだろうが、なんとなく教えてくれないような気がしたし、自分の仕事にも口を挟んでほしくない。だから、亜紀は契約事項を持ち出して、話を終わらせようとした。 「……互いの仕事に口を挟まない契約よ、違う?」  亜紀はそう告げたあと、サラダが盛られた器に手をかけて、食事を続けようとした。するとそれまで怪訝そうな表情を浮かべていた和明が、不満げに顔をしかめさせ黙り込む。それを亜紀は見逃さなかったけれど、だからといって不満の理由を聞くことともできないまま食事を続けている。  和明手ずから作った食事はどれもおいしいはずなのに、砂を噛んでいるようでそれが分からない。本音を言えば今すぐにでも食事を終えて書斎に行きたいところだが、仕方なく夕食を食べ続けていた。  父親から聞かされた話だと、和明は自分と時間を掛けて理解し合いたいから同居を望んだということだった。しかし、このようなことがあると、それは果たして本当のことかと疑ってしまう。  父親の言葉が、とってつけたものだと言うことくらい分かっている。しかし、その言葉を聞いたとき、嬉しかったのは事実だ。亜紀はわずかに苦笑する。すると向かいから和明の声がした。 「……すまなかった。仕事のことに口出しして」  和明を見ると、いつもと変わらぬ表情を浮かべていた。亜紀はガラスの器と箸をゆっくりとテーブルに置いたあと口を開く。 「二、三日、家を空けることになるわ」 「分かった」  和明はそう言った後、何もなかったかのように再び食事をとり始めたのだった。  入浴を済ませた後、リビングへ入ろうとしたとき、話し声が聞こえてきた。  どうやら和明が電話で話し込んでいるらしい。  こんな夜更けに一体どこへ連絡をしているのか気になるところではあるけれど、もともと彼は海外の病院ともつながりがあるのだし、時差を考えると致し方ないのだろう。そう思い、そこから立ち去ろうとした。だが、扉の向こう側からはっきりとした声が聞こえてきて、亜紀はバスローブ姿のまま立ち止まる。 「北条会と上条会の間に金の流れがないか調べろ」 (北条会と上条会の間の金の流れ?)  何やら物騒な言葉だった。しかも北条会と言えば、確か祖母の実家が運営している医療法人だ。そこと上条会との間に金のつながりがあるような言葉が気になり、亜紀は足音を忍ばせて扉に近づいた。 「頼むぞ。なるべく早くだ。じゃ、また」  聞き始めた矢先、会話は終わってしまったようだった。それまで止めていた息を吐いたとき、和明の足音が近づいてきた。亜紀は足音を立てないようにしながら、そこから離れて寝室へと向かったのだった。
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