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第27話 五章 1

 週明けの病院は混雑傾向にある。  上条病院も例外ではなく、朝から待合室が患者で混み合っていた。  午前中の診察を終えて一息ついたときには、昼とは呼べない時間になっていた。午後の日差しが差し込む詰め所で、受け持った入院患者の投薬指示を入力し終えたあと、亜紀はラップトップを閉じて窓の外に目を向けた。  詰め所の窓から見える中庭の光景は、一見すればふだんとなんら変わらない。しかし、そこに植えられている木々や花々それぞれに目を向けると、季節の移り変わりを実感できた。  庭に植えられている木々は、濃い緑の葉を生い茂らせていた。風に揺れる枝葉の間から漏れる日差しは既に夏のものになっており、盛りを迎えた花々の瑞々しい花びらを照らす。眩しいまでの庭を眺めながら、亜紀は物憂げに息を吐く。  契約結婚とはいえ思う相手との結婚に向かい、第一歩を踏み出したばかりだ。それなのに、喜びよりも不安の方が勝っている。それは、昨日和明にあの指輪を取り上げられたことが理由だ。そのときのことが頭に蘇り、亜紀は目線を下げた。 『これは俺が預かっておく』  和明はそう言って指輪を取り上げ、部屋から出て行った。そして、それ以降ろくな会話もないまま週明けを迎えたのだった。  亜紀は事情を打ち明けたかった。しかし、打ち明けたい相手は、よそよそしい態度で自分を避けている。それでも、意を決し話そうとしたけれど、話しかけづらい雰囲気を漂わせているものだから、何も言えないまま、時間だけが過ぎていた。  できることなら、時間を巻き戻したい。そうすれば、今度はちゃんと打ち明けられるのに。しかし、それができないから打ち明けられなかったことを悔いてしまう。こういうものは、時間が経てば経つほど、言いにくくなってくる。このままの状態でいるよりも、ちゃんと事情を説明しよう、そう思ったときだった。 「亜紀」  聞き慣れた声がした方へ顔を向けると、すぐ側に剛毅が立っていた。従兄弟の姿を目にしたとき、浮かんだのは結納のときのことだった。それは彼も気にしているのか、顔がこわばっている。それに、不安げな目を向けられていた。亜紀はそのときのことを頭の隅に追いやった。 「珍しいわね。上条病院(ここ)に来るなんて」  笑みを向けると、ほっとしたのか剛毅が表情を和らげた。 「それに、スーツ姿だし。明日は雨かも」  剛毅がスーツを着るのは、よほどかしこまった席だけだ。それを知っているので、亜紀は仰々しくスーツ姿を眺め始めた。 「病院長に呼ばれたんだよ」 「お父さまに?」  亜紀のからかいになど応じず、剛毅は真面目な顔で返事した。その様子と告げられた言葉の内容が気に掛かり、亜紀は聞き返す。すると剛毅が辺りを一瞥したあと、声を潜めて話し始めた。 「ああ。まだ公表できないが、理事が二人辞任するんだ。そのあとを頼まれてさ」 「えっ?」  亜紀は思わず声を漏らす。すぐに辺りを見渡してみるが、詰め所にいる同僚達は皆自分のことだけで手一杯らしく、黙々と仕事をし続けている。それを見てほっと安堵し、亜紀は剛毅に問いかけた。 「二人、っていったわよね。誰かわかる?」  中津川(なかつがわ)理事と張本(はりもと)理事。どちらも健康上の理由で辞任すると申し出がなされたらしい」  上条病院を母体とする医療法人上条会には理事が五人いる。一人は上条病院院長で亜紀の父親だ。そして上条クリニックの院長である剛毅の父親。そのほかに井川・張本・中津川といった外部から招いた理事がいる。  外部から招いた理事は、確か祖父が呼び寄せた者たちだ。そのうちの二人が同時に辞任することは、ある種異様な事態である。亜紀は教えられた事実が信じられず、目を大きくさせた。 「その理事が二人揃って辞任って何があったの?」 「そこまでは知らんが、何かあったとしか思えん。それに俺だけじゃなく、あいつにも話がいってるはずだ」 「あいつ?」  聞き返すと、剛毅が渋い顔で小さく頷いた。 「お前の、その、婚約者だよ。何も聞いていないか?」  婚約者、つまり和明だ。なぜ、和明に理事の話が行くのか分からず、亜紀は怪訝な顔をした。 「全然聞いていないわ。剛毅はいつその話を聞いたの?」 「俺は今朝。親父から今日の午後一番に伯父さんのところへ行けと。でも……」  言いにくそうにしている従兄弟の様子が気になり、亜紀は次の言葉を促した。 「でも。何?」 「親父が言うには、もっと早い段階であいつは聞かされているそうだ、爺さんから」  突然祖父が飛び出たものだから、亜紀は眉をひそめた。 「どういうこと?」 「爺さんは、あいつを辞任する理事の代わりにするつもりなんだろうな」 「えっ?」 「あいつ、病院の経営コンサルタントをしているんだろう? 親父から聞いたよ。だからだろうって」  亜紀は目を見張った。和明と祖父の間には、なんの繋がりもなかったはずだ。それなのに、どうして祖父が和明を理事にしようとしているのか、分からない。  和明の仕事については、新居を初めて見せてもらったときに森崎から聞かされていた。高校を卒業したあと、アメリカの大学で経営学を身につけて、向こうの病院で実績を積んだらしい。そしてそれが評価され、今ではシンガポールに本社がある医療系の経営コンサルタント会社の日本代表に就任したばかりだということも、そのときに聞かされていた。  その話を思い出しながら、亜紀は不安を募らせる。それは、和明に誤解されたままでいることに対しての不安よりも大きいものだった。  今までの理事会は、祖父の側についている理事が多かった。父親は祖父の言いなりに近いし、外部から招いた三人は、いずれも祖父のイエスマンになっている。そんな場所で、剛毅の父親は孤軍奮闘していた。  叔父は祖父とはソリが合わず、理事会ではいつも衝突を繰り返しているという。そんな場所に剛毅と和明が加われば、理事会のパワーバランスが崩れる可能性が出てくる。  祖父が和明を引き入れたいのは、そういった理由からだ。剛毅は叔父の考えに賛同しているし、それに和明が同調してしまうことを避ける為に先手を打ったのだ。もちろん医療経営の腕を買っているからだということもあるだろう。しかし、それが一番の理由で間違いない。  和明がどちらの側につくかで、理事会の勢力図は変わる。いっそのこと中立を通してくれればいいけれど、それを期待していいのかどうか分からない。そんなことを考えていると、剛毅から話しかけられた。 「さてと、そろそろ行かないと」  剛毅を見ると、面倒くさそうな顔をしていた。本音は行きたくないのだろう。 「お願いだから、おとなしくしてね」 「はいはい」 「つまらないからといって、寝ないでよ」 「分かってる」  病院長である父のもとへ向かう剛毅を見送るため、亜紀は従兄弟とともに詰め所を出た。 「じゃ、行くわ。またな」  そう言った後、剛毅は手を振りながら、亜紀の前から去っていった。  仕事を終えて帰宅すると、和明がキッチンで夕食を作っていた。 「お帰り。早かったな」  朝とは随分異なり、気さくに話しかけられた。 「今日は早く終わったのよ」  挨拶を交わしたあと、亜紀はリビングのソファに腰掛ける。亜紀が座った場所の正面はキッチンになっていて、調理している和明の姿がしっかり見えた。香ばしい匂いが漂う中、料理をしている和明の姿を眺めていると、視線に気付かれてしまい目が合った。だが亜紀は、それに全く動じることなく、調理を行っている彼をまっすぐ見つめていた。  和明は理事の話を受けたのだろうか。指輪の話もしたいところだが、そちらの方が気になって仕方がない。目に見えない不安を抱えたまま、亜紀が見つめていると、それまで料理をしていた和明が、突然やって来た。白いシャツにグレーのスラックスを身につけているということは、彼は外出している。近づく男に、亜紀は切り出した。 「おじい様から、理事にならないかと言われているそうね」  すると途中で和明がピタリと足を止めた。だが、すぐに動き出し、少し距離を置いたまま隣に腰かける。顔を見上げるが、動揺している感じはない。 「理事が二人辞任するから、その穴埋めを頼まれている。その話を誰から聞いた」 「剛毅からよ。お父さまに呼ばれたみたいで、病院に来ていたの。中津川理事と張本理事が同時に辞任するから、そこにあなたと剛毅が二人で理事になることを聞いたのよ」  和明の話ではまだ打診を受けているような印象だけれど、剛毅の話では既に決まったことのような印象を受けた。二人から聞かされた話が違い、不安ばかりが募る。その不安が頂点に達しそうになったとき、亜紀はそれを吐き出すように話し始めた。 「あなたに教えておくわね。上条クリックができた理由を。もともと上条クリニックはなかったのよ、実は」 「……どういうことだ」 「おじい様と叔父様は昔から合わなくて衝突を繰り返していたの。多分私や剛毅が生まれる前からでしょうね。政界とのつながりを持ち続けたいおじい様とつながりを断つべきだと主張している叔父さまの意見が合うことなんかないの。同じ病院内でそういうことがあると、当然分裂する。だから、分院として上条クリニックを作って、そこに追いやったのよ」  忘れもしない。祖父の何度目かの誕生日の席で、叔父と祖父が激しく言い争った光景を。それから数か月後、上条クリニックを作ることが決まり、そのときから叔父は祖父が出るまで、家に姿を見せなくなった。亜紀が高校を卒業し、大学に入学した年のことだった。 「そんなことがあったのか」  亜紀がその当時のことを振り返っていると、和明の声が耳に入り、現実に引き戻された。 「叔父さまはうっと孤立無援の状態でいらした。他の四名の理事はおじいさまの側についているから。でも、そのうちの二人が辞任し、その後釜に剛毅とあなたが収まるならば、均衡が崩れる可能性が出てくるの。だから……」  亜紀は息を吐き出した後、和明を真剣な目で見上げた。 「そんなシーソーゲームに関わってほしくないの。祖父の言いなりになってほしくない。あなたの意志で、理事としての仕事をしてほしいのよ」  亜紀は不安げな表情を和明に向けたまま、膝に置いていた手をぎゅっと握り締めた。その隣で和明は、黙り込んでいる。  理事会のことにまで口を挟むつもりはなかった。和明が祖父の側に就こうが、叔父の側に就こうが、亜紀には何のメリットもなければデメリットもないのだから。しかし、和明に余計な荷を背負わせたくなかった。  今まで通りを望むなら、祖父の側へ着けと言えばよい。いや、もしかしたらもう祖父の側についたかも。もしも叔父の側に就いてしまえば、厄介なことになる。それを考えると、できれば中立を通してくれたらと願わずにいられない。 「何が不安なんだ?」 「え?」  俯かせていた顔を上げると、心配そうな顔を向けられていた。亜紀は躊躇したが、ここまで口を挟んでしまったからには、事情を説明せねばなるまい。亜紀は意を決し口を開いた。 「おじいさまは、あなたを自分の側に引き込むつもりなの。そうして御自身の地位を保ちたいだけなの。だから―― 「落ち着いてくれ。理事会の内情はともかく、欠員がある以上誰かが入らなければならない。いずれ結婚したら、そこに入る予定だったし、少しその時期が早まるだけだ。それに」  結婚したら理事に就く予定だったのは初耳だった。亜紀は目を大きくさせる。 「俺は病院経営のプロだ。おかしいところがあれば、そのときは遠慮はしない。たとえ身内であってもだ」  和明は表情を変えないまま、はっきりと言い切った。いっそ自信さえ感じさせる彼の表情を目にして、亜紀は何も言えなくなってしまう。しかし、心に広がる不安は消えてくれなかった。そればかりか不安が一気に膨らみ、亜紀は涙ぐむ。すると和明に抱き締められた。 「だから余計な心配はいらない。お前はお前のやるべきことをしろ。いいな」  背中に添えられた和明の手が、亜紀の背中をゆっくりと撫でさする。そうされているうちに、不安が少しずつ勢いを失っていく。亜紀は涙ぐんだまま、温かい背中に腕を回し、しがみつくように抱き締めた。
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