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第26話 離婚三日前 4

 その手紙と写真が亜紀のもとに届いたのは少し前のことだった。  担当した妊婦や患者から手紙が届くことはそう珍しいことではないけれど、その女性のことは特に印象に残っている。  手紙が届くようになったのは去年の三月からだ。写真には愛らしい着物を着た女児が母親とともに写っていた。添えられた手紙には、二度目の桃の節句を祝う母親の喜びが記されている。亜紀は届いた手紙と写真を交互に眺めながら、嬉しそうにほほ笑んでいた。 「何見てるんだよ」  亜紀が詰め所の奥まった場所にあるテーブルで写真を見ていると、従兄弟の声がした。 「ああ、もうそんな時期か……」  スーツ姿の剛毅が、亜紀の背後から写真を懐かしそうな顔でのぞき見る。 「子供の二年ってすごいわよね。あんなに小さかったのに」  椅子に腰掛けながら感慨深そうに話すと、背後にいる剛毅が笑ったような気がした。 「考えてみれば奇跡だよな」 「え?」 「精子と卵子がひとつになったあと、五億年の進化の過程を経て赤ん坊は生まれる。魚類から両生類、そしては虫類、ほ乳類。この過程が何かを意味しているみたいだってお前言ってなかった?」  剛毅はそう問いかけながら、近くにあった椅子を寄せてそこに腰掛けた。亜紀は眺めていた写真を机に置いて、僅かに笑みを浮かべながら窓へと目をやった。大きな窓からは春を思わせるうららかな日差しが差し込んでいて、医局の空気を温かくさせている。ふだんはそのようなことを気に掛ける暇などないのだが、窓から見える桜の枝を見るとつぼみが赤く色づいていた。  剛毅の言う通り、初めて子宮内で育つ胎児の映像を目にしたあと、その言葉を掛けていた。そのときのことを振り返りながら、亜紀は桜のつぼみを眺めていた。 「さて、そろそろ行くか」  剛毅が面倒くさげに椅子から立ち上がり、立ち去ろうとした。亜紀は窓から従兄弟へと目を向ける。  出勤前に上条クリニックへ立ち寄ったあと、剛毅が自分と一緒に病院へ来たのには理由がある。 「これから理事会よね」 「そうだよ」 「しっかりしてよ、理事なんだから」 「分かってるよ。理事になってもう二年だ。最近はようやく落ち着いてきたが、この二年は大変だったよ」  剛毅が面倒くさげに話すのを目にして、亜紀は苦笑した。剛毅が理事になってもう二年になる。和明と婚約したのち相次いで古参の理事が辞任したため、剛毅と和明がそこに加わったのだ。  もともと剛毅はいずれ理事になることが決まっていたが、和明の理事就任は予想外のことだった。だがその当時理事長だった祖父が、半ば強引に和明を理事にしたのだ。それが結果的に祖父を引退にまで追い詰めることになるとは、その頃は思いもしなかった。 「和明さんは来ているのか?」  二年前の出来事を亜紀が振り返っていると、剛毅から急に尋ねられた。 「お父さまのところにいるんじゃないかしら。だって……」  ――――辞任することもだけど離婚のことも話さなければならないだろうし。  亜紀は数日前に和明から告げられた言葉を思い返した。 『次の理事会で辞任届を出す予定だ』  和明は、今頃父親に辞任のことと離婚のことを切り出しているだろう。そう思うと、自然と気持ちが沈んでくる。しかし、それを剛毅にさえも気付かれたくなくて、亜紀は心に広がる感情から目をそらす。 「始めの頃はどうせイエスマンになるだろうと思ってた」 「えっ?」  剛毅が突拍子もない言葉を口にして、亜紀は思わず声を上げた。剛毅は少し照れくさそうにしている。 「和明さんだよ。爺さんの駒になるだろうと思っていたが違ってた。理事に就任するなり経営見直しに着手して、それに付き合わされていくうちに考えを改めざるを得なかった」  長年権勢を誇っていた祖父を退陣にまで追い込んで、父親が理事長になったのはいいが、旧態依然とした体制を変える為には、当然いろいろなところで不都合が生じた。その一切合切を引き受けたのが和明だ。  上条病院を母体とする医療法人・上条会の理事となった和明は、経営の見直しから手掛け、ついには体制を一新させた。そのため常に対応に追われることになり、結婚したあとは家に戻らない毎日が続いたものだった。  珍しく帰宅してもかなり遅い時間で、その後リビングで一人酒を飲んでいたことを亜紀は知っている。そしてその姿を目にするたび胸を痛ませたものだった。その頃を振り返り、亜紀は苦笑する。 「二年の間にすっかり変わったものね。病院も」 「ああ。でもこれで良かったと俺は思っているし、これからも和明さんのもとで勉強したいと思ってる」 「そう……」  和明は病院経営のプロだ。その手伝いを命じられた剛毅が、経営改善と見直しを推し進める夫の姿から何を学んだのか気になるところではある。そしてこれからもずっと夫の側で学びたいと言う姿を目にして、申し訳ない気持ちになった。  今日で和明は理事を辞任する。結果剛毅の望みは叶わない。これから行われる理事会で、その事実を知ったとき、従兄弟はどのような反応を示すのか。それを思うと剛毅の姿を見ていられず、亜紀は目を伏せた。
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