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第25話 四章 6

 ふと意識が戻り、亜紀はゆっくりとまぶたを開いた。汗の匂いと和明の匂い、そして情事のあとを感じさせる匂いがした。そして規則正しく緩やかに上下している胸の動きが、頬から伝わってくる。  既に灯りが落とされた部屋は、しんと静まりかえっていた。暗闇が視覚以外の感覚を鋭くさせていく。包み込むように抱き締められていて、接したところから伝う柔らかな熱がとても心地よい。温かい腕の中にいると、不安など一切感じなかった。  亜紀は和明の体に添えていた手を、汗が残る背中に回そうとした。すると、眠っているはずの和明がけだるげに息を吐きながら、身じろぎした。それとともに抱き寄せられる。  頭上から消える穏やかな寝息。触れたところから伝う体温。男と女の匂い。そして体を抱きしめる腕の逞しさ。そのすべてが安心感へと変わっていく。亜紀は和明の背中に腕を回し、目覚めないようそっと抱きしめる。 「ん……」  和明が身じろぎしながら声を漏らした。亜紀は思わず顔を上げる。一瞬起こしてしまったかと思ったが、和明は眠っているようだった。亜紀は胸をなで下ろし、再び眠ろうと瞼を閉じようとしたそのとき。背中に回されていた手がゆっくりと動いた。それに気が付き、亜紀は温かな手の動きを追いかける。  始めの頃こそ確かめるように動いていた手が、やがて優しいものへと変わっていった。その動きには覚えがある。亜紀は眠りに落ちそうになりながらも、記憶を手繰り寄せようとした。しかし、心地よさに抗えず、吸い込まれるように眠りに落ちていた。  肌にひんやりとした空気が触れて、一気に意識が浮き上がった。  亜紀はゆっくりと瞼を開く。柔らかな枕に頬を押し当てたまま、隣を見ると既に和明はいなくなっていた。指を伸ばしそこに触れてみると、そこから離れて大分経っているのか、ひんやりとなっていた。  眠りに落ちる前まで確かにそこにいたはずだ。それなのに、もうこんなにも冷たくなっている。そういえば、和明とともに目覚めたことがない。初めて抱き合ったときも、彼のマンションで抱き合ったときもだ。それがなんだか、なれ合うことを避けているように感じられた。和明にとって、自分と体を繋げる行為はきっと生殖行為としか思っていないのかもしれない。そう思うと、和明がいたであろう場所のシーツのように心が冷たくなってくる。  せめて一緒に朝を迎えたいと思うのは、わがままだろうか。亜紀は寂しさとやり切れない思いを抱いたまま、和明がいたであろう場所を見続けた。そこを見続けているうちに視界が歪んでくる。目に温かなものが浮かんだそのときだった。  部屋の扉が開く音がしたものだから、亜紀はとっさに目を閉じて眠っているふりをした。カーペットを踏みしめる音が近づいてくるとともに、和明の気配が近付いてくる。それらが近付くたびに亜紀の心臓はどくどくと激しく脈打った。  むき出しになったままの肌に視線を感じた。しかし、寝たふりを決め込んでしまったせいで、起きるタイミングを逃したような気にさせられた。  息を殺したままじっとしていると、ベッドが軋む音がした。頬に温かなものが触れたそのとき、体が勝手にビクンと跳ねた。気まずさを感じていると、頬に触れた手がすっと離れていく。 「起きてるのか?」  恐る恐る目を開くと、目に前にはメガネを掛けた和明がいた。彼はベッドの端に腰かけながら、亜紀を眺めている。 「おはよう」  優しい手つきで頬を撫でられた。亜紀は、気まずさを感じていたが、それを誤魔化すように素っ気ない言葉で返す。 「おはよう。さっき目が覚めたのよ」 「それでなぜ寝たふりを?」 「起きようとしたら、あなたが部屋に入ってきて、それで……」 「それで?」  じっと見つめられてしまい、亜紀は気恥ずかしさから目を逸らし、ふて腐れた顔をした。すると、それまで頬を撫でていた手が、肩をたどって腕へと伸びていく。指先で肌をなぞられたところから、ぞくぞくとした震えが走り、亜紀は声を詰まらせた。  指先が細い手首にたどり着き、手首を持ち上げられた。亜紀の目の前で、和明が手の甲に唇を押しつける。上目で見上げる和明と目が合ったそのとき、無機質な電子音が部屋に鳴り響いた。その音が耳に入って、亜紀は顔をハッとさせる。 「このままベッドで過ごしたいところだが、そうさせてもらえないらしいな」  そう言うと、和明はそれまで掴んでいた亜紀の手を離した。穿いていたジーンズのポケットからスマホを取り出し、何事もなかったかのように目の前から立ち去っていった。  寝室に取り残されてしまった亜紀は、ゆっくりと体を起こし、窓から差し込む光を眺めながら小さなため息を漏らした。  かなり遅い食事をとり終えたあと、割り当てられた書斎に向かうと、荷物が置かれていた。  当初の予定では、結婚したあとここに住むことになっていた。しかし、亜紀の知らないうちに結納が済んだあとからになっていた。  もともと寝るためだけに家に帰っていたようなものだから、別にかまわなかった。だけど、同じ家に二人でいると、ふだん通りにできなくて、どうにも調子が狂う。  だからといって、決めたことを取りやめるわけにはいかない。今は仕方なくとも、いずれは慣れると自分に言い聞かせながら、亜紀は荷物に手をつけた。  亜紀の書斎は、寝室の向かい側にある。部屋には壁一面の本棚が既に置かれていた。荷物の箱から本を取り出し、棚に並べ始める。  すると、積まれた段ボールの中にひときわ小さい箱があり、それに目が留まる。その箱を取り出してみると、貴重品と書かれている。  箱を開いてみると宝石箱が入っていた。それを取り出し、引き出しを確かめてみると、小さな袋が幾つかそこに入っていた。その一つを手に取って、中身を確かめてみると、あの指輪が入っていた。亜紀は指輪を取り出し、表情を曇らせる。  青年から贈られた指輪は、婚約指輪にも劣らない輝きを放っていた。なるたけ早く処分しなければと思いながらも、ついに処分できないままだった。  約束したといっても、所詮は子供同士の約束だ。しかし、いつか迎えに来てくれると信じていた。だけど、もう自分はその約束を果たすことなどできない立場になっている。  やはりこの指輪は処分しよう。捨てることはできないけれど、実家の納戸にでもしまっておけばいい。和明の目に触れないうちにそうしようと決めて、袋にしまい入れようとしたときだった。  突然部屋の扉が開き、亜紀は目を走らせた。するとそこには和明が立っている。見られたくないところを見られたような気がして、気まずさから指輪を隠そうとした。  しかし、和明にその腕を掴まれた。和明を見ると、目を大きくさせている。まるで信じられない光景を見ているような顔をしていた。  和明の視線をたどってみると、隠そうとしていた指輪に向けられていた。亜紀はそれを目にして、言いようのない不安を抱く。 「どうしたの?」  動揺をひた隠しにして、尋ねてみるが返事はない。しばらく和明を眺めていると、それまで手首を掴んでいた手が離れていった。 「これは?」  真剣な目を向けられて、亜紀は一瞬言葉を詰まらせた。ありのままの話をすれば済むのだが、なぜだか言葉が出てこなかった。黙りこんだまま和明を見つめていると、持っていた指輪を取り上げられた。  亜紀は、無意識のうちに手を伸ばす。すると、和明によって阻まれた。亜紀はがく然とした表情で和明を見つめている。和明は思い詰めたような顔で、指輪を見始めた。  なぜ、そのような顔をするのだろう。亜紀は、目の前で何が起きているのか分からず、和明を凝視する。すると、指輪を見ていた和明が、口を開いた。 「驚いたな。他人が他人に贈った指輪を持っているなんて」 「えっ?」 「だってそうだろう? この指輪の内側にある名前を見れば、どうも上条家のものではなさそうだし」  向けられたまなざしは、とても鋭いものだった。どういうわけか、怒りさえ感じさせる和明の姿を前にして、亜紀は何も言えなくなっていた。 「これは俺が預かっておく」  そう言って和明は、亜紀を見ようともせずに立ち上がった。亜紀はとっさに引き留めようとしたけれど、向けられた背中から強い拒絶を感じ取り、後ろ姿を見送ることしかできなかった。
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