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第23話 四章 4

 亜紀は、隣にいる和明をちらりと盗み見た。  料亭をあとにしてから、彼はずっと黙り込んでいる。  だから気になることはあれども、亜紀はそのことに触れないままにしている。  和明が車で向かったのは人気のない埠頭だった。目の前には暗い海が広がっていて、その向こう側には光瞬く夜景が広がっている。漆黒の闇に浮かぶ光が、街の輪郭を描いていた。亜紀は夜景を眺めながら、先ほどの出来事を振り返っていた。  剛毅と和明がどんな話をしていたのか、気にならないわけではない。できることなら、今すぐにでも和明に聞きたかった。しかし、その当人は何も話そうとしないし、話しかけづらい様子だった。  和明は車を停めたあとも黙り込んでいた。亜紀はどうしていいか分からず、助手席で夜景を眺めるしかできない。狭い車内でそうしていると、隣からため息が聞こえてきた。亜紀はちらりと横を見る。  和明は、運転席に座ったまま、前を見つめていた。暗くてはっきりと分からないけれど、思い詰めたような表情を浮かべている。それに、前をまっすぐ見つめる目は、そこか遠くの方を見ている気がした。  和明の横顔を見ているうちに、胸が痛んだ。それは、視線の先にいる和明が、傷ついているように見えたからだった。亜紀は無意識のうちに和明の腕に手を伸ばした。そっと触れると、それに気付いた和明が黙ったまま体を近づけてくる。体だけでなく顔が徐々に迫ってきて、亜紀はそっと瞼を閉じた。唇に柔らかなものが触れる。  触れた唇がわずかに震えている。それに、和明はキスしたまま動こうとしなかった。いつもなら、といってもそう多くはないが、彼は唇を重ねたあと、すぐに舌を差し込んでくるというのに今回に限ってそうではなかった。  亜紀は唇を触れ合わせたまま、和明の様子を窺っているうちに、恋人だった男のことを考えていた。重ね合わせるだけの口付けは、恋人だった男を思わせるほど優しいものだったからだった。記憶の片隅に残っている思い出を振り返っていると、急に和明が唇を強く押し付けてきた。 「ん……っ!?」  驚きの余り、亜紀は無意識のうちに唇を固く閉ざし体を離そうとした。しかし、いつの間にか背中に回されていた腕がそれを阻む。強い力でぐっと押さえつけられた上に無理やり唇をこじ開けられてしまい、熱い吐息ともに濡れた舌がぬるりと入り込んでくる。無遠慮に入り込んだ舌が入り込んだとき、とっさに舌を引っ込めたけれど、すぐに絡め取られてしまった。  その直後、いきなり頬を両手で押さえつけられてしまい、より深く舌が入り込んできた。肉厚の舌はまるで生き物のようにはい回り、亜紀の口内を犯していく。息もままならないまま深いキスをしていると、和明が身を乗り出してきた。  熱を発する体が覆いかぶさってきた。そのせいで、助手席のシートに体を押さえつけられてしまい、亜紀は息もままならないままキスをし続けていた。  先ほどまでと打って変わった性急な動きには、余裕など感じられなかった。荒々しいキスのせいで、和明によって快感を教え込まれた体から力が抜けていく。 「ん……」  不覚にも鼻にかかった甘い声が漏れた。そのとき、急に和明が全ての動きを止めた。覆いかぶさっていた硬い体がすっと離れていく。それまで頬をしっかりと押さえつけていた手が離れたとき、亜紀は急に不安になった。 「悪かった……」  隣から聞こえてきた声は、重く沈んでいた。亜紀はシートに体を預けながら、顔を俯かせる。すると、そのとき車の外から汽笛が聞こえてきた。 「……帰るか」  和明を見ると、ハンドルに手を伸ばしていた。  それからすぐにゆっくりと車は動き出し、それまでいた埠頭をあとにした。  二人の新居であるマンションに着くまで、和明は黙ったままだった。  それまでの間、車内には重苦しい空気が漂っていて、亜紀は息苦しさを感じずにはいられなかった。  息苦しさを紛らわせようと、亜紀は再び考えていた。和明は、どうして剛毅に殴られそうになっていたのか。それに、そのとき剛毅とどんな話をしていたのかを。  剛毅が和明のことを良く思っていないことは分かっている。けれど、だからと言って、それをあからさまに出すほど従兄弟は子供ではない。だとしたら、考えうることはただ一つ。目の前を歩く男が、剛毅を挑発するような言葉を放ったからではないか。そうすれば合点がいく。  しかし、気に掛かることはそれだけではない。なぜ和明は急にキスをやめてしまったのかが気になっていたけれど、それについては何一つ思い当たるものが浮かばなかった。  そうしているうちに、マンションへ着いていた。車を降りたあと、マンションの建物へ向かう和明の背中を眺めながら、亜紀は表情を曇らせる。すぐ目の前にいるはずの和明が、遠く離れた場所にいるような気がしたからだった。しかし、それを言葉にできるわけはなく、亜紀は和明のすぐ後ろを歩いていた。  エレベーターを降りて、フロアに足を踏み入れたとき、亜紀は沈黙に耐えかねて和明に問いかけようとした。だが、その言葉は唇によって封じられた。急に抱き締められて唇を奪われたのである。  強引にねじ込まれた舌は、あっけないほど簡単に亜紀の小さな舌を絡めとった。和明の勢いに押されてしまい、亜紀は口付けというには荒々しいキスを受け入れている。  しかし、和明は再びぴたりと動きを止めて、体を離そうとした。きつく抱きしめていた腕も、重ねていた唇も何のためらいもなく離れていく。唇が離れたとき見えた和明の表情は、苦しそうに歪んでいた。  和明は顔を逸らしたまま、目の前から去ろうとしている。亜紀はとっさに腕を伸ばして引きとめた。 「いや……」  すると、和明が目を大きくさせた。亜紀は悲しげに顔を歪ませたまま、和明の腕を掴んでいる。男の腕を掴んでいる小さな手は、小刻みに震えていた。  和明の姿が涙で歪む。瞬きをしたとき、熱い涙があふれだした。亜紀は頭を横に小さく振りながら、和明に抱き着いた。 「抱いて」  亜紀は和明の胸に飛び込んで、顔を埋めた。ほのかに漂う男の匂いにほっとしながらも、不安でたまらなかった。この不安を消してくれるのは和明だけだ。しかし和明は、亜紀を抱きしめようともせずに、その場に立ち尽くしている。  和明に聞きたいことはたくさんある。だけど、今は伝えたい気持ちの方が勝っていた。あのときと同じだ。たった一言、好きと素直に言えたならと、亜紀は心の中で悔やむ。  幼い頃に結婚の約束を交わした相手のことを、忘れなかった日はなかった。だけど、恋とは思うようにはいかないもので、気が付いたときにはその人に恋していた。  会えない時間を埋めるように連絡を取っていたのに、お互い医師として働くようになってからは、忙しさを理由にそれができなくなっていた。そしていつの間にか疎遠になっていて、彼がアメリカに渡りそこで結婚したと知り合いから聞かされた。  恐らく彼は分かっていたのだろう。上条家に生まれた自分との間には未来がないことを。だから何も言わずに去ったのだ。この四年の間、彼との別れを悔やまなかった日はなかった。約束を交わした相手のことを記憶の隅に追いやって。  家を飛び出して、彼を追いかけていたならばと思ったこともある。そうやって悔やみ続けているうちに、約束も含めていつの間にか古傷のようなものになっていた。  あのときのようなつらい思いはまっぴらだ。それに待てど暮らせど来ぬ人を思い続けるのは、苦しいだけ。そう頭では分かっているのに、抱き着いている男に思いを伝えることができなかった。  和明との間に必要なものは愛情なんかではない。互いに自由を得るためだけの結婚に必要なのは信頼だけ。そう言い切ったのは和明だ。  だから亜紀は、和明に抱いた感情を押し殺した。和明が欲しいものは自分ではなく、自由なのだから。亜紀は意を決し、和明をまっすぐ見つめた。 「抱いて。和明」  すると、見上げた先の表情が、みるみるつらそうなものへと変わっていく。しばらく無言のまま見つめ合ったあと、背中に男の手がゆっくりと回された。
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