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第22話 四章 3

「まあ、きれいだこと……」  義母が漏らした言葉で、場の空気が和んだ。  義母が感嘆の声を漏らしたのは、たった今差し出されたばかりの茶の中で、塩漬けにされた桜の花びらがゆっくりと開いたからだった。  本来ならば煎茶が差し出されるのに、今日に限って桜茶だった。これは「お茶を濁す」という言葉があるから、祝いの席に煎茶を差し出さないからだという。それにわざわざ八重桜を用いているのは、花びらが散り散りにならない配慮だった。  料亭の配慮はそれだけではなかった。床の間には、鶴と亀の掛け軸や、共白髪の媼(おうな)と翁(おきな)の人形、それに松竹梅が飾られている。それに先ほどまで出された料理もすばらしかった。  祝いの席であることを、あらかじめ伝えたことも幸いしたのだろう。縁起物の食材を用いた料理ばかり。それらを食べ終わり、あとはお開きにするだけになっていた。  向かい側にいる亜紀を見ると、彼女も茶を眺めていた。茶器を持つ左手の薬指には、婚約指輪が光っている。わずかではあるが表情が柔らかくなっていて、伏し目がちにしながら見つめる姿はとても美しい。その姿を見つめていると、視線に気づいたのか、亜紀と目が合った。  だが、亜紀はぷいと顔をそらした。つんとすました顔には照れなど微塵(みじん)も感じられなかったけれど、照れているように見えてしまうのは否めない。その仕草がかわいらしく、つい口元が緩みそうになったが、和明は苦笑でやり過ごした。  するとそれが気に入らないのか、亜紀から鋭い視線を向けられていた。眉を寄せているけれど拗ねているようにしか見えず、和明は苦笑を抑えるので精一杯だった。  亜紀は時折、少女のような仕草をするときがある。ふだんは決して表情を変えないくせに、予期せぬ出来事に遭遇したとき、それが表に出てしまうものらしい。  そのような姿を見せられたら、ようやく心を決めたはずなのに、いとも容易(たやす)く揺れてしまう。それに抱き合っているときの彼女の仕草や表情を目にすると、あっけないほど簡単に理性を失ってしまう己の不がいなさに、和明は苦笑するしかなかった。  絶えず切なげな吐息を漏らす唇。しっとりと濡れた肌から立ち上がる甘い香り。  すがりつくように腕と脚を絡ませ、和明を責め立てるように揺れるなよやかな肢体。  そして眠りに落ちる瞬間のあどけない姿。  決して溺れてはいけないというのに、気づけばいつも夢中になっている。その上、このままずっとこうしていたいとさえ思い始めているのも事実だった。  だが、亜紀は四年前に別れた男を今でも思っているに違いない。和明はやるせない胸の内を吐き出すように、ゆっくりと息を吐き出した。  当初の予定では、亜紀が医師免許を取った直後、迎えに行くつもりだった。遠い昔に交わした約束を果たしに来たと言って。  しかし、その当時亜紀には恋人がいた。その話を彼女の父親から聞かされて、和明は安堵したとともに、やり切れない思いでいっぱいになった。  亜紀を取り巻く状況は、その当時から厳しいことを聞かされていたので、そう思ったのである。たとえ厳しい状況であっても、思いを交わした相手とならば、きっとどのような困難をも乗り越えていける。そう思ったから、結婚の約束のことなどきれいさっぱり忘れようとしたのだった。  しかし、和明がそう心を決めた後、亜紀は恋人と別れてしまった。父親は多くを語らなかったけれど、上条家という家の存在が別れた理由であることくらい容易に想像がついた。  このままでは、亜紀は自由を手に入られない。そう思ったからこそ、和明は亜紀との結婚を推し進めたのだった。  しかし、予期せぬことが起きた。かつて幸せな家族の象徴であった亜紀を、一人の女として愛し始めている。それに和明が気付いたのは、亜紀の着替えを持ってきた森崎が部屋に来たあとだ。  亜紀が不機嫌そうにしている理由が森崎に対する嫉妬だとは思わず、それに気付き嬉しかった。そのとき、和明は亜紀へ抱いている感情が変化していることに気がついたのだ。  だが、どんなに思う相手でも、亜紀の心に中にいるのは別の人間だ。もしも、亜紀が家に縛られてさえいなければ、その男と幸せな結婚をしていたろうに。そう思うと、胸の奥が疼くように痛み出した。 「ちょっと失礼します」  隣に座している父親に声を掛け、和明は席を立ち上がった。タバコでも吸って気を紛らわせているうちに、やり切れない思いは薄れていくはずだ。そう思ったからである。和明は、おもむろに席から立ち上がり、賑やかな宴席を抜けだしたのだった。  廊下に出ると、既に辺りは薄闇に包まれていた。  風情のある庭に置かれた灯籠から漏れた光が、辺りを照らしている。  庭を一瞥したあと、喫煙所へ向かい歩き出すと、すぐに自分以外の足音に気がついた。しかし、和明は気付かないふりをする。後を追いかけてきたのは、きっとあいつだろう。その人間に覚えがあるから、あえてそうしたのだった。  堺家にやってきた使者に結納返しを贈るとき、和明は向けられている視線に気がついた。わざと視線を外しそちらを見ると、亜紀の従兄弟と思われる男に睨めつけられていた。そのときだけでなく、今まさに行われている宴席でもだ。  なぜ鋭い視線を向けられているのか、和明は分かっていた。それは、亜紀の父親から以前聞かされた話があるからだ。  亜紀の父親は、彼女の従兄弟が肉親以上の感情を持っていることを危惧していた。幼い頃からずっと側にいたこともあり、肉親の情と恋愛感情とを混同しているかもしれないとも話していたが、あの様子だとそうではないだろう。向けられたまなざしが、それを如実に物語っていたから。  それにしてもと和明は思う。たとえそのような感情を持っていても、上条家の人間ならば結婚というものが、家同士の結びつきのためにあることくらい分かっているはずだ。  だが、頭でわかっていても、どうしても納得できないものもある。恐らく彼は、亜紀の結婚を未だに納得できないのだろう。和明はそう考えながら喫煙所へと向かっていた。  ようやく喫煙所が見えたそのとき、背後から呼び止められた。和明は足を止め、ゆっくりと振り返る。すると、亜紀の従兄弟が思い詰めた表情ですぐ後ろに立っていた。 「それで何か御用でしょうか? わざわざ追いかけてこられたのは、人に聞かれたくない話だからでしょう?」  喫煙所となっている場所は、もとは小さな座敷だったと思われた。六畳ほどの部屋の中央には厚みのある絨毯が敷かれていて、そこに漆塗りのテーブルが置かれている。和明はテーブルに近づきながら、ジャケットの内側からシルバーのシガレットケースを取り出したあと、亜紀の従兄弟・剛毅に問いかけた。 「……頼みたいことがあって追いかけてきた」 「頼みですか?」 「亜紀のことで、ひとつだけ頼みたいことがある」  そう言った後、剛毅は真剣な表情で口を開く。 「亜紀を、幸せにしてやってほしい」  いきなり頭を下げてきたものだから、和明はどうしたものかと一瞬思案する。彼女を思う従兄弟がこうまでするということは、それなりの理由が存在しているからだ。そうでなければ、なんとしてでも結婚を阻止させようとして立ち回るものだから。  目の前にいる男は、心底亜紀の幸せだけを願っているのだろう。できることならそれに応えたいし、計画の目的がなければそうしていただろう。和明は握った拳を更に握りしめた。 「できうる限り、そうするつもりだ。だが……」  亜紀の為に恥も外聞もなく頭を下げる男に、どうしてかいら立ちが募る。 「お前の分まで、彼女を幸せにするつもりはない」  すると、剛毅が勢いよく顔を上げた。言い当てられたことに対する驚きからか、剛毅がハッとした顔で和明を凝視した。 「本音を言えば、お前が彼女を幸せにしたかったんだろう? いとこ同士ならば結婚することもできる。彼女を愛しているのなら、なぜそうしなかった そうすれば、こんなうさん臭い男に奪われずにすんだのに」  和明は苦笑した。すると剛毅が怒りを露わにさせながら、和明の胸倉をぐっと掴んで拳を勢いよく振り上げる。怒りの形相が迫り、和明は冷ややかな目を向ける。 「何も言えないからといって、殴るのか?」  すると、剛毅の顔が苦しそうに歪んだ。振り上げた拳が降りてきて、和明が腕でそれを止めようとした。そのときだった。 「剛毅! やめて!」  和明は声がした方へ視線を走らせた。  亜紀は叫んだ。目の前では今正に、怖い顔した剛毅が和明を殴ろうとしている。  それをどうにか止めようとして、気付けば勝手に体が動いていた。  必死の叫びに気付いた二人の男から、ハッとさせた顔を向けられた。亜紀は二人の間に体を割り込ませ、剛毅の目の前に立ちふさがる。両手で和明をかばうようにして。 「何やってるのよ。剛毅」  亜紀が思いつめた目で睨み上げると、剛毅はつらそうに顔を歪めた。向けられたまなざしが、悲しげなもののように見えてしまい、亜紀はそれ以上何も言えなくなった。 「亜紀……」  今にも消え入りそうな声だった。ふだんとは打って変わって、打ちひしがれているような従兄弟の姿を目の当たりにして、亜紀は驚きを隠せなかった。暫くぼう然となったまま剛毅を見上げていると、叔父の声がして亜紀はそちらに目を向けた。 「そこで何をしている」  視線の先では、叔父が怪訝そうな顔で廊下に立っていた。亜紀は顔をこわばらせたまま、叔父へと近づいた。 「叔父さま、あの……」 「剛毅、何をしているんだ。亜紀、何があった。なぜ和明くんと三人でここにいる」  三人のただならぬ様子に気づいたのか、叔父が亜紀の目の前を通り過ぎ二人の男に近づいた。亜紀はどうにか笑みを作りながら、叔父の側に駆け寄った。 「叔父さま。男同士の話に私が口を挟んでしまっただけだから……」  亜紀が声を掛けると、叔父が振り返った。心配そうな顔を向けられてしまい、申し訳ない気持ちにさせられる。  すると剛毅が、背後から亜紀を庇うようにすっと前に出た。 「タバコを吸いに来たら、二人がいちゃいちゃしてたんで、からかっていただけだよ」 「はあ?」  剛毅は先ほどまで沈痛な表情を浮かべていたのに、ふだん通りの顔になっていた。茶化すような言葉を発した息子に、剛毅の父親は呆れたような顔を向けた。 「見ている方が砂糖を大量に吐きたくなるほど仲がよくてさ。独身の俺にとっちゃ、目の毒だったぜ。そうだ、親父、まだ酒残っているだろ? 部屋に戻ろう」  そう言いながら剛毅は父親の肩を抱き、半ば強引に立ち去ろうとした。しかし叔父はどうも釈然としないらしく、息子と和明、そして亜紀に交互に目を向けた。しかし、剛毅はふだん取りの態度で父親を連れ出そうとする。 「さ、親父早く部屋へ戻ろう。俺たちがいつまでもここにいたら、二人がいちゃいちゃできないだろ?」 「剛毅! お前ってやつは本当に……」  無理やりに近い形で宴席に連れ戻そうとする息子を、叔父は軽くにらみ付けた。その姿を見たとき、亜紀は幼い頃を思い返す。心優しい従兄弟は、いつもこうやって自ら進んで道化役となっていた。それを改めて思い出すと、申し訳ない気分になる。亜紀がつらそうな顔で息子とともに立ち去る叔父の背中を見送っていると、それまで黙っていた和明が二人を呼び止めた。 「上条さん」  すると部屋へ戻ろうとしていた叔父と従兄弟が足を止め、亜紀と和明の方へ振り返った。思わず隣にいる和明を見上げると、彼はうっすらと笑みを浮かべ剛毅たちをまっすぐ見つめている。亜紀は困惑を隠せないまま、和明と剛毅たちに交互に目を向けた。 「そろそろ会食も終わりでしょうし、亜紀さんも疲れているようなので、私たちは一足先に帰らせていただきます」  和明が礼儀正しくそう言うと、叔父は戸惑いながらも了承してくれた。 「では、兄にそう伝えておきます」 「お気遣いいただきありがとうございます。それでは失礼させていただきます」  和明は叔父に軽く頭を下げた後、亜紀の手を取ってその場から離れたのだった。
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