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第19話 離婚三日前 3

「亜紀?」  剛毅に尋ねられ、亜紀は現実に引き戻された。顔を上げると、向かい側の席で剛毅が心配そうな顔を浮かべている。大きな窓から朝日が差し込み、診療室に降り注いでいた。まだ診療時間になっていないため、部屋には亜紀と剛毅が向かい合って座っている。亜紀は柔らかい素材のトレンチコートを着たままの姿で、無理して笑顔を作ってみせた。 「ごめんなさい。ちょっとぼうっとしてたわ」 「はあ? また寝れてないのかよ」 「まあ、そうね。寝れてないわね。ここ数日」  正確に言えばここ一ヶ月ほど前から、眠れない夜が続いていた。とはいえ最後に朝までぐっすり眠れたのは、いつだったか思い出せないけれど。幾ら疲れていようとも、うとうととするばかりだった。今日だってそうだ。和明と抱き合ったはいいが、夜明け前に目が覚めてしまい、まんじりともせず朝を待っていた。  その理由に思い当たるものはあるけれど、今の状況でそれをどうにかできるものではない。子供ができなかった以上結婚前に交わした契約通り、離婚することになっているのだから。  部屋から出た後、上条クリニック(ここ)へ来たけれど、特に用事があるわけではない。それに今日は午後からの出勤になっているし、急いで部屋を出なくてもよかったのだが、あの部屋にいるのが辛くて逃げるように出てしまったのだ。亜紀は朝の出来事を思い出しながら、寂しげな笑みを浮かべた。 「あいつとなんかあったのか?」  少し間をおいて剛毅から尋ねられた。亜紀はわずかに視線を落とす。 「何もないわよ。いつもどおり」 「いつもどおり、か。そういえば、あいつの方は相変わらず忙しそうだな」 「最近はそうでもないわよ。早い時間に帰ってくるし」 「お前らの早い時間って夜更けじゃないかよ。全く……」  亜紀が眠れない夜を過ごし始めたあたりから、和明は割と早い時間に帰宅するようになっていた。二年前に亜紀の父親が上条会の理事長になったと同時に、和明がその補佐を務めていた。それからというもの和明は、上条会の傘下にある医療機関の経営改善に取り組んでいて、忙しい毎日を送っていたのだった。それを暗に指摘され、亜紀は苦笑いしかできなかった。 「ねえ、聞いてもいい?」  このままでは、つい口を滑らせてしまいそうだった。どうにか話を逸らそうと亜紀は剛毅に問いかける。 「なんだよ。あいつの仕事を手伝えるかどうかなら、やってできないことはないと思う。あいつはぜんぶ一人で抱え込みすぎだ。おかげで親父から俺がどれほど嫌みを言われているか、教えてやろうか?」 「そういう話じゃないわ。何であのとき殴り掛かろうとしたの?」  亜紀が真面目な表情で尋ねると、いつの話を切り出したのか気付いたのだろう。剛毅が気まずそうな顔になった。 「……結納のときのことだよな」 「そうよ。あのときどんな理由でああなったのか、ずっと気になっていたの」 「二年も前のことだ。もう忘れたよ」 「嘘ね。そんな顔をしてるってことは、今でもはっきり覚えているんでしょう?」  亜紀が目に力を込めてにらみ付けると、剛毅は悔しそうな表情で不満げに口を開いた。 「お前を幸せにしてやってくれと頼んだんだ。そうしたらあいつは高飛車な態度で、もちろんそうするつもりだと」 「それで?」 「その態度が気に入らなくて思わず手が……」  言葉の最後は尻すぼみになっていた。その様子からまだ何かを隠しているような気がして、亜紀は剛毅を凝視する。だが剛毅はそれ以上答えてくれなかった。 「これ以上のことはお前に話せない。だが、あいつは自分のことをうさん臭い男って言っていたな、そう言えば。堺家の長男で立派なキャリアもある男なのに、なぜ卑屈な言い方をしたのか、しばらく気になってたな」 「どんな話をしたのか分からないけれど、暴力に頼ろうとするなんて剛毅らしくないわ」  諭すように亜紀が言うと、剛毅はため息をついた。 「あれで分かったんだ、実は」 「え?」 「お前があいつを愛しているんだって。だからあれで諦めが付いたんだよ」  その言葉を耳にしたあと、亜紀は懐かしそうな顔でそのときの記憶を手繰り寄せた。
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