18 / 40

第18話 三章 5

 とくとくと柔らかな音が聞こえる。  規則正しいリズムに促され、亜紀はゆっくりと瞼を開く。  目覚めたとはいえ、意識はまだ完全に目覚めていない。ぼんやりとしたままじっとしていると、意識とともに感覚が少しずつ目覚めていった。  頭上からは穏やかな寝息が聞こえる。そして頬に当たる温かいものが、その寝息に合わせ小さく上下に動いていた。腰にはしっかりと腕が回されていて、亜紀は自らの状況がどんなものになっているか、ようやく把握できた。  どうやら眠っている和明に抱きしめられているらしい。しかも裸の胸に顔をうずめるようにして。そういえば遅い時間に帰宅した和明に、背後から抱きしめられたまま眠ってしまった気がする。  そして眠っている間に抱き着いていたらしく、和明の腰に腕を回していた。その事実にあきれ果てたと同時に、こうして寄り添いあっていることが嬉しかったりするものだから複雑だ。気を抜いてしまえば口が緩んでしまいそうで、気持ちと顔を引き締める。亜紀は和明が起きぬうちに離れようと静かに体をずらした。  だが、腰に回された腕が邪魔して動けない。それだけでなく、亜紀を引き留めようとするかのように、腕の縛(いまし)めが強くなった。もしや気付かれたのではないかと思い、恐る恐る顔を上げてみるが、彼はぐっすりと寝入ったままだった。その寝顔を見てほっと安堵のため息を漏らしたが、無意識の行動に喜びを感じているのも事実だった。  思う男に求められて嬉しくないわけがない。だが、その相手は自分に対し愛情など抱いていないだろう相手だ。それが悲しくて、亜紀は和明への思いを振り切るように顔をそらす。後ろ髪をひかれる思いで、腕の中から離れようとしたそのとき。ぐっと強い力で抱きしめられた。  突然硬い体に押し付けられて、亜紀は体を竦ませる。喜びと悲しみが複雑に絡まり合ったような感情が胸の奥から溢れてきた。このまま抱きしめられたままでいると、何かが崩れてしまいそうだった。でも許されることならば、もう少しこのままでいたいと思ってしまう。  起きたかと思ったら、頭上からは寝息が聞こえている。セットしておいたアラームが鳴っていないところを見れば、目覚めるには早い時間なのだろう。  それならば、和明が目覚めるかアラームが鳴るまでは側にいられる。たとえ思われていなくとも、眠っている間だけは幸せな気持ちのままでいられる。だから、亜紀は短い時間と知りながら、眠る和明の腕の中で再びまぶたを閉じた。  朝の穏やかな日差しが差し込む寝室では、和明の寝息だけが聞こえている。規則正しく上下する和明の体にぴたりと隙間なく体をくっつけていると、安らかな気持ちになってくる。  だが、そんな幸せな時間も突然終わりを告げた。無機質なアラーム音が寝室に鳴り響き、意識がものすごい勢いで浮き上がる。それまで溶けてしまいそうなほど心地よかった空気が一変した。  亜紀は体に回された腕を振り払い、すぐさま体を起こした。スマホに手を伸ばし、アラームを切ってからベッドから立ち上がる。それまでぬるま湯のような心地良い場所から離れた直後だ。幾ら差し込んだ日差しで温められていようとも、朝の空気がむき出しの肌に触れた瞬間、亜紀は思わず体を竦ませた。  チェストの上に置いていた着替えに手を伸ばし、それを身に着けようとしたとき、背後から視線を感じた。振り返ってみると、それまで眠っていた筈の和明が体を横たえながら、眩しそうに目を細めていた。その姿を目にしたとき、羞恥で体が一瞬のうちに熱くなる。 「見ないでよ……」  和明の視線から逃れるように、亜紀は体を捩る。だが、和明は見るのを止めようとはしなかった。じろじろと無遠慮な視線を向けられないだけまだましだが、それでも体を見られること自体が恥ずかしかった。  体型に不満はないが、和明は自分以外の女を知っているし、その誰かと比べられたくない。亜紀はまっすぐに向けられる和明の視線に耐えきれず、ふてくされた体で急いでスリップを身に着けようとした。  背中に視線を感じながらスリップを身に着けたあと、ベッドの端に腰掛けてストッキングをつま先からはき入れようと腰をかがめたときだ。それまで黙っていた和明が、気だるげに息を漏らす音が聞こえた。それに気付いた亜紀が振り返ると視線がぶつかった。 「朝の挨拶くらいしてくれよ。それだけで目覚めがうんとよくなる」 「あなたの気分をよくするためになんかしたくないわ」 「これから一緒に住むのに?」  ストッキングを引き上げていた手が、ぴたりと止まる。亜紀は和明をにらみつけた。だが思ったほど効果はなかったようで、和明は面白そうに笑みを浮かべていた。 「そう怖い顔をしないでくれ。折角のきれいな姿が台無しだ」 「きれいでなくて結構よ。着替えの邪魔をしないで」 「見ているだけだが、もしかして邪魔なのか?」 「邪魔よ。見ないでって言ってるでしょ!」  亜紀がぷいと顔をそらすと、笑いをこらえる音が聞こえてきた。何を言っても暖簾に腕押し。そうされるたび、亜紀の心はささくれだっていく。本当はもう少し穏やかな言い方ができればいいのだが、いちいち癪に障るような物言いをする和明のせいでそれができなかった。ストッキングを履き終えて、亜紀はたたんでおいた服に手を伸ばす。  すると和明が大きなあくびをしたあと、気だるげに体を起こし裸のまま出口へ向かい歩き始めた。つい目で追ってしまう。朝日を浴びている男の体はとても逞しかった。  背中や腕には適度な筋肉がついていて、体全体が引き締まっている。腰から尻にかけてのラインは崩れていない。何かスポーツでもやっていたのではないかと感じたが、悲しいことに和明について知らないことが多すぎた。  思えば和明については、知らない事だらけだ。そもそも見合いのときでさえ、彼のプロフィールを見せてもらえなかったし、その後も仕事で海外に行ってしまったから結局ほぼ何も知らないままになっている。  以前であれば、結局はただの種馬。そんな結婚相手には無関心でいいと思っていた。でも知りたい。彼がどんな生き方をして、何を考えているのかを。自分のことには立ち入るなと言っておきながら、和明のことをもっと知りたいと思っている。亜紀はそれに矛盾を感じ、心の中で自嘲した。  パタンと寝室の扉がしまる音がして、そちらを見れば既に和明の姿はなかった。静まり返った寝室に残された亜紀は早く着替えを終えたあと、物憂げな表情でため息をついていた。  亜紀が産科の詰め所に入ると、父親が険しい表情を浮かべ待ち構えていた。  滅多なことでは表情を変えない父親が、一言も発しないまま不快感をあらわにしている。それを見た瞬間、どのような言葉をかけられるのかと亜紀は不安を抱かずにいられなかった。だが、それをひた隠し、詰め所の奥にあるソファに座り待ち構えている父親に近づいた。  病院長のただならぬ雰囲気を感じ取っていたのだろうが、だからといって逃げるわけにもいかなかったのだろう。詰め所では数人の医師が、固唾を飲んで娘と父親の様子を見守っている。彼らの視線を感じながら父親に向かい合うと、それまでそこにいた医師たちがそそくさと逃げるように詰め所から去っていった。  その姿を父親と娘は冷めた目で眺めていた。二人以外の人間が詰め所から誰もいなくなったあと、父親が深いため息を吐き出した。安堵のため息にもとれるため息を吐き出したあと、父親は娘へとほっとしたような顔を向ける。 「亜紀、お前昨夜はどこにいたんだ。聡子(さとこ)がどれだけ心配していたと思ってる」  産科の医師である亜紀が、病院に泊まり込むことなどそう珍しいことではない。実際帰り際急に産気づいた妊婦のお産に立ち会って、帰れなくなることも多かった。医師の家に嫁いだ母親からすれば、もうそのようなことなど慣れっこのはずで、たった一晩自宅に帰らなかっただけで大騒ぎすることもないだろう。亜紀は眉をひそめ、自分を見つめる父親を見つめ返した。 「何か用事でもあったの? でないと産科(ここ)に連絡する必要はないでしょうし」 「話をそらすな。どこにいたと聞いている」  父親の顔が、急に険しくなった。娘をにらみつけ、いまにも詰め寄ろうとしている。恐らく何か急な用事があって両親のどちらかが産科に連絡でもしたのだろう。だが、当の本人はいないし、かといって自宅にも戻らないまま一夜が明けたことで心配していたようだった。それにしてもなぜ父親がこのように険しい表情を浮かべているのか分からなかった。だがそれを問うより先に父親の怒りを静めなければならない。 「和明さんのマンションよ。彼から頼まれたことをやりに行ったら、ちょうど彼が戻ってきたの」  亜紀が事実だけを述べると、父親はジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出して、どこかに電話をかけ始めた。その様子を亜紀はただ眺めている。 「和明か? お前に聞きたいことがある。昨日亜紀がそちらに泊まったと言っているが本当か?」  亜紀は目を見開いた。和明を呼び捨てにしている父親の姿に驚きを隠せなかった。まるで昔からの知り合いと話しているかのような姿を見ていると、父親と目が合った。見てはいけないものを見てしまったような気まずさを感じてしまい、亜紀は思わず顔をそらす。  振り返ってみれば不思議なことばかりだった。今目の前で繰り広げられていることもそうだが、和明には謎が多い。両親と一緒になって親しげに話していた姿は記憶に新しい。それだけじゃない、彼の秘書である森崎にも同じことが言える。彼女が一人で家にやって来たときも、両親は昔からの知り合いのように接していた。  それに和明が現れてからというのも、母親も父親も何かが少しずつ変わったような気がする。ただそれが何であるか分からない。目に見えて明らかな変化ならすぐ分かるのだが、そういったものではないから困る。亜紀は和明と話している父親の姿を眺めながら、心の中でため息をついた。 「ああ、わかった。じゃ明日」  父親の言葉で亜紀は現実に引き戻された。どうやら和明との話は終わったらしい。父親は昨夜の娘の所在を確かめ終えたことでほっとしたのか、表情から険しさが消えていた。 「予定より早く帰国したらしいな。和明くん」 「そうね。それよりも父さん。一つ聞きたいことがあるんだけど」  亜紀はスマートフォンをジャケットの内側にしまいこんでいる父親に問いかけた。 「なんだ?」 「父さんと母さんは、和明さんと知り合いだったの?」  そう尋ねると、父親の表情がわずかにこわ張った気がした。疑った目で見ているからか、僅かな動きさえ気になってしまう。亜紀は父親を凝視した。 「いや。見合いのときに会ったのが初めてだが?」  いつもと変わらぬ穏やかな表情で平然と告げるところを見ると、先ほど和明を呼び捨てにしたことなど覚えていないらしい。恐らくあのときの父親は感情的になっていたのだろう。だから無意識にいつもと変わらぬ呼び方をしていたと思われた。そうとしか思えない。亜紀は父親の顔を凝視して唇をかみ締める。 「聞きたいことはそれだけか?」  他にも聞きたいことがあるならば遠慮せずに聞けと言っているのに、向けられたまなざしはそうは言っていなかった。亜紀は苦笑しながら軽く首を振る。 「明日は結納だ。今日は午後から診察を休んで、聡子と一緒に明日の準備をしておきなさい」  淡々とした声が耳に入ってきて、亜紀はかみ締めた唇を更に強く噛んだ。それは亜紀が幼い頃に身に付いた癖だった。事あるごとに叱られて、それに耐えているときの癖が大人になった今でもしっかりと残っている。だが少々強く噛みすぎてしまったらしく、じわじわと口中に鉄の味が広がっていく。それに気づき、亜紀は唇を噛むのを止めた。 「亜紀、聞いているのか?」  それにハッとなり顔を上げると、父親が表情を変えないまま見つめていた。 「……わかりました。午後の診察は末次先生に引き継いで、家に戻ります」 「そうしてくれ。じゃ、頼んだぞ」  父親は娘にそう告げると、そこからすっと立ち去っていった。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!