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第17話 三章 4

 森崎から再び連絡が来たのは、二日後に結納が迫った日であった。  午前の診察を終えて詰め所に戻ると、森崎の名前と連絡先が書かれたメモが机の上に置かれていた。その光景に既視感を抱きつつ連絡すると、すぐに電話が繋がって明るい声が聞こえてきた。 「亜紀さま。お忙しい中申し訳ありません」 「いえ、構わないわ。それで何か急ぎの用件でもあるのかしら」 「その前にお伺いさせていただきますが、今日御新居に行かれました?」 「まだよ。自宅に戻るとき立ち寄ろうと思っているわ」  森崎から部屋の鍵を渡された翌日から、亜紀は毎日昼休憩を利用して部屋に行っている。しかし、今日は午前の診療が長引いてしまったため、夜に立ち寄ろうと思っていたのだった。亜紀が答えると、受話器の向こうから安堵したかのようなため息が聞こえてきた。 「そうですか。よかった。ではお仕事が終わったあとに立ち寄られるのですよね?」 「ええ、まあ、そのつもりだけれど。遅い時間になるかもしれないわ」  ため息の理由が分からないまま答えると、森崎からおもむろに切り出された。 「実はですね、結納のお席で社長が着るスーツをクリーニングに出していたのですが、私すっかり忘れていましてですね……」  森崎が歯切れ悪く話す。なんとなく、嫌な予感がした。 「実は今、北海道に来ておりまして……。その、大変申し訳ないのですが亜紀さまにそれの引き取りをお願いしたくて……」 「北海道? なんでそんなところにいるの?」  亜紀が尋ねると、一拍間を置いてから森崎が言いにくそうに答えた。 「母親の実家が帯広でして、週末に法事があるのです。なので……」 「そう、なら仕方がないわよね。でもそのお店って早い時間に閉まってしまうんじゃないの?」 「お店の方には伝えておきますので、そこは御心配に及びません」 「ならいいわ。仕事が終わり次第取りに行くわ。どこのお店なの?」 「マンションの通り沿いにあるお店です。社長のお名前を出していただければ、問題なく受け取れるようこちらで手配しておきますので」  どうせ和明から頼まれた水やりに向かおうと思っていたし、そのついでだと思えばいいだけだ。亜紀はそう思い、森崎に返事した。 「そう。なら受け取った後マンションに行くわ。クローゼットにしまっておけばいいかしら」 「はい。そうしていただけると助かります」 「じゃあ、そうしておくわね」  亜紀が返事をすると、森崎は礼を述べ電話を切った。机の上に置いてあるデジタル式の時計を見ると、午後の診療が二十分後に迫っていた。  和明のスーツを引き取り、マンションへ到着したのは二十時を過ぎた頃だった。  エレベーターから降りたあと、亜紀はリビングへと向かった。たどり着いたリビングの扉を開いたとき、亜紀はその場に立ちすくむ。  すぐに目に飛び込んできたものは、窓の向こうに広がる夜景だった。息づくように瞬きを繰り返している光が、まるで蛍の光に見えた。リビングの入り口に立ったままそれを眺めているとき、異変が起きた。 『亜紀。見てごらん。蛍だよ』  急に男の声がして、亜紀は目を見開いた。続いて、夜景の光に蛍の光が重なって見えた。  月の灯りがない草むらで、息を潜めてその光を眺めている。  気になるのは誰かと手を繋いでいることだった。それが誰なのか気になり、亜紀は頭の中に浮かんでいる光景に目を凝らす。すると、その相手は若かりし頃の父親を思わせた。父親は亜紀のすぐ側でしゃがみ込んでいる。娘が何も返事をしないからか、父親は優しい瞳を向けてきた。その姿を目にしたとき、胸の奥から切ない痛みがこみ上げてきて、亜紀は泣きそうになってしまう。  父親が指さした方向へ目を向けると、光が一斉に空へ向かい飛び立った。その光景を前にして、息をするのも忘れてしまうほど見入ったときの記憶が一気に蘇ってきた。  湿った草いきれと温かい風に混じった潮の香り。背中を支える大きな手。そこから伝う温かなぬくもりは握られた手からも伝わってくる。それらを思い出したとき、亜紀の両目から涙がこぼれ落ちた。  しゃがみこんでいる父親と視線が同じということは、恐らく小学校に入る前の記憶だろう。記憶の中の父親の姿は、それまで見続けた姿とはまるで違っていた。  亜紀が見続けた父親の姿とは、ろくに家庭を顧みない父親だった。それなのに記憶の中の父親はそうではない。小さな亜紀の視線に併せてしゃがみこみ、ぴたりと体を寄り添わせている。  しばらくすると記憶が徐々にぼやけ始めただけでなく、父親から掛けられた優しい声も遠のき始めた。再び記憶の海に沈み込んでしまう前に、思い出の断片を拾い上げようとするけれど、幾ら手を伸ばしても無理だった。頭の中に残った記憶を振り返っていると、締め付けられるような切ない痛みが胸に走った。そのたびに新しい涙が次から次へと溢れてくる。亜紀は追憶の痛みに耐えきれず、涙を流しながらその場にへなへなと座り込んだのだった。  リビングの入り口で座り込んだまま、亜紀は窓の向こう側をぼんやり眺めていた。  涙で滲んだ視界に入る光がまるで息づくように瞬いていて、それを見つめているうちに胸の痛みは徐々に薄れていった。  痛みがなくなり、気持ちが落ち着いた頃、ここへきた目的を思い出した。亜紀はよろよろと立ち上がり、部屋の照明をつける。パッと明るくなった室内の眩しさに目がくらんでしまい、思わず顔を顰めさせた。そして頬に残っている涙を手の甲ですっと拭いとり、廊下に置いたままになっていたガーメントバッグを拾い上げ寝室へと向かう。  寝室に入ると、真っ暗闇だった。照明をつけるとプラナカンと同じ色合いのカバーが掛けられたベッドが部屋の真ん中に置かれている。それを一瞥した後、クローゼットの扉を開くと、和明の香りがふわりと漂ってきた。  その香りを嗅いだとき、胸をぎゅっと締め付けられるような痛みを感じた。亜紀はガーメントバッグに収められている黒いスーツを取り出して、ハンガーに掛け直す。織りの細かな生地の感触を確かめるように、指先を滑らせてみると、胸の痛みが更に強くなってきた。  離れていると寂しいのに、側にいると苦しくなる。そして抱きしめられると、苦しくなるだけでなく、痛みさえ感じてしまう。そのような状態のまま、和明とここで暮らせるのか急に不安になった。亜紀は顔を俯かせ唇をかみ締める。  ここにいると和明のことを考えてしまう。そして彼を結婚相手として選んでしまったことを悔いてしまう。亜紀は和明のジャケットから手を離し、彼の香りが詰まったクローゼットの扉をそっと閉じた。  全ての用事を終えた後、時計を見ると二十二時になっていた。  なんとはなしに自宅に戻るのが億劫になってきて、今夜はここへ泊まろうかと亜紀は思案し始める。  ショルダーバッグの中には一泊分の着替えは常備しているし、それに森崎だって話していたではないか。いつでもここに来てくれて構わないと。そう自身に言い聞かせ、亜紀は浴室へと向かった。  部屋には生活できるだけのものは揃っていた。だが、浴室に備え付けられていたアメニティに関してはすべてそろっていなかった。しかし、体を休ませることはできる。亜紀は取りあえずシャワーを浴びて寝室に向かった。  寝室にはベッドとその両脇に小さなチェストが置かれている。チェストの上にはそれぞれ小さなルームランプが置かれていた。大きな窓には薄手のカーテンとヒスイ色の厚手のカーテンがかけられていて、その向こう側にはウッドデッキが見えた。  ベッドには、和明が好きだと森崎が話していた色のカバーが掛けられている。そのベッドの端に腰掛けてバッグから着替えを取り出そうとしたとき、しまい込んでいたままになっていたストールに目が留まった。  和明からの土産のストール。贈られた水色の振り袖。そして和明が好きだというヒスイ色のファブリック。それにプラナカンの食器や鉢植えを思い返しているうちに、亜紀はあることを思い出す。 『実は、社長は水色のものがお好きなんです、昔から。だからプラナカンの中でも、その色のものを集めていたようなのですが……』  森崎からそう聞かされたあと、なぜあの指輪が頭に浮かんだのか。ストールとともに贈られたブローチと同じ色合いだからと思ったが、どうも違うような気がする。でもそう思う理由は見つからなかった。  それを考えている間に、眠くなってきた。亜紀はヒスイ色のカバーが掛けられた上掛けをまくり上げ、その中に体を滑り込ませ寝ることにした。  扉が閉まる音が耳に入ってきて亜紀は目が覚めた。  目覚めたとはいえ、意識がはっきりしているわけではない。ぼんやりとしたまま、ゆっくりと瞼を開いてみると、真夜中の寝室は闇夜を思わせるほど暗かった。  既に夜更けである。それにこの部屋には亜紀以外誰もいない。寝室はしんと静まり返っているが、耳を澄ましてみると扉の向こう側からかすかに物音がした。しかも人の気配とともに足音までも寝室へと近づいている。こんな夜中にここへ来る人間は和明しかいない。そう頭で分かっていても、実際に彼の姿を見ていないから不安になる。それに慣れない場所での出来事だけに亜紀は動揺していた。  足音が寝室の扉の前で止まった。そのとき、心臓が大きく脈打つ。亜紀は体を横たえたまま、手元にあった上掛けとシーツをぎゅっと握りしめた。耳を澄ましてじっとしていると、扉が開いた音がして、続いて誰かが入ってきた気配がした。  カーペットを踏みしめる音に耳を傾けていると、それはこっちに近づいている。亜紀は体を横たえさせたまま、体をこわばらせた。  すると、夜の空気に混じって和明の匂いがした。ああ、やはり和明だ。そう思った瞬間、体から力が抜けていく。そして無意識にほっと安堵のため息を漏らしてしまい、亜紀は慌てて口を手で覆い隠した。  息を殺してじっとしていると、布同士が擦れる音が聞こえてきた。そしてベルトを外す音が聞こえてきて、亜紀は息を殺してその音に耳を澄ます。  ベッドが軋んだかと思ったら、掛けていた上掛けが軽く引っ張られた。和明が上掛けの中に入り込んできたようで、ベッドがわずかに揺れた。背中越しに和明の気配を感じた直後、体から力が抜けていった。  体から力が抜けた瞬間、いきなり強い力で引き寄せられたと思ったら、背後から抱き締められていた。亜紀は息をするのも忘れてしまうほど驚いた。今にも心臓が飛び出しそうなほど鼓動が激しく脈打っている。  むきだしの背中から和明の体温が伝わってくる。耳にかかっていた髪をかきあげられてしまい、あらわになった首筋に温かなものが押し付けられた。和明の唇だ。漏れる呼気を首筋に感じ、くすぐったさから亜紀は体を捩らせる。すると今度は、耳の裏側に唇を押し付けられた。それもくすぐったくて、亜紀は肩を竦ませる。しかし、体の奥では熱が生じ始めていた。  だが、和明はそれ以上何もしようとしなかった。耳裏から唇がゆっくり離れていって、腰に回されていた腕の力も緩んでいく。亜紀はそれにほっとしながらも不満を感じてしまうが、無論それを口にだせるわけもなく。やるせない気持ちを抱えたまま眠ろうとしたとき、すぐ後ろから寝息が聞こえてきた。  どうやら和明は眠ってしまったらしい。しかし、体を柔く押し付けられたままになっていた。完全に寝ているようだし、腕を払って体を離しても気づかれないだろう。だけど、亜紀はそうしなかった。和明の体温を感じながら寝息を聞いているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。
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