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第16話 三章 3

「ここから先が、お二人のプライベートエリアです」  森崎が案内してくれたのは、上条病院からそう離れていないマンションだった。  エレベーターで最上階のフロアに着いたあと、ベージュのカーペットが敷き詰められている床を進みながら、森崎が説明し始める。 「昨年末に建てられたもののようです。社長がここなら亜紀さまも暮らしやすいはずだと。お部屋は全部で七つ。バスルームとドレッシングルームが二つ。あとサンルームと人工芝のお庭があると聞いています」 「随分と広いわね」 「ダイニングキッチン・リビング、そしてベッドルームと書斎が二つ。それにゲストルームが二つですから部屋数は多いですね。週に一度、ハウスキーパーさんがいらっしゃるとのことでした」  ここへ来たのは初めてなのだろう。森崎は辺りを見渡しながら話していた。  足を進めていくと、広いリビングにたどり着いた。大きなガラス窓にはレースのカーテンが掛けられている。  窓の側にあるソファには見覚えがあった。和明の部屋にあったダークブラウンのソファである。それ以外にも、見覚えがある家具が置かれていた。 「ここがリビングですね。すぐ隣がダイニングキッチン。ああ、やはりアイランドキッチンになっていますね」 「えっ?」 「社長、料理が上手なんですよ。和洋中だけでなく、フレンチやイタリアンの主立ったメニューは作れると思います」 「そう。意外ね……」 「調理器具も揃っているようですし、これなら社長も大いに腕を振るうことができるでしょう。食べたいものがあったら、遠慮などせずにリクエストしてくださいね、亜紀さま」  森崎からそう言われたが、亜紀は返事をしなかった。それというのも、和明が料理上手なことを、さも得意げに話しているからだ。彼女の話を聞く限りでは、それを知っているだけでなく、自分と同じように彼が作ったものを食べたことがあるように聞こえてならない。自分が思うような親密な関係ならば、それを知っていることだけでなく、食べたことがあることも頷ける。心の片隅に潜んでいた不安が、少しずつ根を下ろしていく。亜紀が不安を募らせていると、森崎から声を掛けられた。 「では他のお部屋を御案内いたします」 「ええ……」  返事をしたあと、亜紀は森崎とともに部屋をあとにして、他の部屋へ向かったのだった。 「亜紀さま。いかがでした?」 「え?」  森崎がいれてくれた紅茶を飲んでいると、唐突に尋ねられた。何を尋ねられているのかすぐに分からず、亜紀は森崎をじっと見た。 「見て回ったお部屋の内装などで気になることがおありでしたら、なんなりとお申し付けください。社長からも、亜紀さまのお好みに合わせるよう言われておりますので」  亜紀は手に持っていたカップをテーブルに置いて、リビングをぐるりと見渡した。シックで落ち着いた内装に、それに見合った調度品が置かれているし悪くはない。森崎に案内された他の部屋も、同じようなものだった。亜紀は、はす向かいに座っている森崎に笑みを向ける。 「とても落ち着いた部屋だと思うわ。色がごちゃごちゃしていないし」 「そうですか。よかった」  一つ一つの部屋を思い出しながら答えると、森崎は安堵の表情を見せた。亜紀は水色のカップに手を伸ばす。 「そういえば、それ、プラナカンっていうんです」 「プラナカン?」 「ええ。シンガポールのお土産の代表なんですよ。東南アジアって中国系の移民の方がお住まいになられてましてね。彼らの文化と、その土地の文化が混ざり合ったものの代表ともいえるものですね」  亜紀は手に持ったカップを見た。水色のカップには、ピンク色のシャクヤクが描かれている。なるほど、図柄を見れば確かに中国を思わせる。 「実は、社長は水色のものがお好きなんです、昔から。だからプラナカンの中でも、その色のものを集めていたようなのですが……」  色が気になり改めて見てみると、青と緑が混じったような色だった。それに見て回った部屋には、同じような色合いのものが何かしら置かれていた。  水色のベッドカバーや、プラナカンの壁飾り、そしてサンルームにあった陶器の植木鉢。そういえば、和明から贈られた振り袖の色は水色だ。その上、土産のストールとブローチも同じ色合いである。それを思い返していると、突然あるものが頭に浮かんだ。遠い昔、青年からもらったあの指輪である。どうして、それが突如として浮かんだのかは分からない。もしかしたら、同じような色だからかもしれない。しかし、なぜか気になった。 「お買い求めになっても、使わないままでしてね。それが、ようやく日の目を見ることができたといいますか」  呆れたような声が耳に入り、現実に引き戻された。亜紀は、森崎の話に相づちを打つ。 「ものは使ってこそ価値があるのにね」 「ええ、全くもって同意見です」 「それにしても意外だわ。食器を集めるタイプには見えないけれど、人は見かけによらないものね」 「確かにそうですよね。でも本当なんですよ、亜紀さま」  言葉遣いこそ丁寧だが、まるで女友達のように親しげに話されて、亜紀は森崎をじっと見る。打ち解けたように話す姿は、自分に対して二心(ふたごころ)を抱いている風には見えなかった。もしも、自分が思っているような関係ならば、こうまで気さくに話すだろうか。しかし、女は自分の領域を守る為なら平気な顔で嘘をつく生き物だ。亜紀は森崎を眺めながら、心の中でため息をついた。 「亜紀さま。社長からの伝言をお伝えする前に、お話したいことがございます」  かしこまった森崎から急に切り出され、亜紀は我に返る。彼女は真面目な顔でこちらに目を向けていた。緊張しているような森崎の姿を見て、これから彼女が話そうとしていることが大事なことのように思えたのは言うまでもない。 「亜紀さま。私と社長のことを誤解されているのではないかと思いまして。先日のことで」 「え?」  亜紀はなんと答えて良いか迷った。疑っていないと言えば嘘になる。だが、そうだと言葉にすることも嫌だった。動揺をひた隠し、亜紀は笑みを森崎に向ける。 「先日のことって、玄関で抱き合っていたこと?」  亜紀が返事をすると、森崎は表情を曇らせた。 「実はあのとき、荷物を社長にお渡ししようとしたら、自分の足を踏んづけてしまって、それでバランスを崩してしまったんです。転びそうになったのを社長が……」 「え?」 「もしも私が亜紀さまの立場なら、そんな場面を見てしまったら決して良い気分ではないと思います。どのような理由があったとしても。だから、ちゃんとお話したかったんです」  思い詰めたような顔を向けられて、亜紀は今度こそ言葉を詰まらせた。一度芽吹いた疑いの芽はそうやすやすと消えはしない。しかし、森崎から事情を聞かされたとき、心に深く根付こうとしていたものは急速に縮んでいった。亜紀は、顔をほころばす。 「気にしていないわ。だから安心して頂戴」 「よかった……。あれでお二人の間がぎくしゃくしていたらどうしようって思っていて。亜紀さま。社長にとって、亜紀さまはとても大事なお方ですので」  縋るような目を向けられて、亜紀は再び戸惑った。大事という言葉をどう受け止めて良いか、分からなかったからだった。亜紀は笑みを浮かべたまま目線を下ろす。 「大事な存在、ね……」 「ええ、社長は亜紀さまのことをとても大事に思われています」 「うれしいわ。そんなふうに思われているなんて」  和明にとって大事な存在だと言われたことは素直に嬉しい。しかし、それは自由を得るための契約を交わした相手だからだ。それが分かっているのに自然と口元が緩む。亜紀は控えめな笑みを漏らしつつ、プラナカンのカップを両手で包むように持った。 「それで社長からの伝言なのですが……」  窺うような目を向けられて、亜紀は嫌な予感がした。テーブルにカップを置いたあと、森崎に目を向ける。 「社長からの伝言は二つです。ひとつは、いつでもここに来てくれて構わないとのことでした。そしてもうひとつは、こちらに毎日来て観葉植物に水を、と……」 「は?」  亜紀は耳を疑った。 「サンルームに幾つかありましたでしょう? それに各部屋に一つか二つあったと思います」 「え、ええ。そういえば……」 「あれ、全部社長がここに置くために買い求めたようです。自分がいない間、霧吹きで水を与えてほしいとのことでした」  呆れたような顔を向けられて、亜紀は苦笑した。森崎が話したとおり、各部屋には背の高いものから小さなものまで観葉植物が置かれている。それにサンルームには、小さな芽を出したばかりのものもある。 「観葉植物は手が掛からないからといっても、一か月も二か月も放置したら当然枯れますよね。だから、日本に帰国するたびがっかりされてました」 「でしょうね……。緑が欲しいだけなら造花だってあるのに」  亜紀もつい呆れた顔をすると、森崎から優しい笑みを向けられた。 「社長は生きている植物がお好きなんですよ、あと青い色も。ずっと昔から」  昔を懐かしむような目を向けられたとき、頭の中に和明が浮かんできた。森崎から向けられた瞳と、見合いのときに和明から向けられた瞳が頭の中でピタリと重なる。なぜ二人からそのような目を向けられるのか分からないだけに、亜紀は戸惑った。 「あと、亜紀さま。これをお渡しするよう社長から言い付かっております」  そう言って差し出されたのは、黒いカードキーだった。このマンションに入るとき、森崎が用いたものだ。 「これは亜紀さまのものです。お忙しいとは思いますが、観賞植物の水やりをお願いいたします」  森崎が差し出したカードキーを受け取ったあと、思いがけないことが起きた。 「もしかして、気が進まないですか?」 「え?」  森崎に目をやると、不安な顔を向けられていた。 「社長との結婚、です……」  意を決したように森崎が口を開く。亜紀は森崎から目を逸らした。 「気が進ないも何も、これは家同士で決めたことだもの。そこに私の意志は存在しないわ。ただ……」  ――――和明から提案された契約結婚を受け入れたのは私だけれど  亜紀はその言葉を喉の奥へ押し込めた。森崎に告げたことは紛れもない真実だが、そこに至るまでの過程の中には、幾つか亜紀の決断も含まれている。  現時点で森崎がどこまで把握しているか分からないだけに、必要以上のことは話さないことに越したことはない。亜紀はそう結論付けた。 「もし和明さんとの結婚を断ったって、別な人と見合いをさせられるだけだもの。だから彼との結婚を決めた。それだけよ」  亜紀が言い切るように話すと、森崎は視線を落とした。 「結婚って、夫婦としてのお二人の生活がこれから始まることだと思うんです。たとえこのような結婚であっても、一緒に過ごす時間が増えていくうちに少しずつ距離は近づくものではないかと」 「同僚からも同じようなことを言われたわ。でも、そうなれるか分からない」 「社長は女心にかなり疎い方ではありますが、亜紀さまを絶対大事にするはずです。だって……」  森崎が急に身を乗り出した。しかしすぐに居心地悪そうに姿勢を戻す。 「い、家同士の繋がりの為の結婚でも、幸せに暮らしている方々もいらっしゃいます」 「それはあなたが知らないだけよ。幾ら幸せそうに見えても、実はそうではない夫婦を私は知っているわ。そういう人たちは諦めているのよ。だって諦めれば求めなくていいもの」  亜紀が自分の両親のことを思い浮かべながら告げると、森崎は表情を曇らせた。その表情が傷ついたような顔に見えてしまい罪悪感を抱いたが、それが現実だ。亜紀は持ったままだったカードキーをバッグにしまいいれようとしたとき、中に入れておいた茶封筒が目に留まった。その中には、署名済みの契約書が入っている。 「そうだわ。これを和明さんに渡してくださる?」  亜紀はその封筒を森崎に差し出したあと、森崎を見ようともせずに、すっかり冷めてしまった紅茶を飲み干したのだった。
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