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第14話 三章 1

 午前の診療を終えて、亜紀が詰め所に戻ったのは昼過ぎのことだった。  奥にある自分の机に向かうと、黄色いメモが置かれていた。それに目をやると、思いがけない相手の名前が書かれていて、亜紀はしばらくそれを凝視した。メモには森崎から連絡があったことが書かれている。  確か森崎は、和明の出張に同行しているはずだ。その彼女からどんな連絡が来ていたのか気に掛かり、亜紀は折り返し連絡しようかどうか迷い出す。  森崎から亜紀あてに連絡が入る理由で考えられることといえば、余りいいものではない。もしかしたら、シンガポールにいる和明の身に不測の事態が起きたのではないかと、不安ばかりが募ってしまう。募る一方の不安に耐えかねて、亜紀は急かされるように電話に手を伸ばす。  机の上に置かれている電話から受話器を手に取り、メモに書かれている番号を慎重にプッシュした。祈るような気持ちで森崎からの応答を待っていると、呼び出し音が二回鳴り終わらないうちに受話器の向こうから彼女の声が聞こえてきた。 「はい、森崎です」  亜紀はその声を耳にして、ほっと胸をなで下ろした。森崎の第一声で、和明の身に何も起きていないことを確信したからである。知らず知らずのうちにこわばっていた体から、力がゆっくり抜けていく。 「森崎さん、亜紀です」 「亜紀さま、お仕事中申し訳ありません。あと、先日はきちんと御挨拶できず申し訳ありませんでした」 「いえ。こちらこそお休みのところ呼び出してしまってごめんなさい。先ほど病院の方に連絡があったみたいだけど、何かありました?」  遠回しに聞くこともできたが、今はしたくなかった。亜紀は尋ねたあと、耳を懲らす。 「実は仕事の都合で私だけ先に帰国したのですが、社長から預かったものを亜紀さまにお届けしたくて。それで急で申し訳ないのですが、夕方御自宅に伺わせていただいてもよろしいでしょうか?」  亜紀は拍子抜けした。森崎の言葉を頭の中で繰り返す。そしてようやく理解できたはいいが、急な申し出だ。しかし、森崎が和明から預かったものが気になり、つい腕時計を確かめる。すると、亜紀からの返事がないからか、森崎が申し訳なさそうな声で話し始めた。 「本当でしたら日を改めて伺った方がいいと思ったのですが、なるべく早くと社長から言われておりまして。それにそれ以外にも社長から頼まれたこともありますし……」 「頼まれたこと?」 「その内容についてはお会いしたときにお話させていただきます。これからオフィスに戻りますので、亜紀さまが御自宅に戻られるお時間を教えていただきたいのですが」  今日の勤務は十八時には終わる予定にはなっている。しかし、残務整理もあるので何時に自宅に戻れるか分からない。だが、自宅は病院のすぐ裏だし、走ればほんの十分で行き来できる距離だ。 「多分、十九時には戻れると思うわ」 「でしたら、そのあたりに伺わせていただきますね。預かったものをお渡ししたら、すぐに失礼します」 「そうしていただけると助かるわ。ところで――  亜紀は言いかけた言葉をすぐに飲み込んだ。亜紀が聞きたいのは和明のことだ。先ほど森崎は一人で帰国したと話していたが、では和明はまだ彼の地ということになる。先日、結納まで帰国できないと話していたことを思い出し、亜紀は表情を曇らせた。すると、何かを察したのか、受話器の向こう側から森崎の声が聞こえてきた。 「社長はまだシンガポールにおりますよ。仕事を片付けたらすぐ日本に戻ると話しておりました」 「……そう」 「では、失礼いたします」 「気をつけていらしてね。また後ほど」  そう言って受話器を戻すと、どっと疲れが押し寄せてきた。どうやら必要以上に緊張していたらしい。亜紀は椅子の背もたれに体を預け、ため息をついた。  何げなく机の上に置いてあるカレンダーを見ると、結納まで残り一週間を切っている。それが終われば、半年後には結婚式だ。亜紀はカレンダーを眺めながら、憂鬱そうにため息をこぼした。  十九時になろうというとき、亜紀は自宅に戻った。  残務整理をしていたが、森崎との約束の時間がどうしても気になってしまい全く身が入らなかったのだ。それに、和明が森崎に託したものがなんであるか、早く確かめたい気持ちがあったのもある。  和明のこととなると、すぐに心が揺れてしまう自分が情けない。医師としていついかなるときも冷静であるべきはずなのに、今のこの体たらくはどうだ。亜紀は自宅に向かっている間、ふだんの自分らしくない行動に呆れていた。  亜紀を支えているものは、上条家の跡取りということと医師であるという誇りだ。そして、跡取りとして求められていることは、和明と結婚して男児をもうけることだ。その現実から目をそらし続けた結果が今の状況ならば、いっそのこと和明以外の男と結婚を決めた方がよかったのかもしれないとつい悔やんでしまう。そうすればこんなにも心がかき乱されることはなかったのにと。  自宅に戻ると、リビングの方から母親の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。しかも何やら父親の笑い声まで混じっているようだった。  楽しそうな声を聞いたとき、和明がこの家にやって来たときのことが頭に浮かんだ。そのときのことを思い返していると、森崎のものと思われる若い女の声が聞こえたものだから、亜紀は足早にリビングへと向かう。  部屋の扉を開いてみると、両親と森崎がら楽しそうに話していた。しかも、和明が来たときと同じように和気あいあいとしている。和明ならともかく、森崎と両親は初対面のはずなのに、既に打ち解けているような様子を見て亜紀は違和感を抱いた。 「あら、亜紀。おかえりなさい」 「ただいま戻りました。森崎さん、お待たせしてごめんなさい」  母親に挨拶をした後声を掛けると、森崎は笑みを浮かべながらソファから立ち上がり軽く頭を下げた。 「亜紀さま。お仕事お疲れさまでした」 「それで、和明さんから預かったものって何かしら」  三人が座っているソファへ近づき尋ねると、森崎は困惑の表情を浮かべて、亜紀の両親をちらと盗み見た。亜紀の両親は笑みを浮かべながら、二人の様子を眺めている。 「亜紀さま、もしお許しいただければ二人きりで……」  森崎の言いにくそうにしている姿に何かを察したのか、亜紀の両親はそそくさとその場から立ち去っていった。両親がリビングから去ったのを確かめた後、亜紀は二人が並んで座っていた席に腰掛ける。それと時をほぼ同じくして、森崎もソファに腰を下ろした。 「それじゃ、お話を伺いましょうか」  亜紀がそう言うと、森崎は傍らに置いていたショルダーバッグから封筒を取り出して、差し出した。亜紀はその封筒と森崎を交互に眺める。森崎は笑みこそ浮かべているが、緊張しているようだった。 「社長からこれを預かってまいりました」  森崎が両手で持っている封筒を見ると、ただの封筒にしか見えなかった。亜紀は差し出された封筒を受け取り、早速確かめようと封を開こうとしたのだが、森崎から白い包装紙に包まれた箱を差し出される。 「あと、こちらは社長から亜紀さまへのお土産です」 「お土産?」  亜紀が聞き返すと森崎から苦笑を向けられた。箱は白い包装紙で包まれていて、青いリボンで装飾されている。亜紀が箱を手に取り、まじまじと見ていると、向かい側からため息が聞こえてきた。 「本当でしたら社長が直接渡すべきなのですが、結納当日まで戻れないかもしれないからと……」  申し訳なさそうな声に気づき、森崎に目を向けると肩を落としていた。 「いいのよ。あなたが気にすることではないわ。それより話って?」  亜紀が切り出すと、森崎の表情が真面目な物に変わった。 「亜紀さま。次のお休みは明後日と伺っておりますが、本当でしょうか?」 「明後日は夜勤明けでそのまま休みよ。どうして?」 「社長からの伝言をお伝えしたいのですが、こちらではなく別の場所でと思いまして。それにもう遅い時間ですし」  目線だけ動かして時間を見ると、もう二十時になろうとしていた。和明がどんな言伝(ことづて)を森崎に預けたのか気にならないわけじゃない。しかし、場所を変える必要があるらしく、もしかしたら重大な話なのかもしれないと亜紀は思った。ならば、返事は決まっている。 「大丈夫よ。時間のことなら気にしないで」 「それに、お話しするより現物を見ていただいた方が話が早いと思います」 「現物? 森崎さん、いったい何の話なの?」 「それは当日までの秘密です、亜紀さま。でも決して悪い話ではありません、むしろ亜紀さまにとって良い話だということは確かだと思います」  亜紀が尋ねると、森崎は慌てたように身を乗り出してきた。真剣なまなざしを向けられて、亜紀は森崎の真意を推し量ろうとして、向けられた瞳を見つめ返した。 「わかったわ。明後日ね」 「はい。夜勤明けでしょうし、お昼を過ぎたあたりにお迎えに参ります」  そう言うと、森崎はほっとした表情を浮かべて小さく頷いたのだった。  森崎から渡された封筒の中には、婚前契約書が入っていた。  書類には和明のサインが入っていて、亜紀が署名する部分は空欄になっていて、付箋が貼られていた。亜紀は空欄を眺めながら、ため息をつく。  何を迷うことがある。自分の名前をそこに書くだけだ。頭では分かっているけれど、書く気にはなれなかった。気分を変えようとして、亜紀は和明からの土産の品を取り出した。  和明からの土産は、青いストールだった。  青といっても真っ青ではない、わずかに緑が混じったいわゆる翡翠(ひすい)色である。それにブローチも入っていた。こちらは透明感のある水色の小さな石が、ブドウの実のように房なりになっているデザインだった。亜紀は箱を開けるなり、笑みを零す。  ストールはとても手触りが良い上に、薄くて軽かった。箱から取り出し肩に掛けてみると、ほんわり温かい。亜紀はブローチを手に持ち、鏡台に近づいた。ストールとブローチを合わせた自分の姿を見たかったからである。  寒色系の色を合わせると、冷たい印象を持たれることが多かった。恐る恐る鏡に映った姿を見てみると、ストールの色が完全な水色ではなく緑が混じっているからか、そうではなかった。それにブローチが、良いアクセントになっている。  亜紀はブローチを見て思った。誕生石がアクアマリンであることを、和明は知っているのではないか、と。服のサイズもココアも誕生石も、恐らくは母親からの情報だろう。でも、そうであっても嬉しかった。亜紀は鏡に映った自分の姿を、しばらくの間嬉しそうに眺めていたのだった。
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