13 / 40

第13話 離婚三日前 2

「これ、書いておいてくれ。俺の名前はもう書いてあるから」  テーブルの上に差し出されたのは離婚届だった。朝食をとりおえたあと、亜紀は柔らかな日差しが差し込むリビングで寛いでいた。しかし、唐突に離婚届を差し出されてしまい、急に現実を突きつけられた気分になる。虚ろな瞳でテーブルの上に置かれたものを眺めながら、亜紀は憂鬱そうにため息をつく。  契約を交わして二年が過ぎようとしているが、一向に妊娠の兆候はない。昨夜だって抱き合ったというのに、目の前には別れが具現化したものが置かれている。一時は自分を好いてくれているのではないかと思ったこともあったけれど、それはきっと自分にとって都合のいい思い違いだったのだろう。  そう言えば見合いのときに和明は話していた。自由を得るための結婚だと。それはつまり堺家から出て、自由になるために必要な結婚だということだ。愛人の子として生まれたが、家の体面を保つために堺家に引き取られたと和明本人から聞かされている。そこでどのような扱いを受けたのかは、結局教えてくれなかったけれど。亜紀は離婚届に手を伸ばした。確かに和明が書かなければならないところは既に記入されている。夫が書いた文字を一通り眺めたあと、亜紀は目線を下げた。 「あと三日だな。こうやって一緒にいれるのは」  紅茶の香りとともに和明がやって来て、カップを亜紀に差し出した。そして淡い水色のソファに腰掛ける。亜紀ははす向かいに座った夫を一瞥もせず、不愛想に一言だけ漏らした。 「そうね」  そう言うのが精いっぱいだった。亜紀は夫を見ないようにしながら、カップに手を伸ばす。香り高い紅茶の香りが揺れ動いた。 「ところで離婚したあとはどうするんだ?」 「えっ?」 「俺は出ていくから、ここに独りで住めばいい。もし、ここにいるのが嫌なら、ここを売り払って実家に戻るなり、違う場所に住めば良い。もう自由なんだから」  亜紀はそれに答えなかった。  自由を得られたって、一番側にいてほしい相手と別れることになる。しかし、その寂しさを気付かれたくない。だから亜紀は口をつぐんだままだった。  この部屋の名義はつい半年前に名義を変更している。そのときから夫はこうなることを覚悟していたのだろう。いや、もしかしたら顔合わせのときからずっと、こうなることを待ち望んでいたのかもしれない。そうとしか思えない。そう思えば、心を覆う寂しさが減るような気がしたけれど、そうならなかった。 「そういえば、悪かった」  突然夫の口から謝罪の言葉が飛び出たものだから、亜紀はつい目を向けた。ソファに座った夫から、リビングに差し込んでいる優しい日差しのようなまなざしで見つめられていた。 「ここは、俺が選んだものばかりだ。そこにお前を押し込めていたんじゃないかと思ったときがあった。森崎からも言われていたんだ。内装や家具を一緒に選べと。そうすれば距離を縮めることができるはずだと。それなのに、俺は……」 「ここは売却するわ。実家に戻るつもりもないし、どこか違う場所で部屋を探すつもりよ」  夫の顔を見ることもなく、亜紀は言い切るように告げた。告げられた夫はといえば、特に表情を変えることなく返事する。 「そうした方がいい。俺のことなどさっさと忘れて独り身の自由を満喫しろ。さて、俺はそろそろ出かける」  そう言って和明はソファから立ち上がり、そこから離れていった。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!