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第12話 二章 6

「契約事項の案だが、一通りまとめてきた。それに目を通して問題ないようなら、知り合いの弁護士に頼んで書類を作成したいと思っている」  遅い朝食をとりおえた後、亜紀は和明から一枚の書類を手渡された。リビングのソファに腰掛けながら、彼女は真剣な表情でそれをじっと眺め始める。それには、二人の間でこれから交わされるであろう契約事項が、びっしりと書かれていてた。 その1 これは上条家及び堺家が、それぞれの利益を享受するための契約結婚である。 その2 この契約は結納が成立したときから発生する。 その3 これは期限付きの契約である。(二年更新) ただし結納が成立した時点から婚姻届を提出するまでの期間はこれに含まれない。 その4 契約期間中は夫婦としてそれぞれの立場を尊重しあい、他の異性と公序良俗に反するような接触は一切禁止する。 その5 契約期間中は互いの仕事に一切関わらない。 その6 契約期間中において性交渉は最大週三回までとする。 その7 契約期間中は堺和明所有のマンションで生活する。 その8 契約期間中の生活費用はすべて堺和明の収入から捻出する。 その9 2-8について双方のうち一方がそれを拒んだ場合契約は無効となる。 ・ただし上条家の後継となる男児を上条亜紀が出産したあとであればその限りではない。 ・また契約更新時、新たな事項を加筆する場合当事者である上条亜紀並びに堺和明二人の同意が必要となる。既存の事項を削除並びに修正する場合もこれと同様とする。  書類に記されているものを見ていると、ココアの香りが鼻を掠めた。かすかな甘い香りをたどってみると、マグカップを手にした和明がすぐ側に立っている。それを確かめた後、亜紀は再び書類に目を戻したのだが、テーブルの上に和明がマグカップをそっと置いた。  マグカップを置いた後、和明はそこから去っていった。それを盗み見るように目で追うと、ダイニングの椅子に浅く腰かけ、控えの書類を眺めている。  距離にしてみれば二メートルも離れていないはずなのに、それ以上の距離を感じた。そう感じた途端に冷え冷えとしたものが心に広がり始め、亜紀は和明が置いたマグカップに手を伸ばし、温かいココアを口に含む。甘い香りが口中に広がり、温かいものが体の奥へと流れ込んできたのだが、冷え切った心と体を温めてくれなかった。 「これで問題はないわ。でも、一つだけお願いがあるの」  マグカップを両手で包み込むように持ったまま、亜紀は目の前の書類を見下ろした。和明の視線を感じたが、あえて気付かないふりをする。 「なんだ?」 「ここで暮らすことも、この契約内容を守ることも、あなたと結婚して子供を作ることも受け入れるわ。そのかわり私に必要以上関わらないで」 「関わらないで、どうやって結婚生活を送るつもりだ。それに結婚したのに妻のことを何も知らないなど、対外的にまずいだろ」 「やることだけやってればいいじゃない」  言い過ぎたと思ったときには手遅れだった。ずっと、いら立ちを抱いたままだとはいえ、こんな形で吐き出してしまったことを悔いた。居たたまれない気持ちでいると、低く落ち着いた声が聞こえてきた。 「袖振り合うも多生の縁っていうだろう? 家同士のつながりのためとはいえ縁があったと考えて、もっと建設的に考えた方が楽だと思うが」 「あいにく、私はそう考えられない人間なのよ。あなたと違って」  和明の視線を感じたが、亜紀はあえて気づかぬふりをした。どこまでも頑なな姿勢を崩さない彼女を、和明は苦笑しながら見つめている。重苦しい沈黙を破ったのは、深いため息だった。和明である。 「なぜ、そこまで俺を拒む?」  ひどく沈んだ声だった。思わず顔を上げそうになったが、亜紀はそうしなかった。それをしてしまえば、ここで彼の顔を見てしまったら、張りつめているものがぷつんと切れてしまいそうで怖かった。それが切れてしまったら最後、森崎との関係を和明に問いただしてしまいかねないし、亜紀はそれを恐れていたのだった。  亜紀が黙り込んでいると、和明が椅子から立ち上がり彼女に近づいた。近づく和明から発せられる威圧感は相当なもので、気配が近付くごとにどんどん息苦しくなってくる。亜紀はついに耐えきれなくなってしまい、そこから逃げるようにソファから立ち上がった。 「もう用事は済んだのだし、そろそろ帰らせてもらうわ」  すぐそばにまで来ていた和明を一瞥することなく、亜紀は立ち去ろうとした。だけど、出口へ向かおうとしたときだった。和明が亜紀の前に立ち塞がったのだ。  亜紀は足を止め、和明をにらみ付けた。瞳にはわずかに涙が滲んでいる。だが、和明はそれに動じることなく亜紀を見つめているが、その表情にはわずかに焦りが滲んでいた。 「帰りたいなら送っていく」 「結構よ。通りに出ればタクシーくらい捕まるわ」 「あなたを一人で返すわけにはいかない。そんなことをすれば、あなたを一人で放り出したと思われることになる」 「私から両親に事情を話すわ。明日からの出張の準備で忙しいからと」  リビングの入り口付近で押し問答を繰り返しているうちに、二人の語気が強いものへと変わっていった。言い返せば言い返すほど、心がどんどんささくれ立っていく。和明を通り過ぎようとしたとき、それを引き留めるかのように腕を強い力で掴まれた。 「痛っ……」  腕を強い力で掴まれてしまい、亜紀は顔を顰めさせた。キッとにらみ付けたが、和明は腕を放そうとしない。焦りの表情の中に怒りが滲んで見えた。その怒りの理由が分からず、亜紀は和明の顔を凝視する。それに気がついたのか、和明は彼女から顔をそらした。だが、そのときつぶやきにも似た小さな声が、亜紀の耳に入ってきた。 「……」 「え?」  声が余りにも小さくて、聞き取れなかった。亜紀が聞き返すと、和明は表情を曇らせ、深いため息を漏らす。二人の間に重苦しい空気が漂い始めた。いたたまれない気持ちのままそのままでいると、和明が重い口を開く。 「……悪かった。すぐ送るから待っててくれ」  頼りない声でそう言った後、和明は亜紀を見ようともしなかった。  和明に送り届けてもらった後、亜紀は出迎えた母親と会話を交わすことなく自分の部屋へと向かっていった。扉を開けて部屋に入ると、慣れ親しんだ香り包まれほっと安堵する。扉を背に瞼を閉じると、体から力がどんどん抜けていく。それまで張り詰めていたものが、みるみるうちに緩んでいった。  自宅に戻るまでの間、和明はずっと黙ったままだった。亜紀は隣にいる和明の様子が気になって何度か盗み見たのだが、彼は険しい表情を浮かべながら前だけを見つめていた。手を伸ばせば触れられる距離にいるはずなのに、遠いところにいるような気がして仕方がなかった。  そのような姿を見てしまえば、昨夜の出来事が幻だったのではないかと思えてくる。そして和明に対して抱いた感情も陽の光にさらされた淡雪の如く消えていく。そうなったきっかけは探すまでもない。着替えを持って現れた森崎の存在だった。  たとえ二人の間に愛情など存在しなくとも、互いに埋めきれぬ孤独を抱えた者同士だ。ほんの少しの部分でも重なり合う部分があればいいと思ったが、どうやら甘い考えのようだった。  せめて、もう一度あの言葉を聞かせてくれたらと亜紀は思う。森崎とは上司と部下以外なんの関係もないのだと。それが言葉だけのものであったとしても、そうすれば多少であっても安心できるのに。亜紀はあることに気付き、顔をはっとさせた。  これ以上自分自身に関わるなと言ったのは、自分自身の中で和明の存在が大きくなり始めているからだ。契約結婚を提案してきた男に、心を奪われかけている自分自身が弱い人間に思えてくる。体を重ね唇を重ねそのぬくもりを欲し、ずっと埋められなかった空洞を満たしてほしいとさえ思い始めている。  亜紀ははっきりと自覚した。和明を思い始めていることに。だが、それと同時に森崎の存在が、彼女の心に暗い影を落とす。二人が抱き合っていた姿を思い出したとき、体の内側から炙られているような痛みを感じた。荒々しい風が亜紀の心の中をかき乱していく。ずっと抑え込んでいたものが、ついに涙となってあふれ出し流れ落ちた。亜紀は扉に体を預けたまま、声を殺して泣いていた。
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