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第11話 二章 5

 それまでぴったり重なっていたものが、背中からゆっくり離れていく。  亜紀は揺蕩(たゆた)う意識の中、離れようとしている温かなものを引き留めようとして寝返りを打つ。だが、温かい何かが頬を優しく包み、開きかけた瞼に柔らかいものを押し付けられた。  それからすぐに温かいものに包まれ、その心地よさに吸い込まれるように意識が沈み込んでいく。そうしているうちに亜紀は眠りに落ちていた。  柔らかい陽の光をまぶたに感じ、亜紀は浅い眠りから目が覚めた。  開いた瞼の先には見知らぬ景色が広がっていて、一瞬ここがどこか分からなかった。  むき出しの肌に触れている空気がほんのり暖かい。体温で暖められたシーツの感触が肌から伝わり、何も身に着けていないことに気がついた。うっすら男の匂いがして、それが記憶を呼び起こす。  そのときの記憶を振り返りながら深いため息をついたあと、亜紀は重だるさが残った体をどうにか起き上がらせた。辺りを見渡してみると、大きな窓にかかったレースのカーテン越しに、眩しい光が部屋に差し込んでいる。隣を見てみると、案の定男はいなかった。それにほっとしたのと同時に、寂しくなった。亜紀は、新たに芽生えた感情に戸惑ってしまう。  彼に求めるものは、いずれ生まれるであろう子供の父親という役割だけだ。それ以上のものを求めるつもりはないし、彼だって求められても困るだろう。だけど、あのような抱かれ方をされると、それ以上のものを求めてしまいそうになる。まるで愛されていると勘違いしそうになるほど、彼の抱き方は優しく激しかった。  見合いのとき、彼が女慣れしていることにすぐに気付いた。それに、女を抱くことに慣れていることも。だから、腕に抱いている女を愛していなくとも、あんなふうに抱けるのだ。そう自分自身に言い聞かせているうちに、胸の奥が痛み始めた。じりじりと皮膚の表面を炙(あぶ)るような痛みは胸の奥だけにとどまらず、全身へと広がっていく。  彼がこの話を提案したのは、求められた役目を果たしたあとの自由を得るためだ。そして、自分自身もまたそれを得るために、割り切った上でこの話を受けたつもりだった。それなのになぜこんなにも寂しくそして虚しいのだろう。亜紀は沈んだ表情のまま、物憂げにため息を漏らす。すると吐き出した息とともに、体から力が抜けていった。  昨夜の情事の余韻が残ったままの体は重だるく、特に腰のあたりがひどかった。そして足の付け根から腿の内側にかけて濡れたままになっている。肌を濡らしているものがなんであるかなど愚問に等しい。  避妊なしのセックスを繰り返せば、お互いの生殖機能に問題がなければいずれは子供もできよう。そして晴れて男児を産めば、その時点で二人は自由になる。そう思ったら、更に虚しくなってきた。  するとそのとき、ドアをノックする音がして、亜紀はあわてて上掛けの中に潜り込んだ。それとほぼ同時にドアが開く音がして、びくんと体が反応する。しばらくすると男の声が聞こえてきた。 「起きているか?」  とっさにとった行動とはいえ、ここからどうしたものか、亜紀は布団の中でしばし思案する。今の姿を見られたくなかったからこうしたのだが、どのタイミングで出ていいか分からない。しばらくすると、布団の向こう側から、呆れたような声が聞こえた。 「朝だぞ。といってももうすぐ十時になるが」  亜紀は、勢いよく布団の中から飛び起きた。 「十時ですって!?」  声がした方を見ると、白いシャツにブラックチェックのチノパン姿の彼が立っていた。髪を無造作に流し、黒いセルフレームの眼鏡を掛けている。よく見ればシャツの一番上のボタンが外されていた。その姿を亜紀がまじまじと見ていると、男から苦笑を向けられた。 「今日休みなのを覚えていないのか……」 「休み?」 「そう、昨日夜勤明けでマンションに来て、食事をとったあとソファで寝ていたんだ。だから寝室(こっち)に運んで、そのまま寝てたんだ」  そう言われてみれば、確かに彼の言う通りだった。ここに来て食事をとった後、睡魔に襲われて、そのまま眠ってしまったのだろう。そして、そのあとは――。  亜紀はすぐさま体を見下ろした。当然何も身に着けていない。それに気が付き、慌てて上掛けで胸元を隠す。 「ようやくお目覚めか」  彼へ目を向けると、何が面白いのか愉快げな笑みを浮かべていた。亜紀は顔を赤くさせながら、悔しさを滲ませた目で彼をにらみ付ける。だが、全く動じていなかった。 「朝食を用意してある。リビングへ来い」  そう言った後、彼はそこから立ち去ろうとした。亜紀は胸元を隠しながら、慌てて言い放つ。 「ちょっと待って。その前に私の着替えはどこ?」  すると、彼は足を止めて、ベッドから動こうとしない亜紀に目を向けた。 「ああ……。それなら、ランドリーサービスに出した。そうか、着替えの服か……」  細い顎に指をかけ思い出したかのように話す姿は、着替えのことなど全く考えていないようだった。 「もしかして……。ないの?」  恐る恐る問いかけると、自嘲気味な笑みを向けられた。 「悪い。急だったものだから、着替えを用意していなかった。ちょっと待ってろ。すぐに用意させるから」 「用意って、え?」  亜紀が聞き返そうとしたときには、彼はスマホでどこかに電話を掛けていた。亜紀はその姿を眺めているより他はなく。そうしていると、彼が受話器に向かって話し始めた。 「森崎。休みのところ悪いが頼みがある。女性用の部屋着一式用意して俺の部屋に届けてくれ。下着もだ。ん? サイズ? ああ、お前と同じくらいだ。じゃ頼んだぞ」  男は電話を切ったあと、亜紀の方へ目を向けた。どうやら視線に気づいたらしい。亜紀は彼の様子を窺うように眺めていた。 「どうした?」 「なんでもないわ」  亜紀はプイと顔をそらし、ベッドの毛布を体に巻き付けながら、のろのろと立ち上がる。毛布の端が床について歩きづらいが、何も身に着けないでいるよりいいだろう。そのままの姿で部屋から出ようとした。 「シャワー、浴びるわ」  視線を感じたが、あえて気付かないふりをした。 「廊下の突き当たりの右側だ、チェストにガウンがあるはずだから、取りあえずそれを……」 「わかったわ……」  見ないようにしながら彼の横を通り過ぎ、亜紀はそのままシャワールームへ向かったのだった。  浴室の扉を開くと、ふわりとラベンダーの匂いがした。  浴槽には湯が張られており、温かい湯気がそこから立ち上がっている。換気用の小窓から差し込む眩しい日差しが湯気を照らし、ゆらゆらと生き物のように揺れ動いていた。  壁一面に張られた白いタイルは大理石だろうか。贅沢なつくりのバスルームに、おずおずと足を踏み入れると、温かい湯気が肌を湿らせた。  亜紀はシャワーを浴びようと白いカランに手を伸ばす。それをひねると壁に掛けられていたシャワーヘッドから勢いよく温かな湯が降り注いできて体を濡らしていく。肌を伝い落ちるわずかに熱い湯のおかげで、ようやく意識がすっきりし始めた。  軽く体を洗い流し、温かな湯が張られている浴槽に浸かると、少し熱めの湯がぴりぴりと肌を刺激する。息を吐きながら浴槽に背をもたれかけながら、亜紀はまぶたを閉じた。  彼が話していた相手は、きっと女性で間違いない。それに、あの命じるような口調だ。彼の部下であることくらい容易に想像がつく。ただ気になるのは、相手の体のサイズをまるで知っているような言葉が、彼の口から飛び出たことだった。 『サイズ? ああ、お前と同じくらいだ』  その言葉を思い出したとき、亜紀は物憂げなため息を漏らす。恐らく彼は森崎という女性の体のサイズを把握しているのだろう。男が女の体のサイズを知り得ることができる機会など限られている。森崎が独身であるか分からないけれど、もしも一人身ならば彼らがそのような関係であっても問題はない、とは思う。だが頭ではそう理解できても、気持ちとしては複雑だ。心の表面をざらりとしたもので擦られたような不快さを感じて仕方がなかった。  全身を洗い終えバスルームから出ると、入り口の側にあるチェストの中から真新しいガウンを取り出した。それを身に着けると、柔らかな生地が肌に触れて心地よい。着替えた後、濡れた髪をタオルで拭いていると、扉の向こう側から人の声が聞こえてきた。亜紀は足音を忍ばせ扉に近づいた。じっとしながら、耳をそばだてる。 「社長。頼まれたものをお届けに参りました」 「朝から悪かったな。寝ていたんだろう?」 「社長から連絡がくるまでぐっすり寝てましたよ」 「すまんな。帰国早々こきつかって」 「いつものことですから、気にしておりません」  なんてことはない会話ではあるが、二人が交わしている言葉の端々に、上司と部下以上に親密なものを感じた。会話を聞いているうちに、不安がどんどん心に広がっていく。亜紀の表情がそれに伴い、少しずつ曇り始めた。 「あと社長は女性の扱いに慣れていないから気づいていないものもあるかと思って、この中に必要最低限のものを入れていおきました」 「悪かったな、気が利かない男で」 「ホントですよ、全く」  扉の向こう側から笑いあう声が聞こえてきた。それを耳にしたとき、鋭い刃物で一突きにされたような痛みを感じ、亜紀は顔を歪ませる。その痛みは胸の奥から全身へとじわじわと広がり、体の内側に染みこんでくる。それは今まで感じたことがない感覚だった。 「じゃあ、私はこれで」 「助かった。これからは事前にお前に聞くことにするよ」 「そうしていただけると助かります」  森崎が帰ろうとしている。そう思ったとき、亜紀はとたんに焦りだす。何も考えず部屋から出ると、彼女は玄関の方へと向かう。そしてようやく玄関にたどり着こうとしたとき、亜紀はあるものを見てしまい足を止めた。それは玄関先で、和明が森崎と思われる女性を抱きしめている姿だった。  その光景を目にしたとき、心臓を鷲掴みにされたような痛みを感じた。亜紀は唇を引き結び、顔を歪ませる。今すぐにでも今いる場所から飛び出して、何をしているのか二人に問いただしたいところだが、こみ上がる衝動を抑えながらそれができるか自信がない。  亜紀は体の内側から込み上がる衝動を無理やり抑え込んだ。その反動か、体がわずかに震え始める。顔はすっかりこわばっていて、湯から上がったばかりだというのに顔色が悪くなっていた。二人をこのまま眺めている訳にもいかず、意を決し一歩踏み出した。亜紀は「彼女」を見ることなく和明に声をかける。 「和明さん、そちらの方は?」  和明に呼びかけると、慌てることなく亜紀の方へ振り返った。腕にすがりついている女性を抱いたままで。 「亜紀。ちょうどいい、紹介しよう」  和明は動じることなく口を開いた。彼女はゆっくりと体を離そうとしているが、その体を彼は支え続けている。 「彼女は森崎。俺の秘書だ。森崎、彼女が俺の婚約者の亜紀だ」  亜紀は森崎に笑みを向けた。肩まで伸びた黒髪の乱れを整えながら、森崎は笑みを浮かべている。恐らく自分と大して年齢は違わないだろう。しかし、彼女から漂う雰囲気は、随分と落ち着いている。亜紀がほほ笑んだまま眺めていると、白いシャツに細身のジーンズ姿の森崎が、すっと頭をさげた。  「亜紀さま。初めまして。堺社長の秘書を務めている森崎と申します」 「森崎さんね、はじめまして。お休みのところ本当にごめんなさい……」 「いえ、これも全部社長が悪いんです。亜紀さまは何も気になさらないでくださいませ」  にっこりとほほ笑む姿には他意は感じられなかった。それを目にしたとき、つい勘ぐってしまったことを悔いたものだが、それでも不安は消えてくれなかった。そうしているうちに、いつの間にか和明が側に近づいていた。 「和明さん。折角来てくださったのだし、中に入っていただいたら?」 「え?」 「さあ、どうぞ。森崎さん、御遠慮なさらずに」  亜紀が笑みを浮かべて促すと、彼女は明らかに困惑しているような表情を和明に向けた。和明はと言えば、怪訝そうな顔で亜紀を眺めている。 「亜紀さま。私は社長に頼まれた物をお届けに来ただけですから。でもお気遣いいただいて嬉しいです。社長、私はこれで失礼します。明日空港で……」 「ああ、わかった。明日空港で落ち合おう」 「では、失礼します」  森崎は、亜紀と和明それぞれに笑みを浮かべたあと、頭を下げて立ち去っていった。それを見送ったあと、亜紀は玄関から立ち去ろうとする。 「亜紀……」  背後から弱々しい声がして足を止めそうになったけれど、亜紀は聞こえないふりをしてリビングへと向かう。視線を背中に感じたが、今の自分の姿を見せたくなかった。  だが、いきなり肩をつかまれてしまい、無理やり体を振り向かせられてしまう。和明の顔を見上げると、焦っているように見えた。 「森崎はただの秘書だ。俺の考えすぎかもしれないが、あなたが疑うような相手ではない」  焦りを滲ませた彼の言葉に、どう返していいか分からない。それに今、一言でも発してしまったら、ずっと抑え込んでいたものを吐き出してしまいそうで怖かった。亜紀が何も話そうとしないからか、和明はそれに畳みかけるように話す。そのとき両腕を掴んでいる力が強くなった気がした。 「何度も言うようだが、あなたとの見合いの話が来てからは―― 「もしも、仮にそんな相手だとしても、私には関係ないことだわ。そうでしょう?」  感情を精一杯抑え込んで問うと、和明の表情が傷ついたようなものに変わった。それを見たとき、胸に痛みが走ったが、それに気付かぬふりをして亜紀は視線を落とす。すると、和明の足元に置かれた紙袋が目に入った。 「それ、着替えでしょう? 着替えさせて」  亜紀がそう言うと、和明は彼女の両腕からようやく手を離し、その紙袋をおずおずと差し出した。それを受け取ると、亜紀は和明に背を向ける。すると、また和明の声が背後から聞こえてきた。 「着替え終わったらリビングへ来てくれ。朝食を用意しておくから」 「わかったわ」  亜紀は和明を振り返ることなく返事をしたあと、着替えるために脱衣所へと向かったのだった。
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