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第9話 二章 3

 結納まで残り二週間となったある日、夜勤を終えて自宅に戻った亜紀を待ち構えていたものは、信じられない光景だった。  朝日が差し込むリビングで、あの男と両親が談笑しているのだ。あの男とは先日の見合い相手であり、夫となる相手であった。  三人はとても楽しそうにしていた。それを見たとき、やはりこの見合いは祖父母主導のものではなく、父親が持ち込んだものなのだろう。だから先日、相手から連絡がないことを気にしていたのだ。  それにしても、あのような両親の姿は見たことがない。両親が仲よさげに寄り添い合う姿こそ、一番信じられない光景だった。男が話すたび、二人は互いに顔を見合わせながら相づちを打っている。亜紀は表情にこそ出していないが、内心では驚きながらその光景を眺めていたのだった。 「あら、お帰りなさい、亜紀」  リビングの入り口に立つ娘に気付いた母親が、着ていた着物の襟を正しながら声を掛ける。次いで亜紀の父親と和明が、ほぼ同時に彼女へと目を向けた。  亜紀はただいまとそっけなく返したあと、そこから立ち去ろうとした。三人がどのような会話をしていたのか気になってはいたけれど、それよりも夜勤明けで疲れた頭と体を休ませたかったからだった。  それに男の顔を見たくなかったのも理由だった。彼の顔を見てしまえば、ずっと連絡がなかったことを責めたくなる。そんなことをしてしまえば、彼のことを気にしていると明らかにするようで嫌だった。 「亜紀。和明くんが帰国した足でわざわざ立ち寄ってくれたんだぞ? 挨拶くらいしたらどうだ」  リビングから離れようとしたとき、いきなり父親に呼び止められた。亜紀は渋々彼らのもとへと向かう。三人からの視線を感じ、亜紀は居たたまれず心の中でため息をついた。内心では彼に対して不満を抱いているけれど、それを気取らせるわけにはいかず、笑みを作って隣に腰掛ける。 「おかえりなさい、和明さん」  にっこりと笑みを浮かべて相手を見ると、優しい笑みで返された。 「ただいま帰りました。亜紀さん。ずっと連絡できず申し訳ない。仕事が思いのほか立て込んでしまってね」 「いいの。お忙しかったんでしょう? きっとお疲れでしょうし、ゆっくりお休みになっては?」 「そうですね。そうさせていただきます。それでは、早速行きましょうか」  え? と亜紀が言おうとしたとき、父親が口を挟んできた。 「二人とも忙しい身だ。休みが重なることなんか滅多にない。亜紀、結納も近いことだし、今日は和明くんと今後のことをゆっくり話をしてきたらどうだ」 「見合いの翌日すぐにシンガポールへ行ってしまったし、ゆっくり時間も作れなかった。それでそのお詫びではないが、今日明日二人きりでゆっくりと過ごしたいと思って」  父親と相手からもっともらしい話をされてしまい、亜紀は逃げられなくなった。まるで示し合わせたような展開が気に入らず、どうにか逃れる方法がないか亜紀は考えを巡らせる。 「和明さん、ごめんなさい。夜勤明けで疲れているの。それは、またの機会にしていただけると―― 「二日後またシンガポールに戻らないとならないし、恐らく結納まで戻れない。だから今日明日は貴重な二日間ということになる。じゃあ行きましょう」  断ろうとしたら、いきなり腕を掴まれて、立ち上がらせられた。強引に腕を引っ張られ、引きずられるように亜紀はリビングをあとにする。  とっさに両親の方へ目をやれば、仲良く寄り添い会いながら笑みを浮かべていた。これもまた、計画されていたことだとすぐに気付き、亜紀は心の中で臍を噛む。  そうしている間に家から連れ出されてしまい、見合いの日のように車の助手席に押し込められた。 「さて、行くか」  突然の出来事に唖然となっている亜紀を尻目に、男は平然と運転席につく。そのとき、男をにらみ付けたのだが、濡れた髪に目が留まった。亜紀は思い切り顔を顰めさせる。 「もしかして、うちでシャワー浴びたの?」  男から漂う匂いは、亜紀が使っているボディソープの匂いだった。それを尋ねると、男は思い出したように言う。 「ああ。断ったんだが、どうしてもと言われてね。ついでに朝食をとも言われたが、それはあなたと二人きりで一緒に取りたいからと言って断った」  そう言いながら、男は車のエンジンをかけた。亜紀は、身を乗り出して問いかける。 「帰国したばかりなら疲れているでしょう? 私も夜勤あけで疲れているの。だから―― 「なら、このまま俺のマンションに行くか?」  亜紀は呆れた顔を男に向けた。 「どうしてそうなるの? 私はただゆっくりと眠りたいの」 「俺もフライトで疲れている。一緒に寝よう。そうすればすべて解決する」  亜紀は唖然となった。そうしているうちに、車はゆっくりと動き出した。それに気付き、思わず身を乗り出したが、どんどん家から離れていく。  公道に出たあと、道路脇に植えられている街路樹が目に入った。初夏の到来を感じさせるほど、生い茂った緑が濃くなっている。亜紀は不満をあらわにさせながら、それを眺めていた。 「無理にあなたを連れ出したのは、契約内容を詰めたいからだ。もうすぐ結納だしな」 「契約内容?」  運転席に座る男を見れば、すっと通った鼻筋の下の唇は引き結ばれていた。先ほどまでの愛想など微塵も存在していない。 「婚前契約は、結婚する前に決めておかないとならないことくらい知ってるだろ。一通り案を作ってきたから、内容に問題ないようならサインをしてほしい」  確かに男が言うとおりだ。婚前契約は、結婚をする前に交わすものだ。結婚に関する取り決めをして、契約書あるいは覚書を作成することになっている。それくらい知ってはいたけれど、まさか自分が交わすことになろうとは思いもしなかった。  男が余りにも淡々と話すものだから、仕事の話のように聞こえたのは気のせいではないだろう。婚前契約自体、日本では馴染みがないし、今更ながら味けないものに思えてしまい、亜紀は口を閉ざしたまま前を向いていた。 「言ったはずだ。これは契約結婚だと。互いの家の利益と、俺たちの自由のための契約だ。それ以上を求めるつもりはない」  きっぱりと言い切られたとき、どうしてか胸の奥がしくしくと痛んだ。亜紀は膝の上に置いた手をぎゅっと握り締める。 「そうね、結納まで二週間だし。その前に契約事項を確認しなければならないわね」 「そういうことだ。それに新婚旅行の行き先も決めておきたい」 「えっ!?」  亜紀は驚きの余り大きな声をあげてしまう。男を見ると、前を向いたまま車を運転していた。 「どうした?」 「新婚旅行は、行かないわ」 「どうして?」 「あなただって分かってるでしょう? 産科が慢性的な人手不足だってことくらい。うちだって同じ。人手が足りなくて忙しいの。まとまった休みなんか取れるわけないでしょう?」  実際は行けないのではなく、行きたくないだけだった。亜紀は、更に追い打ちを掛ける。 「それに、あなただってお忙しいでしょうから」  そう尋ねたあと、亜紀は男の顔を盗み見た。しかし、彼は表情一つ変えず前を見続けている。全く動じていない横顔を見たとき、当てこすりのような言葉を言ってしまった自分自身が嫌になった。亜紀は隣にいる男から目をそらし、再び窓の外へ目を向けたのだった。  連れて行かれたのは、男が住んでいるマンションの部屋だった。  部屋の奥にあるリビングは、くすんだグリーンと濃いめの茶色を基調としたインテリアでまとめられていて、とても落ち着いていた。趣味の良ささえ感じさせる部屋に漂う香りから、亜紀は無意識のうちに女性の気配を探っていた。 「ココア、でいいか? 甘いものを飲みたいだろう?」  声がした方へ目をやると、男がすぐ側に立っていた。両手にはマグカップを持っている。その姿を目にしたとき、父親が紙コップを持っていた姿と重なって見えた。 「……ありがとう。頂くわ」  差し出されたマグカップを受け取ると、温かった。マグカップからは温かい湯気とともにココアの甘い匂いが立ち上がっている。それを嗅いでいると、男はそこから離れたのだった。  男の後ろ姿を眺めながら、亜紀はココアを飲み始めた。ココアのまろやかな甘みが口中に広がっていき、その温かさに体の力が抜けていく。その上、気が緩みそうになったけれど、亜紀は押しとどめた。  亜紀は仕事を終えて帰宅すると、まずココアを飲むことが習慣になっていた。そのようなことを知っているわけなどないのに、彼は知っているような気がした。  しかし、よくよく考えてみると、すべて母親から聞かされているのだろう。ホテルに泊まったときに用意されていた衣類のサイズだって、ぴったり合っていたのだから。そう考えると、ココアのことだって不思議でもなんでもない。そう思い至った後、亜紀は僅かに表情を曇らせてため息を零した。 「すぐに朝食を用意するから待ってろ」  亜紀がため息を漏らした直後、男の声がした。その声がした方へ目をやると、男がキッチンで何やら作っていた。朝食といったところで、せいぜい温めたパンとサラダ程度だろう。しかし、そう思ったことを亜紀は後悔することになる。  三十分後、亜紀はダイニングテーブルの上に並べられた料理を眺めていた。彼女の目の前には、ほうれん草のおひたし、きんぴらごぼう、里芋の煮付け、そしてみそ汁が並べられている。それらを驚きの表情を浮かべながら眺めていると、温かい湯気が立ち上がる白米が盛られた茶わんを目の前に差し出された。 「どうした? 食べないのか?」  亜紀は顔を上げて、男に問いかけた。 「これ、全部あなたが?」  すると男は料理を見もせずに、亜紀の向かい側の席に腰掛ける。 「もう少しまともなものでも出せばいいのだろうが、生憎海外から戻るとどうしてもシンプルな和食が食いたくなるもんでね。そればかり作ってしまったが、食べられるか?」 「食べられるわよ……」 「そうか、なら食えよ。といっても口に合うかわからないが」  ぶっきらぼうに答えたあと、男は茶わんと箸を持った。 「じゃ、いただきます」  男に続いて亜紀もその言葉を口にする。 「……いただきます」  亜紀は茶わんと箸を手にとって、温かな湯気が立ち上る白米を口にする。それぞれの小鉢に盛り付けられた料理を食べてみると、とてもおいしかった。自然と口元が緩みそうになったが、それを慌てて引き締める。 「……これ、どこで習ったの?」  亜紀が尋ねると、男は箸を持つ手を止めた。 「習った、というより物心ついたときから一人でなんでもやっていたんだよ。だからこんなものしか作れない」  そのとき、男が表情を曇らせたのを亜紀は見逃さなかった。苦笑にも見えなくはないが、瞳が陰りを帯びている。何か思い出したくないことでもあるような気がして、何げなく尋ねてしまったことを悔いた。だが、もう遅い。亜紀は当たり障りのない言葉を選んで、それを口にする。 「そう、料理上手なのね」 「褒められるような料理じゃない。どこの食卓でも普通に並んでいるものばかりだぞ?」 「でも、おいしいわ。温かいし」  向かいに座る男の顔をチラリと見ると、無表情ではあったけれど、耳が赤くなっていた。  食事を取り合えたあと、亜紀は後片付けを申し出た。しかし、あっさりと断られてしまい、彼女は今リビングのソファに座っている。  テーブルの上に置かれたマグカップに手を伸ばし、入れ直したばかりのココアを含む。リビングの窓から差し込む暖かな日差しと、それで温められた空気は食後の眠気を誘うには十分過ぎるほどだった。  少しでも気を緩めてしまえば、あっという間に眠りに落ちそうになりながらも、亜紀は気を引き締めて耐えていた。だがそれにだって限界はある。どんどんまぶたは重くなり、温かなもので包まれているような心地よさを感じ始めていた。  吸い込まれるように薄れていく意識の中、誰かが近付いてくる気配がした。亜紀は意識を取り戻そうとしたのだが、睡魔に抗い切れずどんどん意識が遠のいていく。  意識が途切れる間際、頭を優しく撫でられた。その手の感触と動きに既視感を覚えたが、いつどこで誰からそうされたのか思い出せない。  それがとても大切な記憶のように思えたのだが、幾ら思い出そうとしても意識は遠のいていく。そうしているうちに、亜紀は吸い込まれるように眠りに落ちていた。
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