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第8話 二章 2

 亜紀の祖父母が暮らしている部屋があるマンションは、上条家からさほど遠くない場所にある。彼女が大学を卒業し医師として働き始めたのを機に上条家から離れ、老夫婦二人で悠々自適の生活を送っている。  結納まで一か月を切ったある日、亜紀は祖父母のもとを訪れた。夜勤を終えて自宅に戻り、短い仮眠をとっただけではあるが、今日を逃せば向こう一か月祖父母と顔を合わせられる時間は取れそうにない。だから亜紀は、無理を押してやって来たのだった。  あくびをかみ殺しながら、祖父母が住む部屋へ足を進めると、向こう側から見知った男がやって来た。仕立てのよさそうなダークグレーのスーツに身を包んだ中年の男は、病院の理事長である井川である。  井川 直実(いがわ なおざね)は、上条病院の事務局長を併せて医療法人上条会の理事を勤めている男だ。理事長である亜紀の祖父の腰ぎんちゃくと陰で呼ばれている。ことあるごとに祖父の顔色ばかりうかがう男で、亜紀の祖父が黒だと言えばたとえ白であってもそれに頷くだけの男だった。  それに、母親が病院を訪れると、彼は必ず案内役を買って出る。祖父の側近がどうして母親の側にいるのか、明らかな理由は分からない。しかし、母親から聞いた話を祖父に逐一していると思えば、おおよその察しは付く。亜紀がこちらへ向かって歩いている井川を眺めていると、彼もまたこちらに気付いたようで軽く頭を下げてきた。 「これは亜紀さま。御無沙汰しております。相変わらずお元気そうで……」  井川は柔和な顔に刻まれた皺を気にもせず、笑みを浮かべて挨拶した。亜紀は愛想笑いを浮かべて挨拶を返す。 「井川理事、御無沙汰しております。今日は祖父のところへ?」 「ええ、お届けものがありましてね。ついでに御機嫌伺いをしてきたところです。ところで、もしかして御婚約の報告ですかな?」 「ええ、それもあるし、井川理事と同じく御機嫌伺いですよ」 「それならちょうど良かった。理事長は病院長から亜紀さまの御婚約の話を聞いたようで、それはそれは喜んでおられましたよ」  井川から聞かされた話は、亜紀を驚かせた。 「おじい様が?」 「ええ。お相手が堺家の長男と聞いて、余り快く思わなかったようですが、婿入りすると聞いた後は御満悦のようでした」  井川から満足げな笑みを向けられて、亜紀はふと表情を曇らせる。しかし、すぐに作ったような笑みを浮かべた。 「あとは私が男の子を産めばもっと御満悦になるでしょうね。もしかしたら父さんの次はその子供にって言い出すかもしれないわ」  すると、井川の顔が一変した。それまで笑みを浮かべていた皺だらけの顔が急にこわばったのである。その表情を見ると、彼が祖父のもとを訪れて何を話していたのか容易に想像がつく。亜紀が冷ややかな目を向けると、井川は困ったような顔をして頭をかき始めた。 「亜紀さま、それは少々手厳しいお言葉ですな。おっと、それでは私はそろそろ……」  ここから一刻も早く立ち去りたいのだろう。井川が腕時計を見始めた。 「……ごきげんよう、井川理事」  亜紀が別れの挨拶を告げると、井川はそそくさと目の前から去っていった。  眩しいほどの日差しが降り注ぐリビングでは、小柄な老夫婦が寄り添いあうようにソファに腰掛けている。一か月後に結納を交わすことを報告すると、祖父母は互いに顔を合わせ、我がことのように喜んでいた。 「よかったわ。これであとは……。ねえ、あなた」 「まあ、授かりものだからな、こればかりは。だが、頼んだぞ。亜紀」  その姿を向かい側で眺めながら、亜紀はほほ笑んだ。だが、喜び合う祖父母の姿がほほ笑ましくて、そうしているわけではない。祖父母が喜んだ理由など明らかだ。亜紀はほほ笑みながらも、つらかった幼い頃を振り返っていた。幼い頃を思い出すたび、繰り返し言い聞かせられた言葉が頭に浮かんでくる。 『お前は本来上条家の跡を継ぐものではない。男が生まれなかったから仕方なく跡取りにしているだけだ。お前の役割は婿をとって男を産むこと。それだけだ』  跡取りなんか、進んでなりたいと思わない。ましてや、政略結婚なんかまっぴらだ。しかし、それを求められている以上、上条家の娘として応えなければならない。  子供だったときは、早く大人になりたかった。大人になれば、自らの意思で全てを決めることができると信じていたから。しかし、現実はそうじゃない。大人になっても自由になれないまま、こうしている。 『思いどおりに生きることは難しいな、お互いに』  ふいに、あの男から掛けられた言葉が頭に浮かび、確かにその通りだと思った。それと同時に、彼もまた自分と同じように窮屈な世界で生きている一人なのかもしれないと思わされた。だから、あのような言葉が出たのだろうし。 『互いの自由を得るために契約したい』  今まであのような言葉を掛けられたことがないだけに戸惑った。しかし、よくよく考えてみれば、こちらにとって願ってもない提案だ。結婚で自由を得るなど考えたことがなかったし、そういう提案をする見合い相手はいなかった。  プロフィールを聞いたとき、随分と毛色が違う相手だと思った。しかし、今までの見合い相手たちと異なるものはそれだけではなかったようだ。彼の言葉を借りるなら合理的といったところだろう。  これまでの見合い相手は、全て祖父母が持ち込んだものだった。彼らは家柄を重視して選んでいたが、多少なりとも繋がりがあるところを選んでいた。しかし、彼の実家である堺家とは関わりがなかったような気がする。  もしも多少なりとも繋がりがあるのなら、見合いをすることに祖父母が難色を示すわけがない。しかし、婿に入ることを知ったから得心したと井川は確かに話していた。それと引き換えに堺家は、政治の世界との繋がりを得られるのだと彼から聞かされている。いずれにせよ、祖父母にとって大事なことは、たった一つ。跡取りとなる男児を自分が産むことだけだ。それを叶えられる相手なら、誰でもいいのだろう。  そう思ったとき、亜紀の心に諦めが広がった。しかし、それを気取られぬよう、亜紀は笑みを浮かべながら、祖父母を眺めていたのだった。  祖父母に結納の報告をしたあと、亜紀は病院へ向かった。  そして午後から外来の診察を行い、それが終わったあと、中庭で一息ついていた。  ベンチに腰かけ何げなく辺りを見ると、赤いツツジが萎れかけていた。それを見たとき、見合いのときのことが頭に浮かび、亜紀はつい顔をしかめさせた。それは、見合いの日のことを思い出してしまったからだった。  あれからもう一か月以上経っているのに、相手からの連絡はないままだった。お互い割り切った上での結婚なのだし、これはこれで楽だとは思う。しかし、結納まで一か月を切ったせいなのか、これでいいのかと考えることが増えてきた。  見頃を過ぎたツツジを眺めながら、夫となる男のことを考えていると、自分以外の気配がして、そちらに目をやると父親が立っていた。  白衣姿ということは、忙しい合間に診察を行っていたのだろう。しかも両手には紙コップを持っている。その姿を見たとき、嫌な予感がした。 「隣、いいかい?」  父親から遠慮がちに尋ねられ、娘はただ頷いた。すると父親は、娘の隣に腰かけたあと、持っていた紙コップの一つを差し出した。 「今日、理事長のところへ行ったのか」  父親は祖父を理事長と呼んでいる。それがなんとなく、距離を置いているように思えてならなかった。温かい紙コップからは、甘いココアの香りがした。それを受け取りながら、亜紀は作り笑いを浮かべる。 「ええ。ずっと北海道へ行っていらしたから、事後報告になってしまったけれど」 「そうか。喜んでいただろうな。やっとお前が結婚を決めたのだから」  正確に言えば、違う。それまで結婚しようとしなかった孫娘が結婚を決めたからではなく、それに伴って跡取りとなる男児を設けることを決めたからだろう。それを知らないはずはないのにと亜紀は苦笑する。すると、突然父親から切り出された。 「聡子(さとこ)から聞いたんだが、その後和明くんから連絡が来ていないというのは本当なのか?」 「きっと忙しくしているのでしょう。無沙汰は無事の便りっていうし」 「まあ、そうだが。それにしても全くないというのはどうかと……」 「いいんじゃない? むしろそちらの方が気が楽だわ。煩わしいことに頭を悩ませずにいられるし」 「しかし……」  困惑顔で身を乗り出してきた父親を、亜紀は軽くにらみ付けた。 「父さんだって、煩わしいことを考えたくないから、週末になるとどこかへ出掛けているのでしょう? それと同じよ」  亜紀が強い口調で答えると、父親は急に黙り込んだ。今更それを訴えたところで仕方がないことなのに、そうしてしまったのは連絡をよこさない男へのいら立ちからだった。つまりは八つ当たりである。そのことに気付いてしまい、亜紀は居心地の悪さを感じた。父親との間に重苦しい空気が漂い始め、亜紀はいたたまれずベンチから立ち上がった。 「……そろそろ産科に戻るわ」 「亜紀」  引き留めるように名を呼ばれ振り返ると、真面目な顔を向けられていた。 「前々から感じていたんだが、お前は父や母から聞いた話を鵜呑みにしているように感じる。何を言われてきたかおおよその見当はつくが、それは本当のことでは―――― 「本当のことなのかどうかくらい、私だって分かっているつもりよ。だけど父さんのことに関しては、そう見えるんだもの。仕方がないことだと思わない?」  亜紀は父親から顔をそらし言い放つ。背後から視線を感じてはいたが、それを振り切るように歩き始めた。 「じゃ、戻るわね」  亜紀はそう言うと、そのまままっすぐ歩き出した。父親が思い詰めた顔で娘の背中を見つめていることなど、気にすることもないままに。
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