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第7話 二章 1

「亜紀先生、御婚約おめでとうございます!」  午前の診察を終えて詰め所に戻ったとき、亜紀は同僚の医師から声をかけられた。その医師・末次 理(すえつぐ さとし)は、亜紀のひとつ年上で同じ産科の医師だ。人懐っこい笑顔と優しい言葉遣いで人気のある医師で、ここ数年の間に補充された医師の一人だった。  亜紀は末次の柔和な顔を見上げ、しばし思案した。それというのも、経った今彼が口にした話は、まだ身内以外知るはずもないことで、それなのにどうして知っているのか気になったからだった。亜紀がじっと見つめているからだろう。何かを察したのか、末次はバツが悪そうな顔をした。 「……あっと、もしかしてまだおおっぴらにできない話だった?」  あたりを見回したあと、末次は申し訳なさそうな顔を向けてきた。 「末次先生。その話はどこから?」  亜紀が怪訝な顔で尋ねると、末次は苦笑した。それを見たとき、ピンと来たものがあり、亜紀は呆れた顔をする。 「……母さんね。大方事務局長と世間話でもしていたのを、たまたま聞いてしまったってところかしら」 「当たり。さっき食堂でメシ食べてたとき病院長の奥様と事務局長が話していて、それを聞いちゃってね……」 「ということは、もう広まっているわね。その話」 「まあ、否定はしないな。あのとき、俺以外にも近くに何人かいたし。それに、おしゃべりさんもいたから、時間の問題だね」  末次から話を聞かされ、亜紀はうんざりした顔をした。母親は時折病院へやって来る。それは父親に着替えを渡す為だった。そのとき、父親のもとに案内するのは事務局長を務めている井川(いがわ)だ。一見すれば人の良さそうな年配の男だが、ワンマンな祖父の腰巾着(こしぎんちゃく)と影で噂されている男でもある。  幾ら見合いが首尾良く終わったからといって、そのような男に話すだろうか。ふとそんな疑念が浮かんだけれど、ずっと見合いを断り続けていた娘がようやく相手を決めたのだ。よほど嬉しくて、つい話してしまうこともあるだろう。  末次の話を聞けば、話はすぐに病院内に広まってしまう気がした。外堀をどんどん埋められているような窮屈さを感じ、亜紀は長いため息を吐く。 「その様子だと、余り気が進まない話のようだね」  亜紀はその問いかけに言葉ではなく、苦笑いで返した。 「もともと結婚なんか興味はないもの」  跡継ぎとなる子供を産むための結婚など、興味を持てるわけがない。しかし、それを言葉にすることもできず、亜紀はそれ以上言わなかった。 「まあ、亜紀先生の場合は、求められているものが多いから、そういう気持ちになると思う。でも、出会い方はどうあれ、一緒に生活していくうちに、相手に対して情のようなものが湧いてくるかもしれないよ」 「さあ、どうかしら」  亜紀は曖昧な返事をしながら、両親の姿を思い起こした。二人の間には、末次が話したような情など感じられない。むしろ、赤の他人の方がまだマシな気さえする。  そしてそう遠くない未来、両親のような夫婦になることは目に見えている。やり切れない気持ちはあれど、物心ついたときから染みついた諦めが、その感情を飲み込んでいった。 「ところで話は変わるが、今まで見合いを断り続けてきたのに、その相手に決めたのは何かしら感じるものでもあったんじゃないのか?」  曖昧な返事から何かを察したのか、急に話を変えられた上に尋ねられた。亜紀は口を閉ざし、昨日の出来事を振り返る。  末次が言うとおり、相手に何かを感じたわけではない。連れ出された上に懐柔されたようなものだ。  しかも腹立たしいのは、それらすべてが周到に用意された計画だったということだ。知らぬは自分一人だけ、そのことに気付いたとき、諦めが心を覆い尽くした。  一連の出来事を同僚である末次には話せないし、話すつもりもない。これが己が背負ったものなのだと、亜紀は自分自身に言い聞かせた。 「感じたもの、ねえ……」 「ああ。俺は感じた。嫁さんと初めて会ったとき。いずれこの人と結婚するって」  少年のように頬を赤らめて、末次は嬉しそうに話した。 「そんなロマンチックな話って、本当にあるのかしら。それにそれって、要は一目ぼれじゃない」 「さあ。でも、俺は確かにそう感じたんだよ。それに、嫁さんも感じたんだって」  それは、妻が夫の話に合わせているだけだ。しかし、身も蓋もない言葉で末次を傷つけたくない。亜紀は末次に微苦笑を向けた。 「あなたにはそういう相手がいたから良いじゃない。羨ましいわ」 「たとえ運命的ともいえる出会いをしても、最初から全てうまくいったわけじゃない。ケンカもしたし、別れようと思ったことも一度や二度じゃない。結婚したってそれは同じで、ぶつかり合って最終的に馴染んでくるんじゃないかと最近は思ってる」 「それって諦めも入ってるんじゃない? 所詮は赤の他人だもの。すべてわかり合えることなんかないと思うし」 「いや、でも、うーん。やっぱりね、彼女には俺という人間を分かってほしい、かな。勿論、俺も彼女という人間を知りたいから、時間をかけようと思えるのかも。言葉は悪いがただの友人とかなら、何かあったら離れればいい。そうすればぶつかることもなく付き合っていけるから。それができない相手だから、やっぱり嫁さんは運命の相手なんだなと思ってる」  惚気(のろけ)ともとれる話を聞かされて、亜紀はかつての恋人とのことを振り返った。四年前まで付き合っていた恋人とは、目に見えた衝突はなかったような気がする。しかし、だからといって両親のような冷めた関係ではなかった。  大学時代に知り合った相手だった。友人としての付き合いが長かったから、衝突しながら距離を縮める必要がなかったのだろう。それに、彼はとても優しい人だから、衝突を避けていたのかもしれないし、亜紀自身もそうならないようにしていた。  恋人としての付き合いが長くなればなるほど、自分の人生に彼を関わらせていいものか悩んだ。それは、もしかしたら彼も同じだったのではないか。だから連絡をお互い取らないまま、自然消滅させることを選んだような気がする。  もしも、彼が強い意志を持ち、自分への愛情だけで自分の人生に飛び込んできたなら、どうなっていただろう。亜紀はその先を考えようとしたけれど、思い浮かばなかった。するとそのとき、午後の診療開始を告げるベルの音が耳に入り、亜紀は現実に引き戻された。 「昨日出会った相手が、亜紀先生にとってそういう相手だったらいいなって俺は思うよ。  おっと、長話しすぎたな」 「午後からの診察の時間ね。私は婦人科の方に行ってきます」 「了解。じゃ、またあとで」  末次は、そう言って産科の診察棟へ向かったのだった。  上条病院は、産科と婦人科が分かれており、棟も離れていた。  産科がある東棟から婦人科のある西棟へ向かうには、棟を繋ぐ渡り廊下を通ることになる。渡り廊下に面した中庭には、四季折々の草花が植えられていて、入院している患者たちの心を和らげていた。  亜紀は婦人科へ向かう途中、窓から差し込む陽の光に誘われるように中庭へと目を向けた。すると、中庭の端に白衣姿の父親が立っていた。白衣姿ということは、午前中に診察を行っていたのだろう。病院長の仕事の合間に、父親が外来患者の診療を行っていることを亜紀は知っている。二階の窓から父親の姿を眺めていると、辺りを気にしながらどこかに電話をし始めた。  電話の相手として真っ先に浮かんだのは、顔も知らぬ愛人だ。この週末、共に過ごした相手に違いない。なんとなくだが、亜紀はそう感じた。  それと同時に、あの男と両親のような夫婦になることを痛感させられた。しかし、何の感情も抱いていない相手なら、重い荷物を背負わせることを躊躇わずに済む。そう考えると、これはこれで良かったのではないかと思い始めた。  二人の間に愛情がなくとも、子を成す行為はできる。そして後継となる男児を産んだあとは、何をしようが自由だ。それこそが自分と自分の婿に求められていることなのに、考えると気分が滅入ってくる。気を取り直そうとして、亜紀は中庭へ目をやった。しかし、庭にいたはずの父親の姿はそこになく、庭の真ん中にあるカエデの木の枝が風に揺れていた。  末次が教えてくれたとおり、病院内に婚約の話が広まるまでそう時間はかからなかった。廊下を歩いていると看護師や同僚の医師から声を掛けられ、祝いの言葉を述べられる。  彼らから述べられる祝いの言葉に、亜紀は作ったような笑顔で返すだけに留めていた。そして、彼らが立ち去った後、小さなため息をつく。  確かに喜び事であることに変わりはない。しかし、亜紀自身が望んだ婚約ではないのだから、心から喜べるわけがない。祝いの言葉を掛けられるたび、それをいやというほど思い知らされて、心が重く沈んでいく。そんな毎日を過ごしているうちに、気付けば見合いの日から一か月が経とうとしていた。  その間、上条家には堺家からの贈り物が続々と届いていた。主に花束が届けられているのだが、その日は違っていた。  勤務を終えて自宅に戻ると、出迎えた母親に和室へと連れ込まれた。ふだんは応接間として用いられている和室の襖(ふすま)を開けてみたところ、部屋には見たことがない着物が飾られていた。しかも着物だけでなく、帯や帯留めまで漆の箱に納められている。 「先ほど、和明さんからから届いたのよ」  そういえば夫となる男の名前は和明だった。それを思い出しながら、亜紀は衣紋掛けに掛けられている水色の着物に近づいた。落ち着いた水色に、季節の花々が描かれている。漆塗りの箱の中を覗いてみると、サファイアの帯留めに目が留まった。 「この帯留めも見事だけど、この加賀友禅の振り袖には叶わないわ」 「加賀友禅?」 「そうよ。しかも一点もの。そして帯も見事なの。ほらごらんなさい、亜紀」  亜紀の目の前で、母親は漆の箱に納めらている帯を手に取った。黒い地色に銀のツタ模様が入っている。それに帯留めの紐を重ねて差し出されたが、見る気になれなかった。  夫となる男は、見合い翌日にシンガポールへ戻ったと聞いている。たった二日で、これらすべてを選んで揃えたとは考えにくい。  大方、彼の実家である堺家が用意したのだろう。一か月後に迫った結納用に。  そう思うと、母親のようにはしゃぎながら見る気になれなかったのだ。  せめて日本を発った後であっても、メールや電話があれば、彼なりにこの結婚を前向きに考えていることを感じることもできよう。だが、この一か月の間、そのようなものなど一切なかった。  所詮は政略結婚。家同士が得る利益の為の結婚だ。上条家は跡取り、堺家は政治の世界に打って出るための。そこに当事者の利は存在しない。それを頭では分かっていても、どこか釈然としなかった。  そういう結婚であっても、婚約期間の間に互いを知ろうとして連絡を取り合うものではないか。それなのに、それらがないばかりか相手の名前で贈られる品々の向こうにその相手の姿が全く見えない。亜紀は贈られる品々を目にするたびに、そんなことを考えるようになっていたのだった。
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