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第6話 一章 5

 意識が少しずつ浮上して、全ての感覚が目覚め始めた。  ゆっくりとまぶたを開くと、薄暗がりが広がっている。  朦朧とする意識のまま、亜紀は体に残っている熱を吐き出すように息をつく。ぼんやりとしながら視線をさまよわせると、最初に目に飛び込んできたのは小さな光だった。その小さな光たちを眺めていると、かすかに点滅を繰り返していて蛍の光を思わせる。  それに懐かしさを感じた。だがその懐かしさを伴う過去の記憶が、はっきりと頭に浮かんでこない。恐らくかなり幼い頃だろう。いつ、どこで同じような光景を眺めたのか思い出せないまま、ぼんやりとその光を眺めていると、遠いところに来てしまったような気にさせられた。  物心ついたときから、祖父母から厳しい言葉ばかり聞かせられ続けたものだった。それらは皆、自分のためだと繰り返す祖父母を恨んだことはない。だが、その言葉をひとつひとつ思い返せば、どうしても受け入れられない言葉ばかりだ。  お前が男に生まれていれば。お前が女に生まれなければ。  すべてが問題なく進んだのに。  厳しい言葉の最後に必ず出てくる言葉は決まっていた。その言葉を耳にするたび、亜紀は男に生まれなかったことを悔やんだものだった。自分さえ男に生まれていれば、誰も悲しまずに済んだのにと。  女に生まれたことをとがめられ続け、大人になればなったで今度は婿という名の種馬をあてがわれ、早く跡継ぎをもうけろと言う。それが跡継ぎとしての役目と言わんばかりに。  仮に男に生まれても、跡継ぎとして求められることを突き詰めれば、結局男に生まれようが女に生まれようが同じことのように思えて仕方がない。なのに、いまだに男にこだわり続ける祖父の姿が愚かしいものに見える。  こうして互いの間に愛情もないままに抱かれ、子供をもうけることが跡継ぎとしての役目なら、それこそ割り切って男からの提案を受けた方がいいのかもしれない。そうすれば煩わしいことに頭を悩ませることもなくなるし、それさえ果たせばあとは好きにして構わないと男は話していた。  それが、家同士の利害が絡んだ結婚の実態だ。そこには、当事者の意思などあってないようなものだ。亜紀は自分自身に言い聞かせながら、ため息をこぼす。  目の間に浮かぶ光はかすかに瞬いていて、それに引き寄せられるように亜紀は体をゆっくり起こした。とうに火照りが鎮まった肌に、夜のひんやりとした冷気が触れた。すると、いきなりベッドの中に引き戻されてしまう。 「……っ!」  思わず上げそうになった声は、ひくついた喉の奥に吸い込まれた。強い力で引き寄せたのが、夫となることが決まっている男の腕だということに気づき、亜紀はため息をつく。 「どこに行くつもりだ」  寝起きだからか、男の声は掠れていた。まくれ上がった毛布の中で、しっかりと腰を抱かれている以上、逃げ出したくとも逃げ出せない。 「離して……」 「だから、それはできないっていっただろう?」  頭では分かっていたが言わずにおけなかった。男の腕をなんとか解いて離れようとするのだが、全く解ける気がしない。しかも背中に顔を押し当てられているのか、男が話すたびに唇が動く感触と呼気が伝わってくる、ようやく鎮まったはずの情事の余韻が、再び蘇りそうになる。亜紀はそれから気を逸らし、これ以上引き込まれないように肘をついた。 「もう、用事は済んだはずだわ。離してちょうだい」 「嫌だ。今朝帰国してそのまま見合いしたから寝てないんだ。もう少し寝かせてくれ」 「……シャワーを浴びて帰りたいのよ。両親だって心配しているはずだわ」 「ああ、それなら問題ない」 「え?」 「上条家には連絡済みだ。明日の朝送り届けると話したら、それで了承してもらっている」  男の話を聞き終えたあと、亜紀は絶句する。 「……いつの間にそんな連絡したのよ」 「お前が気を失って寝ているときだ。あれだけ何度もイったんだから、だるくて仕方がないはずだ。それこそ休養が必要だろう?」  確かに全身におもだるさを感じているし、できればゆっくり休みたい。だが、このままここにいたってゆっくり休めるわけがない。 「あなたと一緒にいたって休養なんかできるわけないでしょう?」 「そうか? 疲れたときほど人肌の温さが心地よく感じるし、それが一番の特効薬だと思うが」  甘えるように背中に顔をすりよせられて、それから逃れようと亜紀は体を捩らせる。男の言葉の中に引っ掛かるものがあり、亜紀は表情を曇らせた。  恐らく男には、疲れを癒してくれる存在がいるのだろう。まるで母親のように全てを受け入れる存在が。それなのに、自分にもそれを求めようとしていることが信じられなかった。 「なら、それを与えてくれる女性の方へ行ったら? あなたを癒すためにここにいたくないの」 「……そんな女などいない」 「嘘よ。そう言いながら、男は平気な顔で嘘をつく生き物だってくらいよくわかってるわ……」  そう言いながら、亜紀は両親の姿を思い浮かべた。他人前では仲のよい夫婦を演じながら、その裏では母親以外の女のところへ向かう父親。そして、そんな父親を無表情で見送る母親。こんな両親の姿は、正直言えば見たくない。だが、それが亜紀が知る両親の姿だ。  両親のことを思い浮かべると、決まって虚しくなってくる。それをやり過ごそうとしたとき、体を抱いている男の腕の力が強まった。背後から男のため息が聞こえてくる。 「正確に言えば、この見合いの話が来てからは一切女に触れていない。それにもう夜中だ。そんな夜中に戻られても、それを出迎える人間からすれば迷惑だと思うが。わかったなら寝るぞ」  亜紀は言い返そうとしたけれど、言いたいことを言ったあと男はすぐに寝息を立て始めた。むき出しになったままだった肌は、もうすっかり冷え切っている。亜紀はぶるりと体を震わせた。 「暖めてやるから、来い……」  寝言のような声だった。逆らいたいところだけれど、背に腹は代えられない。亜紀はつかんでいた上掛けを手繰り寄せ、その中に体を滑り込ませた。すると、すぐに男の腕が体に回り、引き寄せられる。背中に男の体温と寝息を感じながら、亜紀はいつの間にか眠っていた。 「よかったわね、亜紀」  午後の日差しが降り注ぐリビングでは、母親と娘が向かい合っている。  亜紀はティーカップを持った手を宙に止めたまま、向かいの席に腰掛ける母親へと目を向けた。母親は機嫌よくほほ笑んでいる。亜紀はわざとうんざりとした顔を向けた。  あれはただの見合いだったはずなのに、蓋を開けてみれば婿になる男との顔合わせ。その上、その相手と婚前交渉を持ち、ようやく帰宅したのは昼前のこと。  ふだん通りに振る舞う母親の姿をみれば、昨日からの一連の出来事は予(あらかじ)め予定されていたと思われる。亜紀は母親の顔をまじまじと見ながら、これ見よがしにため息をつく。 「だましたのね。ただの見合いだから、気に入らなければ断ってもいいと言ったのは母さんたちじゃない」 「そうでもしなければ、あなたはずっと独りよ、亜紀」 「私は結婚したくないの。何度言えば分かるのよ」 「それは困ったわね。あなたはこの家の跡取りなのよ」  苦笑しながら向けられた瞳が暗に物語っている。この家の跡取りとして求められるものを。それは跡取りを産むことだ。それが分かっているだけに、亜紀はうんざりとした顔をする。 「それにお互いの家の利害が一致する結婚なんて、なかなかないのよ。必ずどちらかが貧乏くじを引くことになるんだから……」  コーヒーが注がれた華奢なカップを手にしながら、母親が寂しげな笑みを浮かべる。その姿を見たとき、父親との結婚のことだと亜紀は察した。  母親の実家はとても裕福な家なのだが、亜紀の伯父に当たる男が事業に失敗したことで経済的に困窮するようになった。それをどこからか聞きつけた上条家が、借財を肩代わりするかわりに亜紀の父親と結婚するよう取り引きを持ち掛けた。  二人が結婚したあと、母親の実家はどうにか持ち直したらしいが、その後どうなったかは聞かされていない。そういえば母親の親戚との付き合いがほとんどないことを、亜紀は思い出した。  嫁いだからといって、実家との繋がりはすぐに切れるものではない。しかし、母親はただの一度も実家の話をしたことがなかった。それに不思議を感じたけれどが、母親が父親の元に嫁いだ理由が理由だ。だから、実家の話をしたくないのではないかと亜紀は思っていた。 「母さんのことかしら、それって」 「え?」 「母さんの話を聞くと、まるで母さんの実家が貧乏くじを引いたように聞こえるんだけど」  亜紀の問いかけに母親は何も答えなかった。穏やかな笑みを崩さないまま黙り込んでいる。母親が言うところの「貧乏くじ」が何を示しているのか分かるだけに、亜紀はそれ以上聞かなかった。  傍から見れば大病院の跡取り息子との結婚は、幸せなものに見えるだろう。だけど、その実情は決して幸せなものではない。母親が妊娠したら、己の役目は終わったとばかりに愛人の元へ通うようになった父親。そして生まれた子供が女児であったばかりに、祖父母から言われのない仕打ちを受け続けている母親。それが現実だ。そのとき亜紀は、父親の姿がないことに気付く。 「そういえば父さんは?」  すると、急に母親の表情が曇った。視線を落としティーカップをいじりながら、寂しげな笑みを浮かべている。 「……月曜には戻ると聞いているわ」  亜紀は、瞼を閉じた。妻としてのプライドからなのか、それ以上何も言おうとしない母親の姿を見ていられなくなったからだった。つまり父親はいつものように愛人のもとへ向かったらしい。恐らく見合いの直後向かったのだろう。亜紀はため息をこぼす。 「それでどうするの?」 「え?」 「あちらには、どうお返事すればいいかしら」  唐突に尋ねられ、何のことか亜紀はすぐに分からなかった。しかしすぐに気づく。既に決まっていることを、敢えて問う母親の真意など分かり切っている。つまりは現実を受け入れろと言うことなのだ。諦めが亜紀の心の中に広がっていく。  家の為に結婚し、後継ぎを産んだあとも家に縛られる。だが唯一の救いは和明との結婚には最初から愛が存在しないということだ。それに結婚したとしても愛など二人には必要ない。二人の間には、家同士の利益のための『信頼』だけがあればいいのだから。  それに跡取りを産んだなら、あとは好きに生きられる。昨夜男から聞かされた契約結婚の話を思い出し、亜紀はひどく平坦な声で返した。 「このお話をお受けします」  亜紀がそう告げると、母親は穏やかな笑みを浮かべ娘を眺めていた。  母親としばらく世間話をしたあと、亜紀は自室へと向かった。  部屋の扉を開き部屋へ入ると、着ていたものをすぐさま脱ぎ捨てた。そして部屋着に着替えると、それまで身に着けていたものへと視線を落とす。それらは皆、男が用意したものだった。  洋服もランジェリーも、靴までぴったりのサイズだった。恐らく事前に母親から聞いて用意していたのだろう。亜紀は憂鬱そうにため息を零したあと、チェストの上にある古い宝石箱へと視線を向ける。  寄せ木細工が美しいその宝石箱は、今は亡き曾祖母が大切に使っていたものだった。そしてその中には、たった一つだけしかしまわれていない。亜紀はその引き出しの中から、青い石が嵌められた指輪を抜き取った。亜紀は自嘲気味な笑みを浮かべながら指輪を眺め始める。 「子供のころの約束なんて、とっくに忘れているわよね。馬鹿みたい」  幼い頃、しかも小学校に入学する前に交わした約束は、今振り返るとまるでままごとのようなものだった。それに両親の姿を見ているうちに、結婚や夫婦というものに対し諦めを感じるようになっていた。  だけど、心のどこかで期待していたのだろう。あの青年が約束を果たしに来ることを。  しかし、彼は現れなかった。  あの男と結婚することは、もう決まったようなものだ。この指輪は早々に処分した方がいい。幾ら愛なき結婚であっても、いらぬ波風の原因となりかねないものを側に置くつもりはない。  結婚を機に指輪を処分することで、心を決められる気がした。幼いころの約束を信じていた自分に別れをつげて、上条の跡継ぎとして生きることを。亜紀はその指輪を袋の中にしまいこみ、引き出しの中に入れた後、沈んだ表情でため息をついた。
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