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第2話 一章 1

「亜紀、支度はできた?」  部屋の外から母親の声がして、亜紀は湿っぽいため息をつく。  母親の呼びかけに返事をする気にもなれず、鏡台の椅子に腰かけたまま黙り込む。そうしていると、パタパタと忙しない足音が部屋の外から聞こえてきた。いつまで経っても返事がないから、母親がやって来たらしい。憂鬱そうに顔を上げると、鏡に自分自身の姿が映っていた。  いつもは後ろに束ねているだけの長い髪は、毛先だけ緩く巻かれている。それに、しっかりメイクを施されたせいで、いつもより女っぽくなっていた。  涼しげな目元にはスモークピンクのシャドウ。薄い唇に塗られたリップはサンゴ色。その上にグロスを塗られているものだから、濡れたような艶を放っている。それを見るなり、亜紀はまたため息をつく。  これまで何度も見合いをさせられ続けてきたけれど、今回はかなり本気のようだった。何せこの日の為だけに、美容師をわざわざ手配したくらいだ。両親の本気の度合いが良く分かる。鏡に映る別人のような姿を、無表情のまま眺めていると、扉が開いた音がした。 「亜紀?」  声がした方へ顔を向けると、着物姿の母親が部屋に入ってきた。 「支度が終わっているのなら、降りてくればいいのに……」  母親が、娘の側に近づいた。そして、美しく装った娘の姿を見て、感嘆のため息を漏らす。 「きれいよ、亜紀」  母親に褒められたけれど、亜紀は返事もせずに黙り込んだ。口を閉ざしてしまった娘を前にして、何か思うものでもあるのだろう。母親はそれ以上何も言おうとしなかった。  ずっと、このままでいられるわけではない。幾ら気が進まぬ見合いであっても、行かないわけにはいかないのだ。そしていつものように断ればよい。亜紀はそう自分自身に言い聞かせ、のろのろと椅子から立ち上がる。母親がこの日のために用意したワンピースの裾が揺れて、足にまとわりついた。 「そのベージュのワンピース似合っているわ。それなら女性らしく見えるわ」 「女性らしくって……。一応女よ、私」  嫌みったらしく言ってみるが、母親はいたって平然としている。 「そうね。今日だけは女らしくしていてもらえると嬉しいわ」 「今日だけって……」  憎まれ口で返してしまうのは、女であることを改めて言い含められているようだったからだ。子供の頃は女に生まれたことを責められて、大人になると今度は婿をとって後継ぎを産むことを求められる。そんな家に生まれてしまったことを今更悔やんでも仕方がないのだが、そう思わずにいられない。亜紀は、鏡台に置いていた小さなバッグに手を伸ばす。そして母親と目を合わせないようにして、部屋を出ようと歩き出した。  そのとき、母親から向けられる視線に気付いた。頭のてっぺんから足のつま先まで、まるで品定めでもしているような視線だった。亜紀はその視線のせいで居心地が悪くなり、母親の前を足早に通り過ぎようとした。 「亜紀、わかっていると思うけれど……」  背後から不安げな声がした。亜紀は募る一方のいら立ちを抑え込み、振り返る。母親から心配そうな表情を向けられていた。その表情が何を意味しているのか分かっているだけに、亜紀はすっと視線をそらした。 「わかっているわよ……」  亜紀が不満を吐き出すように返事をすると、母親はほっとしたような笑みを浮かべた。それをちらりと見たあと、亜紀は何も考えないようにして階段を下りる。玄関に用意されていたベージュのヒールをはいて外に出ると、黒塗りの車が待ち構えていた。  亜紀が車の後部座席に乗ると、それに続いて母親が隣に乗り込んだ。そして最後に父親が助手席に乗ったあと、ゆっくりと車は走りした。これから何度目かの見合いが行われる場所へ向かうことになっている。亜紀は窓の外で流れる景色を眺めながら、物憂げな表情でため息をついた。  上条家は、由緒正しい名家だ。  歴史をさかのぼれば、江戸時代から始まっている。  とある藩お抱えの医師だった先祖が、忠義を称えられ姓を賜ったことが上条家の始まりだと言われている。徳川家が政を天皇家へ返上したあとは、明治政府の要職についた政治家たちと繋がりを持ち、家を存続させていた。そして、努力の甲斐あって上条病院を中心に地域医療の拠点となっている。  亜紀は上条家の一人娘だ。ゆくゆくは、上条家を継ぐことになっているが、なるべく早く結婚し、跡継ぎとなる男児を産むことが求められていた。  三十二歳、大病院の跡取り娘。その上、彼女自身が現役の産科医だ。幾分年を重ねているけれど、体つきは全く崩れておらずほっそりとしている。それに、化粧をすればそれなりに美しい。そんな彼女の婿になりたがる男は結構多い。  その大半は、医者の家系に生まれた次男坊。更に付け加えれば、優秀な医師であり見た目も優れている男ばかり。それなのに、亜紀は見合いをずっと断り続けている。  彼女が見合いを断り続けている理由、それは恋人がいるからではない。単に結婚したくないからだった。しかし、彼女の両親や祖父母は、次々と見合い話を持ってくる。そして亜紀は断る理由を見つけ出しては、断り続けていた。  相手がどんな男だろうが、結局は種馬。婿に入り後継ぎをもうけるための存在にすぎない。だから婿となる男にそれ以外求めることはないが、だからといっておとなしく結婚する気にはなれなかった。亜紀は、隣に座る母親と助手席にいる父親の姿を見た。両親こそが、結婚というものに対して、前向きな気持ちになれない理由である。  上条病院の院長を務めている父親は、若かりし頃は随分と派手に浮き名を流した男だった。今も当時をしのばせる整った顔をしている。年を重ねているものの、それすら落ち着いた雰囲気を醸し出していて、今でも看護師たちから熱い視線を送られていると聞いている。父親の漁色ぶりにあきれ果てた祖母は、無理やりに近い形で母親・聡子と結婚させたのだった。  上条家に嫁いだ母親に求められたのは、今の亜紀と同じく後継ぎとなる男児を産むことだった。だが、産み落とした子供は女児だった。男児を待ち望んでいた祖父母からすれば、期待はずれもいいところだっただろう。  そして亜紀を生んだ後、母親は病に伏せってしまい、子供を産むことが難しくなった。それゆえ、上条家の中での聡子の立場は弱い。その後何かにつけて、祖父母から嫌みを言われ続けていた。  それなのに、父親はそれをどうにかしようともしなかった。そればかりか、そういったものを煩わしく感じているのか、見て見ぬふりを決め込んでいるし、母親も助けを求めようともしない。  そのような姿を幼い頃から見続けた結果、亜紀は自然と結婚に対し消極的な考えを持つようになっていた。その他にも彼女が結婚をしたがらない理由はあるのだが、彼女の両親の姿こそ最大の理由と言えよう。  病院の理事長である祖父は、かつての権勢を取り戻すことに執着しているし、祖母だって母親が男児を産めなかったことをいまだに責めている。そして触らぬ神に祟りなしという姿勢を貫く父親と、それらにずっと耐え続けている母親の姿は、到底家族と呼べるものではない。  それを反面教師にして婿となる男と幸せな夫婦になるよう努力することもできるが、亜紀は医師としての仕事を全うしたいと思うようになっていた。仕事はやった分だけ実績として確実に残るが、結婚はそうはいかない。努力したからと言って必ずしも報われるわけではない。そんな未確定なもののために時間と手間を惜しむより、仕事に勤しんだ方が建設的だ。それに今までの見合い相手の中にだって、努力したいと思わせられる相手はいなかった。  だがそろそろ限界だ。両親は今回の見合いにかなり力を入れているようだし、求められている役割を果たすだけだと思えば諦めも付く。 『いつか必ずあなたを迎えに来ますから、それまでこれを預かっていてください』  幼い頃に告げられた言葉が脳裏をよぎる。もう、あれから二十年以上の時間が過ぎているし、その言葉とともに指輪をくれた青年の姿は、ぼんやりとしか思い出せなくなっていた。  所詮、子供のころに交わした約束だ。大人になるに従って、そう思うようになっていた。しかし、心のどこかでその青年がやって来る日を待ちわびていたのかもしれない。だが、ついにその青年は現れなかった。 (結局、迎えに来なかったじゃない。嘘つき)  亜紀は、そのときの思い出を追い払うように、まぶたを閉じた。 「はじめまして。堺 和明(さかい かずあき)と申します」  向かいの席に座っている男から笑みを向けられ、亜紀も笑みで返した。その男こそ、今回の見合い相手である。  見合いは上条家からそう離れていないレストランの個室で始まった。春の日差しが差し込む部屋では、両親に挟まれた亜紀と、同じように両親に挟まれた見合い相手が座っている。亜紀は笑みこそ浮かべているが、内心では首を傾げていた。いつもなら父親の知り合いが仲介役となっているのに、今回はそれがないからだった。  振り返ってみれば、今回の見合いは今までと違っていた。いつもなら、娘がうんざりしてしまうほど写真とプロフィールを見るようしつこく勧めてくるのに、今回に限って母親は何もしようとしなかった。だから見合いを断る理由を事前に見つけることができなかったのだが、幸いなことに相手の母親が嬉々としながら説明してくれた。  堺家は重工業を営んでいるという。そして長男である和明は、そのあとを継がず、経営コンサルタント業に携わっているということだった。それらを聞いているうちに、亜紀は疑念を抱いた。それは、今までの見合い相手と毛色が全く異なっているからだった。  しかし、その疑念はすぐに消えた。それというのは、医者の家系で婿になれる相手の数は限られているし、娘しかいない医者の家系は上条家だけではない。それに年齢的なこともあり、ついに見合い相手を探し出すことが難しくなったのだろう。だから、いつものような仲介者がいないのだ。亜紀はそう結論づけたあと、見合いを断る理由を探すため、向かいに座る相手に目を向けた。  少し長めの髪は後ろに撫でつけられていて、わずかに残っていた前髪が秀でた額にかかっている。一見すれば冷たさを感じさせる涼しげな目から覗く瞳は、穏やかな秋の日差しを思わせた。鼻筋も通っていて、笑みを浮かべている唇は少しだけ厚みがある。健康的に日焼けしている肌は、落ち着いた男の色香を放っていた。  身に着けているスーツは、仕立てが良いものだった。しっかりとした厚みのある体は、男らしさ感じさせるには十分で、ツイードのスーツがよく似合う。それにいい声だ。いつまでも聞いていたいほど。低く落ち着いた男の声は、耳障りがいい。  余裕を感じさせるような物腰には、全く嫌みがない。ともすればそういったものは、ただの嫌らしさになって不快感を抱かせるものだが、目の前にいる男からはそう言ったものが感じられなかった。  ただ、気になるところはある。隙のようなものがなく、抜け目のなさを感じさせた。亜紀はぶしつけにならぬよう、細心の注意を払いながら注意深く眺めていた。  目の前にいる男が、自分の夫になる。 そして、いずれ生まれてくる子供の父親になる。  見合い相手との未来の姿を想像しようとしたけれど、今ひとつピンとこなかった。それは、幼い頃から両親の姿を見続けてきたせいだろうと亜紀は思う。  しかしよくよく考えてみれば、自分の結婚に必要なものは男女の愛情ではなく信頼だ。それさえあれば、子をなす行為だって難しくないはずだ。事実両親だって互いへの愛情はなくとも、子をなす行為はできたのだし、その結果自分が生まれたのだから。  世間からは恵まれた家庭・幸せな家庭に見えるかもしれないけれど、現実はそうではない。幸せな家庭の象徴である食事の席だって、随分と寂しいものだった。  病院長をしている父親が食卓につくことは、かなり少なかった。運良く親子三人で食事をしても、親子らしい会話はなかったし、そもそも両親が仲よさげにしている姿を見たことがない。それらを思い返しているうちに、いつの間にか目線を下げていたのだろう。それに気づいて、口元に笑みを作り直したあと、亜紀はゆっくりと顔を上げる。  すると、見合い相手と目が合った。亜紀はそのとき、向けられたまなざしが先ほどと変わっていることに気がついた。向けられている目は、懐かしんでいるようなものになっている。それに不思議を感じたが、それと同時に意味もなく深いところで感情が揺れ動く。亜紀は息をすることも忘れ、見合い相手と目を合わせていた。 「亜紀、和明さん。お二人でお話でもしてきたら?」  急に母親の声が耳に入ってきて、亜紀は現実に引き戻された。隣にいる母親へ目をやれば、笑みを向けられていた。いつもなら、はっきりと断るところだが、向けられている笑みから無言の圧力を感じてしまいできなかった。  椅子に腰かけたままじっとしていると、人が近付く気配がした。そちらを見ると、見合い相手がすぐ側にまで近づいていた。その姿を目で追いかけていると、目の前にすっと手を差し伸べられた。 「お言葉に甘えて、中庭に行きましょうか。ツツジがちょうど見ごろだと聞いています」  差し出された手は、大きかった。男の手と言えば、節々が目立つものや、骨張ったものが思い浮かぶけれど、彼の手は同僚の医師と同じようなきれいな手だった。目の前に立つ男を見上げると、彼は作ったような笑みを浮かべていた。 「ええ、喜んで」  差し出された手に、亜紀が自分の手を重ね立ち上がろうとした、そのときだった。包み込まれるようにやんわりと指先を握られた瞬間、伝う感触や体温に懐かしさを感じた。  懐かしさを感じたとき、とっさに浮かんだものは、懐かしむようなまなざしを向けた見合い相手の姿だった。思いがけなく浮かんだものらがぶつかり合って、夜空に浮かぶ花火のようにたちまちのうちに消え失せる。  花火の残滓のような記憶の欠片を、どうにかかき集めようとしたが無理だった。亜紀は我が身に突然起きた異変を思い出しながら、見合い相手とともに部屋を出て行った。
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