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第1話 離婚三日前 1

 ふいに目が覚めて、亜紀はゆっくり瞼を開いた。  薄暗い寝室には、夫の寝息だけが響いている。規則正しい呼吸音と肌から伝う体温のせいで、再び眠りに落ちてしまいそうになったけれど、亜紀は夫を起こさぬよう細心の注意を払い静かに体を起こした。  情事の余韻が残る体は、まだ重だるい。湿り気を残したままの素肌に、ひんやりとした夜の空気が触れた。夫に目をやると、ぐっすり寝入っているようだった。ルームランプの柔らかな灯りが、その無防備な姿を照らしている。物憂げな表情で夫の寝顔を眺めたあと、亜紀は平べったい腹に手を添えた。  ついに子供を宿せなかったけれど、今思えばそれで良かったのだ。自分達のような夫婦の間に生まれても、子供が不幸になるだけだ。  二年の間に子供ができなければ別れる約束だ。そしてその日まで残り三日となっている。その間様々なことがあったけれど、ようやくこんな生活に別れを告げられる。  あと三日耐えれば、その後は自由だ。その先のことは分からないけれど、今はただ、その日が待ち遠しい。早く楽になりたい。和明の側から離れたい。そうしなければ、あの頃のように思い違いをしてしまいそうで怖かった。  先ほどだってそうだった。幾ら巧みな愛撫をなされようが、そこに愛はない。しかし、心は夫の愛を望んでいる。だから、抱かれるたびに心も体も揺れ動いてしまうのだ。そのときのことを振り返り、亜紀は薄く笑う。  桃の花が咲き始めたばかりとはいえ、夜明け間近の空気は冷たい。夜の空気のせいで肌が冷たくなってきた。それとともに、起き抜けでぼんやりしていた意識がはっきりし始める。亜紀は気を取り直し、ベッドサイドに置いていたナイトドレスとガウンを手に取って、ベッドから立ち上がろうとした、そのとき。  突然腰に硬いものが回されて、身動きできなくなってしまった。亜紀は思わず振り返る。起きたと思った夫は、規則正しい寝息を立てながら眠っている。それを見て、ほっと胸をなで下ろすが、このままでは都合が悪い。亜紀は腰に回された腕をつかみ解こうとしたけれど、しっかりと抱かれているせいでできなかった。いっそのこと、無理やりにでも解いてしまおうか思案するが、それもできなかった。  無意識の行動とはいえ、このようなことをされてしまえば、また喜びを感じてしまう。亜紀は、眠っている夫を恨めしそうに見下ろした。愛してもいないくせにと、亜紀は心の中で毒を吐く。  夫は、妻がそんなことを考えているなど思いもせずに安らかな顔で眠っている。その上、腰をしっかりと抱かれているものだから、亜紀はどんどんつらくなってきた。そうしている間にも、体はどんどん冷えてきて、腰に回された腕の体温がやけに温かく感じ始めた。 『暖めてやるから、来い』  初めて肌を重ねた夜、夫から言われた言葉が脳裏をかすめた。そして、不安を抱きながら抱かれているうちに、安らぎを感じるようになったときのことも。しかし、今はもう、そのような安らぎは感じていない。  所詮は契約結婚。感情など邪魔なだけだ。亜紀はそう自分に言い聞かせ、ベッドから離れることを諦めた。再びベッドの中に戻ると、背後から包み込まれるように抱きしめられた。背中から伝う体温と規則正しい寝息が心地良いものに感じると同時に、苦しいものに感じられた。  あと三日でこんな生活は終わる。離婚すれば、元の生活に戻るだけだ。  亜紀は再び自分に言い聞かせ、瞼を閉じたあと朝を待つことにした。
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