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第72話

 揺蕩((たゆた)う湯気の中にいるような心地よさの中、亜紀は目を覚ました。  薄闇の中見えたのは、少しへこんでいる枕だった。それにシーツも乱れている。亜紀はぼうっとしながら、そっと手を伸ばす。ひんやりとしたシーツの感触が指先に触れた。  ベッドサイドに置かれているライトの光が淡く部屋を照らしている部屋は、夜の訪れとともにしんと静まりかえっていた。そんな中、和明がいたであろう場所を眺めていると、どんどんもの悲しくなってくる。それと同時に心が揺れた。  確かに心を決めたつもりだった。どんなことがあろうとも、和明を信じようと。だが、それはもしかしたら、一時の感情に流されただけなのかもしれない。急に後ろ向きな考えが頭に浮かんできてしまいため息をつくと、部屋に広がる闇のように不安が迫ってきた。  亜紀はベッドに横たわりながら、押し寄せる不安に耐える。  そんなとき、突然ドアが開いた音がして、とっさに枕に顔を埋めようとした。  だが、その前に声を掛けられてしまう。 「起きたか?」  部屋が急に明るくなった。寝ているふりができなくなって、亜紀は上掛けをたぐり寄せ体を起こす。火照りが鎮まった肌にひんやりとした夜の空気が触れた。羽織れるものを探そうとしたら、突然何かを肩に掛けられる。  それは、あの水色のストールだった。ふわりと肩に掛けられた羽織り物を前で重ねると、和明がベッドの端に腰かける。眠っているあいだに、シャワーを浴びたのだろう。シャツとズボンを身に着けた体から、ほのかにボディソープの香りがした。その香りに混じって甘い匂いがする。それに亜紀が気がつくと同時に、目の前に木製のトレイが差し出された。その上にあるガラスのボウルには、剥かれた梨やリンゴが盛り付けられている。果実の匂いに気を取られているうちに、そのひとつを口もとまで運ばれていた。亜紀はおずおずとそれを食べる。リンゴの甘さが口いっぱいに広がって、みずみずしい果汁が喉を潤した。  すると突然、体を引き寄せられたと思ったら、唇を押しつけられた。それだけでなく、濡れた舌が差し込まれ、亜紀は目を大きくさせる。不意打ちのキスはさほど深いものではなく、すぐに唇は離れていった。 「甘いな。初物らしいから、そう甘くないかもしれないと思ったが、よかった」  呟くように話したあと、和明は再び腰を下ろし、梨を食べ始めた。 「さっき、八木橋さんに聞いたんだが、蛍はまだ見れるそうだ。と言っても、数は少なくなったそうだが」 「そうなの?」  亜紀は食べていたリンゴを食べ終わったあと、和明に聞き返した。 「そろそろ夏も終わるからな……」  確かに近頃、日の入りが早くなったような気がする。それに夜になれば涼しい風が吹く。亜紀は、和明の言葉を聞いて、季節の移り変わりに気づかされた。  見合いの席で和明と再会したのは、ツツジの花咲く五月のこと。そして夏の初めに結納を交わし、これから秋を迎えようとしている。これまでのことを振り返ってみると、ひとつ季節を重ねるごとに、和明への思いは深くなっていた。リンゴを食べながら和明に目を向けると、どこか遠くを見つめているようだった。その姿を目にしたとき、亜紀は心もとない気分になってしまい思わず視線を下げてしまう。 「浴衣、大丈夫かな……」 「えっ?」  亜紀は、視線を和明に向けた。 「実は、浴衣を用意させたんだが、今日は涼しいから、体を冷やしてしまうんじゃないかと」  ここへ来た本当の目的を思い出し、亜紀は羽織っていたストールを和明に見せるようにわずかに持ち上げた。 「これがあれば大丈夫だと思うわ」 「そうか。それならいい。まずはシャワーを浴びてこい。着替えたら出かけよう」  和明に頷いて見せると、彼は部屋から出て行った。  浴衣に描かれていたものを見たとき、亜紀は表情をほころばせた。  衣紋掛(えもんが)けに掛けられていた浴衣には、流水と千鳥文様(ちどりもよう)が描かれていた。千鳥が仲良く寄り添う姿はとても愛らしい。ガウン姿でそれを眺めていると、和明が寝室へやって来た。 「取り急ぎ用意したものだが、サイズは合っていると思う」 「そう、ありがとう。ところで、あなたは着替えないの?」  衣紋掛けから水色の浴衣を外しながら尋ねると、何かを思い出したように和明が口を開く。 「取りあえず持ってきたが……」 「じゃあ、着替えたら? 私だけ浴衣は寂しいわ」  すると和明が驚いた顔をした。それを見て、亜紀はつい目をそらす。  さらりと口から飛び出た言葉に動揺しながらも、それを感づかれまいとして、話をそらそうとした。 「と、ところで、あなたの浴衣はどこ?」  ベッドの上に置かれている肌襦袢と裾よけを手に取り、亜紀は問いかけた。そのすぐ側には、麻の八寸帯が置かれている。和明を見ないようにしながら、亜紀はいそいそと着替える準備をし始めた。すると和明の気配が遠ざかっていることに気がつき、亜紀は慌てて呼び止める。 「どこに行くの?」  するとドアに向かっていた和明が、振り返った。 「一階にある和室に、俺の浴衣が置いてあるからそこへ。どうした?」 「う、ううん。なんでも、ない」 「帯、一人じゃ結べないだろう? すぐに着替えてくるから、ここで待っていてくれ」  笑みを向けられ、それに頷きで応えると、和明は寝室から出て行った。
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