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第68話

「それでは亜紀さま、和明さま。これにて失礼いたします」  土曜の昼下がり、柔らかな日差しが窓から差し込むリビングで、別荘の管理人・八木橋(やぎはし)は白髪頭を恭しく下げた。彼は伊豆の別荘の管理をしている。亜紀は挨拶を済ませた八木橋が部屋から出て行くのを見送ったあと、和明へと目を向けた。  和明は庭に面した窓から、外を眺めている。その視線の先にあるのは、恐らく隣接している境家の別宅だ。亜紀は父親から聞かされた話を思い出しながら、窓辺にたたずむ和明を眺め始めた。その背中から、近寄り難いものを感じる。  どのような事情があるのか分からないが、まるで世間の目から逃れるように、和明と彼の母親はそこで暮らしていた。そして、母親が亡くなり、和明は一人になった。たとえ守り役がいようとも、母を失った喪失感は並大抵のものではなかっただろう。それを思ったとき、視線の先にいる和明の姿が痛々しいもののように見えた。それと同時に、和明が遠くにいるような気がして仕方がない。亜紀は知らず知らずのうちに、和明へと近づき、彼の背中に体をすり寄せた。  シャツの布地越しに体温が伝う。顔をすり寄せると、嗅ぎ慣れた匂いがした。確かにここに和明はいるはずなのに、体温も匂いも感じるのに、こうやっていてもやはり遠く感じてしまい、亜紀は苦しげな表情で思わずシャツを握りしめた。 「どうした?」  背中にしがみつくようにしている亜紀に気がついたのか、和明が振り返りながら彼女に問いかけた。だが、亜紀はそれに応えない。胸の裡に潜む不安の影を悟られたくなかったからだった。  伊豆へ来たのは、父親から言われた二人の時間を過ごすことが理由ではない。もちろん蛍を見たいからでもない。和明から過去の話を聞き出し、抱えている謎を解くためだった。  過去に触れるものをできるだけ遠ざけようとしている和明から、全てを聞き出すことは難しいとは思う。だが、父親から聞いた話を切り出せば、どうにかなるのではないかと亜紀は踏んだのである。その為には、出だしを間違えてはならないし、何かきっかけのようなもの、例えば蛍を眺めながら切りだすつもりだった。その前にどのようなことがあったとしても、決して感づかれてはならない。だが、不安は募る。亜紀が何も応えずにいると、それまで背中を向けていた和明が、急に体を反転させた。それだけでなく、彼女を抱き寄せる。するりと背中に回り込んだ手が、緩やかに動き始めた。優しく背中を撫でられて、体から力が抜けていく。 「もしかして、寂しいのか? 俺が週明けからいなくなるから」  いつもであればそのような言葉を掛けられたら言い返すところだが、今はそんな気分じゃない。今はただ、少しでも多く和明を感じていたい。それを暗に示すように、亜紀は和明の胸に顔をすり寄せた。 「そうよ、悪い?」  今の亜紀には、これが精一杯だ。 「……悪くはないが、どうせならもっと可愛く言ってほしいところだな」  からかうような言葉とは裏腹に、きつく抱きしめられた。自然と胸に顔が押しつけられてしまい、より強く体温と匂いを感じてしまう。全身で和明を感じているうちに、心に根付いた不安がゆっくりと溶け出した。  こうして抱き合っていても、ぴったり重なっていないような気がした。それは、二人のあいだに秘密と嘘が存在しているからで、それらがなくならない限り決して重なることはないだろう。それを思うと、途端に心細くなり、和明の体に腕を回していた。亜紀はまぶたを閉じて和明の体を抱きしめる。だが、そうしても不安は消えうせてくれなかった。  午後のまぶしい日差しが差し込む窓辺で、和明と抱き合っているうちに、亜紀はいたたまれない気持ちになっていた。体が勝手に動いてしまい、その結果こうしているのだが、この先どうすればいいか分からないからだった。かつての恋人である嘉納と今と同じように抱き合ったことはあるけれど、そのときとは明らかに思いの深さが違う。抱きしめている男が、ただ愛おしくてたまらない。  昨夜久方ぶりに元恋人と再会したが、和明と再会するまで抱いていた感情はすっかり消えうせていた。嘉納に対して、懐かしさしかないことを自覚したと同時に、和明への思いが深くなっていることを改めて感じさせられた。  だが、それとこれとは話が別だ。亜紀は、感情を素直に出すことができない。その上和明を前にしてしまえば、恋を知り染めたばかりのようになってしまう。ふだんでは考えられないほど大胆な行動をしてしまったことを悔いながら、亜紀は身じろぎひとつできないままじっとしていた。  すると、和明の体から発せられる匂いが変化したことに気がついた。抱きしめている体が熱を帯びている。背中に添えられていた手が、いつの間にか腰へと下りていた。その動きを追いかけると、手はゆっくりとした動きで腰のあたりを撫で始めた。それらに気づいた途端、亜紀の体は一気に熱を帯びる。慌てて体を離そうとしたら、頭上から声がした。 「蛍は日没を待って見に行こう。夕方までまだ時間はあるが、どうする?」  その言葉がどのような意図を持っているのか知らないわけではない。だが、それにどう答えたら良いか分からず、亜紀は返事もできぬままだった。だが、勝手に火照り出す体は、それを待ち望んでいるようで、無意識のうちに頷いていた。 「じゃあ、上に行くか」  そう言うや否や、和明が体を離す。そして、戸惑う亜紀の体を両手に抱き上げて、リビングをあとにした。
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