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第66話

 明け方の冷たい空気が寝室に広がるころ、部屋の外から扉が開く音がした。続いて足音が聞こえたけれど、近づくこともないまま気配とともに遠ざかっていく。浅い眠りの中、亜紀はその音を聞きながらまぶたを開いた。  結局、夫が寝室へ来ることはなかった。一晩掛けて荷物を整理していたから来なかったというよりも、自分を避けているように思えてならない。そう思ったとき、胸が苦しくなってきた。やがて見つめる先にあるものが、ぐにゃりと歪んで見えてきた。温かいものが肌を伝う。ベッドに横たわりながら、亜紀は今までのことを振り返る。  伊豆で、ようやく互いの気持ちを重ね合わせることができたと思った。  しかし、それはただの思い違いにすぎなかった。  それを思い知らされたときのことが頭に浮かんだとき、新しい涙がこみ上げてきた。  亜紀は漏れ出しそうな嗚咽を必死に抑えながら、静かに涙を流し続けた。 「目が赤いぞ。眠れなかったのか?」  そう尋ねられ、亜紀は箸を持つ手を止めた。ダイニングテーブルの向こうにいる和明を見ると、こちらを見ようともせずに食事をとっている。相変わらずのきれいな箸使いに目が向かう。亜紀は、和明の手元を見ながら止めていた手を再び動かした。 「眠れないのは、結婚前からよ。知ってるでしょう?」  ついきつい口調になってしまったのは、向けられた気遣いが苦しかったからだった。和明が部屋を出て行くそのときまで、それに耐えなければならないと思うと、知らず知らずのうちに手が重くなる。同時に食べているものの味を感じられなくなっていた。  食べ物を口に運ぶ。そして噛んで飲み込む。そういった一連の動きがどんどん辛くなってきた。それでもだされたものは、なんとしてでも食べきりたかった。しかし、無理して飲み込むことを続けていくうちに、体がついに悲鳴をあげてしまう。ぐっとせり上がるものをこらえきれず、亜紀は席を立ち上がった。  急いでキッチンへと向かい、シンクに食べたものを吐き出すけれど、まだつかえているものがあるような気がした。精神的に参っているのは分かっている。それで食欲がないことも。だが、だからといって何も口にしないと、今度は体が参ってしまう。それを分かっているから、無理に食べ続けた。しかし、もう限界だ。浅い呼吸を繰り返しながら、限界を痛感していると、温かいものが背中に触れた。 「大丈夫か? 無理して食べようとするな」 「もう、平気だから……」  背中をさする手を払い、亜紀はそこから立ち去ろうとした。できるだけ、和明を見ないようにして。すると、背後から話しかけられた。 「今日は、仕事休め。俺からお義父さんに伝えるから」 「嫌よ!」  亜紀は険しい顔で言い放ちながら、和明を振り返った。だが、掛けた言葉も虚しく、和明はどこかに電話し始めた。掛けた相手は父親に決まっている。それを止めさせようとして、亜紀はつかつかと和明に近づいた。 「やめてよ!」  だが、和明はスマホを耳に当てたまま、平然としている。亜紀はスマホを取り上げようとして手を伸ばす。すると、和明が体の向きを変えた。 「お義父さん。おはようございます。和明です。亜紀が体調を崩したので今日一日休ませます。よろしくお願いします」  淡々と話す和明を、亜紀は半ばぼう然となりながら見つめていた。そこまで言われてしまったら、病院へ行くこともできやしない。悔しげな顔でにらみ付けると、和明はそれに動じもせずにすっと離れていった。
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