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第55話

 午後の回診を終えて詰め所に戻ると、そこには誰もいなかった。いつもなら、必ず誰かがいるというのに、随分と珍しいこともあるものだ。亜紀はがらんとした部屋を見渡したあと、タブレットを机に置いてコーヒーマシンへ近づいた。  熱いコーヒーをプラスチックのカップに注ぎ、剛毅が座っていたソファに腰かける。背もたれに肘を掛け、背後にある窓の向こうへ目をやれば、午後の強い日差しに照らされた病院正面入り口が見えた。  門と建物の間にある通路を窓から見下ろすと、そこを行き交う人々の姿があった。亜紀はそれらをぼんやり眺めながら、淹れたてのコーヒーを口に含む。苦みが口中に広がるとともに、独特の香りが鼻から抜けていった。それと同時に、体からも力が抜けていく。気が緩むと、父親から告げられた言葉が頭に浮かんできた。 『あと半年待ってくれないか?』  その半年のあいだに、何が起きるのだろう。父親と和明が計画しているものの全体像が見えないから、当然分かるはずもない。もしも、突然の理事の辞任が彼らの計画に含まれていたならば、和明の理事就任は祖父が言い出す前より先に決まっていたのだろう。  そこまでは計画の中にあったけれど、それからの和明の動きに父親は不安を抱いたらしい。だから、伊豆往診を持ちかけてきたのだ。それまで隠し続けてきたであろう伊豆での診療が、知られてしまうことを覚悟して。  恵理の話によると、伊豆の病院は、もとは上条病院の分院だったらしい。三十二年前当時、あの辺一帯には大きな病院がなかったとのことだった。それをどうにかしようと立ち上がったのが亜紀の父親で、行政へ根気強く働きかけてようやく出来上がったのが三十年前だった。そして、それ以降父親は、平日は上条病院長として事務仕事、週末は伊豆の病院で診療行為をしているという。しかも、伊豆では手術も行っているようだった。  そのことを祖父母は知らなかったし、父親もわざわざ話していなかったのは、何か理由があるからだ。愛人のもとへ行っていることにすれば、祖母は母親を虐げることはない。もしかしたら、それこそが隠していた理由ではないか。そう思い至った途端、両親の姿がそれまでのものとは違ったものに見え始めた。  思いあまって言葉を遮ってしまったけれど、父親が話した言葉を振り返れば、医師としての自分を尊重しているように思えてくる。むしろ、そのためにされた計画のような。どのような理由があって、父親は和明と引き合わせたのだろう。そして父親と和明が交わした約束とは、いったいどのようなものだろう。亜紀は、窓の外を見下ろしながら、つらつらとそのようなことを考えていた。 「亜紀。おい、亜紀!」  突然男の声がしたかと思ったら、肩を掴まれ体を揺すられた。意識が急速に浮かび上がってくる。亜紀は顔をはっとさせて、声がした方へ顔を向けた。すると、目の前に心配そうな表情を浮かべている剛毅が立っていた。 「やっと目が覚めたか」  亜紀が目を覚まし、ほっとしたのだろう。剛毅は表情をほころばせた。かたや亜紀は、考え事をしているうちに眠っていたことに気がつき、気恥ずかしさから顔を俯かせた。腕時計を見ると、もう夕方になっている。ということは眠っていたのは、ほんのわずかな時間だろう。そしてその間に、理事会は終わっていたようだった。だから、剛毅は今ここにいる。和明はどうしたのだろう。理事会が終わったあと、彼は帰ってしまったのか。亜紀がそんなことを思案していると、剛毅がネクタイを緩めながらソファに腰を落とす。 「理事会で何かあったの?」  難しい顔をしている剛毅に尋ねると、ぶっきらぼうに返された。理事に承認されはしたが、何か引っかかっていることがあるようだった。だが、剛毅はなかなか口を開かない。その姿が幼い頃と重なって見える。剛毅がそんな姿をしているときは、大体何かに納得していないときだ。自分の中で整理しながら合点がいくまで考える従兄弟だから。そんな従兄弟の姿を眺めていると、ようやく合点がいったのかおもむろに口を開いた。 「あいつ、いったい何者なんだ?」  剛毅が和明のことを差しているのだと、亜紀はすぐに気がついた。理事会でどのようなことがあったのか、気になって仕方がない。だが、それを剛毅に促すこともできないまま、亜紀は次の言葉を待った。 「今日の勤務は何時に終わる?」  剛毅の口から飛び出たものは、意外な言葉だった。亜紀は剛毅の意図が分からず、彼の目をじっと見つめる。視線の先にあったのは、従兄弟の真面目な表情だった。真摯なまなざしを向けられている。 「今日は二十時には終われると思うわ」 「そうか、なら久しぶりにメシでもどうだ? あいつは爺さんたちと出かけちまったから、そのままどっかの料亭でお偉いさんがたと会食だろうし」  剛毅が苦笑しながら話す横で、亜紀は表情を曇らせる。きっと和明はそうなることを見越して、自分の分だけ夕食を作っているに違いない、そう思ったからだった。  剛毅は、どうやら和明のことで何か言いたいことがあるらしい。剛毅には互いの仕事に口を挟まない関係だとは言っているが、だからといって知りたくないわけじゃない。何を考えているか分からぬ男だからなおさら、考えの一片に触れたいし、そうすることで安心したかった。  自分のために作ってある夕食を思うと、少しばかり胸が痛むが、夜食にして食べれば良い。亜紀はそう思い直し、剛毅からの誘いを受けることにした。
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