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第54話

 午前の診療を終えて詰め所に戻ると、奥まった場所にあるソファに、ダークカラーのスーツを着込んだ剛毅が腰掛けていた。彼はゆったりと足を組みながら、まじめな顔で雑誌を読んでいる。しかも珍しいことに、読んでいた雑誌が、れっきとした経済紙だったものだから、亜紀は驚きの余り目がくぎ付けになっていた。 (随分珍しいこともあるのね……)  らしくない従兄弟の姿に、そのうち雨でも降りはしないかと思ったものだが、考えてみれば上条会の理事に就いたばかりだ。お飾りの理事になりたくないから、彼なりに努力をしているのだろう。亜紀はそう思い直す。  剛毅は、幼い頃からそういった姿を誰にも見せなかった。恐らくそんな姿を見たことがあるのは、自分くらいだろうと亜紀は思う。大学時代、亜紀より優れた成績だった息子に、彼の父親でさえ驚いていたのだから。  その後医師としてクリニックで働いてはいるが、仕事熱心なタイプには見られていない。だが、亜紀は知っている。従兄弟が患者に真摯に向き合っていることを。そんな姿を見かけるたびに、彼の父親であり、クリニックの院長の姿と重なって見えたものだった。その上、責任ある立場になったのだ。それを思うと、目の前にいる従兄弟の姿がいつもとは違ったもののように見える。 (男子三日会わざれば刮目して見よ、ってところかしら……)  詰め所の入り口に立ち、剛毅の姿をじっと見つめていると、視線に気づいたのか従兄弟が顔を上げた。 「亜紀? どうした?」  剛毅に声を掛けられた瞬間、亜紀は思わずほっとした。それまで別人のように見えていた従兄弟の姿が、いつもの彼のものになったから。恐らくいつもと違うように見えていたのは、髪型や着ているものがふだんとは違っていたからだろう。いつもは無造作になで付けているだけの髪が、すっきりと整えられている。それに着ているスーツだって、遠目で見ても仕立てが良さそうなものだった。そんな姿の従兄弟に、いつもそうしてくれたらと思わずにいられない。亜紀は笑みを浮かべながら、剛毅のもとに近づいた。 「あなたこそどうしたの?」  白衣姿の亜紀が、腕組みしながら問いかけると、剛毅はぽかんとした顔をした。 「え? 俺?」 「ちゃんとしたスーツ着てるし、髪の毛さっぱりしてるし、まるで別人みたいよ」  亜紀が従兄弟の姿を眺めながらそう言うと、その当人はきょろきょろと自分の姿を見たあと「ああ」とつぶやいた。 「これから理事会なんだ」 「そういえば、あなた理事になったのよね」 「まあね。で、今日の理事会で承認されれば、って当然聞いてるか……」  誰を差しているのか、剛毅から向けられた苦笑を見ずとも分かる。和明だ。今日これから開かれる理事会で、剛毅と和明の理事入りが承認されるのだろう。ということは、和明も病院に来ているのかもしれないが、あいにく何も聞かされていなかった。  ここ数日を振り返ってみれば、和明とろくな会話を交わしていない。それというのも、彼は遅い時間まで帰宅しないし、帰ってきても書斎に閉じこもってしまうから。そんな状態であっても、和明は亜紀が仕事に行っているあいだに、しっかり夕食を用意してくれている。彼が作ってくれた一人で食べていると、どんなにおいしい食事であっても、砂を噛んでいるような気分にさせられた。そのときのことを振り返っていると、急に剛毅から呼びかけられてしまい、亜紀は現実に引き戻された。 「もしかして、何も聞いてないんじゃないだろうな。結構大事な話だぞ?」 「理事になることは聞いているわ。ただ、私が忘れていただけよ。今日が承認を受ける日だって」  作ったような笑みを向けると、剛毅から訝しむようなまなざしを向けられてしまい、亜紀はいたたまれない気持ちになってしまう。それに気づかれる前にぐっと押さえ込み、剛毅を見つめ返しながら言い切った。 「私たち、お互いの仕事に口を挟まない約束をしているのよ。だから、理事になることだけ知っていればいいと思ってる」  和明はいずれ上条会の理事になる予定だったはずだし、本人だってそのつもりでいたことは知っている。ただ、急に古参の理事が退任してしまい、その予定が少し早まっただけだ。  本音を言えば、あの理事会に加わってほしくない。祖父の意向だけで動くところにいてほしくなかった。和明に理事になることを聞いたとき、それらを訴えたけれど、彼はきっぱりと言い切っていた。 『俺は病院経営のプロだ。おかしいところがあればそのときは遠慮はしない。たとえ身内であってもだ。約束する』  不安は残るけれど、その言葉を信じるしかない。何事も起きないことを祈るしかないのだ。亜紀はそのときのことを振り返りながら、真摯なまなざしを剛毅に向けた。すると、彼はすっと目をそらした。 「まあ、そうしないとやっていけないだろ」 「どういうこと?」 「理事会は理事長の意向が強いから、内情を知るとやりづらいってことだよ。今までだって、理事たちと、意見が一致したことなんか一度もなかったからな」  剛毅が、暗に理事長である祖父の姿勢を非難する。それに亜紀は何も言えずにいた。するとそのとき、昼の休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。剛毅はソファの背もたれに体を預け、ため息をついたあと、面倒くさげにソファから立ち上がった。 「さてと。そろそろ行ってくる」  浮かない表情をしているところを見ると、そこにやる気など一切感じられない。亜紀は半ば呆れながら、剛毅の背中に手を添えた。 「あなた、本当にやる気ないのね」 「どうせ爺さん主導だし、俺や親父が何を言っても聞かない人だからな」 「だからといって、寝ないでよ」 「はいはい。じゃ、行ってくる」  剛毅はそう言った後、詰め所をあとにした。従兄弟の背中を眺めながら、亜紀は心の中でため息をつく。剛毅が話していたとおり、今の理事会は祖父主導で動いている。そんなところで、父親と和明は何をしようとしているのかと、亜紀は不安を感じずにはいられなかった。
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