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第53話

「そうか。お前が診察しても、そうだったか……」  父親が思い悩んだ表情で、ため息交じりに吐き出した。その姿を見下ろしながら、亜紀は小さく頷く。上条病院の中庭のベンチに座っている親子の周りに、重苦しい空気が漂いだした。  伊豆での出張を終えた翌日、亜紀は出勤した直後父親に呼び出された。そして往診の結果を伝えていたのである。ベンチに腰かける父親の様子を見ると、自分が出した診断の内容が分かっていたかのようだった。  医師としての腕が、父親の方が上なのは分かっている。家庭を顧みなかった父親ではあるけれど、同じ職業になったあと、亜紀はそれを思い知らされた。そして、それは今も感じることが多い。自ら出した診断が、その父親と同じものだったのだ。亜紀は内心ほっとしたが、同時に疑念を抱いてしまう。  それは、父親がどのような理由で、往診を自分に依頼したのか、その意図が分からない。自身が出した診断に、疑いを持ったわけではなさそうだし、何か別の目的があるような気がしたものだった。  それは恵理からあの話――父親が週末に診療のため伊豆に来ていた話――を聞いたからだろう。幼い頃から、週末にどこかへ出かけてしまう父親を、亜紀は愛人のもとへ行ったと思い込んでいた。だが、そうではなく、恵理の話を聞く限りでは、自分と同年の彼女が生まれたときから、父親は伊豆の病院へ来ているのだという。そして亜紀は、それを知らなかったし、祖母から聞かされた話を鵜呑みにしたままになっている。  週末になるとどこかへ向かう父親を、愛人の元へ行っていると亜紀に教えたのは彼女の祖母だ。そしてその後、決まって母親のことについて聞かされたものだった。  そのときのことと、絵里から話を聞いたときのことを思い返すと、二つの疑問に行き着いた。なぜ、父親は週末に伊豆へ来ていたのか。そして、なぜ自分を伊豆へ往診に行かせたのかだ。  それらを聞きたいけれど、目の前にいる父親の様子を見ると、聞けるような雰囲気ではない。亜紀は、聞きたいことを全て頭の片隅に追いやることにした。するとそれまで黙り込んだまま、思案していた父親が厳しい表情で話し始める。 「伊豆の病院ではなく上条病院(こっち)で出産させた方がいいな。ここならば心臓の専門医もいるし、万が一子供に何かあってもすぐに対応できる」 「……起こりえるすべてのリスクを想定すればそうなります」 「わかった。なら早速手配をしよう。伊豆の方にも連絡しておく」  そう言った後、父親がよいしょと言いながらベンチを立ち上がった。目の前から立ち去ろうとする父親を追うように、勝手に体が動いた。そして、無意識のうちに問いかけていた。 「お父さま。お尋ねしたいことがあるの」  父親は背中を向けたまま、その場に立ち止まった。そしてゆっくりと、振り返る。 「なんだ? 気になるところでもあるのか?」  向けられた表情を見ると、真面目なものだった。亜紀は、二つの疑問をぶつけていいかどうか、躊躇してしまう。だが、今聞かなければ、恐らくそのままになってしまうだろう。向けられている瞳を、じっと見つめながら、ゆっくりと口を開く。 「……なぜ私を伊豆に?」  するとそのとき、父親の表情がわずかにこわばったように見えた。亜紀の目の前で、父親は口を閉ざしたまま、そこに立っている。しばらくそうしたあと、父親は寂しげな笑みを浮かべ、話し始めた。 「なぜだと思う?」 「え?」 「どうしてお前をわざわざ伊豆へ行かせたのか、薄々気づいているんじゃないか?」  真剣なまなざしを向けながら聞き返してきた父親に、亜紀はなんと返したらよいのか言葉を詰まらせる。何に気づいたのか、父親は分かっているように見える。だが、亜紀はどちらのことに対し、言っているのか分からない。  だが、これだけは言える。自分を往診へ行かせたのは、やはり恵理を診察することだけが目的ではなかったのだと。それを確信したが、しかしそれ以上聞けなかった。 「伊豆へ和明が行っただろう。お前を追いかけて」 「え、ええ。伊豆で仕事があったから、立ち寄ったと言っていたけれど……」  和明がやって来たときのことを思い出しながら答えると、父親は苦笑した。 「和明が伊豆へ行ったのは、確かに仕事もあったからだが、お前が伊豆へ行くと聞いたから、あわてて仕事をいれたんだよ」 「なぜ、そんなことを?」  怪訝な表情で、亜紀は父親に尋ねた。だが、父親はそれ以上何も言おうとしない。三方を建物に囲まれた中庭で、父と娘が白衣姿で向かい合っている。夏を迎えた小さな庭に、暖かい風が吹いた。庭に植えられているドウダンツツジや桜の葉が、さわさわと音を立てながら揺れる。  時間にすれば数分のことだが、それ以上のものに思えたものだった。亜紀は、黙考してしまった父親を見つめながら次の言葉を待っている。すると彼女の目の前に立つ父親は、まるで胸の裡に溜まったものを吐き出すように話し出した。 「それは、知られたくないことがあるからだ。それが伊豆にあるから、知られる前に和明は手を打とうとしたんだろう。しかし、お前は事実の一端に触れた」  そう言ったあと、父親はまたも黙り込んでしまった。和明が何を知られたくなかったのかなど、当然亜紀は知る由もない。しかし、父親がこの三十二年のあいだ、週末になると伊豆へ来ていたことが、そのうちのひとつであることに亜紀は気がついた。  だが、それと同時に思った。そこまで言ったのならば、全て話してほしいと思うのは当たり前だ。このままでは、何も分からないではないか。心の中で父親にそう訴えることしかできず、亜紀は父親を見つめ返す。すると父親は娘の目をまっすぐ見つめながら、口を開いた。 「お前の辛そうな顔を見るたびに、あいつは俺との約束を忘れてしまったんじゃないかと思わされる。今の和明は何を考えているか全く分からん。このままでは間違った方向へいってしまいそうで、それでお前を伊豆に行かせたんだ」  やはり和明と父は知り合いだったのだ。しかも、それだけじゃなく、何か重大な約束を交わしている。だが、その約束がどのようなものかなど分からない。自分一人だけ取り残されているような気がして、亜紀は父親を責めるような目で凝視する。すると、それに気がついたのか父親は寂しげな笑みを娘に向けた。 「亜紀。あと半年待ってくれないか?」 「半年?」 「そうだ。その間お前は不安だろうが、お前は医師としての仕事に専念しろ。お前に和明を引き合わせたのは、理由があるんだ。だから―― 「その間私一人、蚊帳の外ってわけね」  亜紀がそう告げると、父親は言葉を詰まらせた。和明と父親が、どのような約束を交わしているかはわからない。和明も父親も自分に対し求めるものはただひとつ。医師としての仕事を全うしろ、それだけだ。できることならばそうしたいのに、そうさせてもらえない。 和明の言動に振り回されて、そのせいで心が激しく揺れ動く。それを謎の行動ばかりが増える和明に訴えられず、いら立つことが増えていた。それに父親からの身勝手な頼みを聞かされて、更にそれが募る。亜紀は父親をにらみ付けるようにしながら、ゆっくりと口を開く。 「お父様に伝えたいことがあるの。私はいずれ和明さんとは離婚します。彼とはそういう契約を交わした上で婚約していますから」  娘から告げられた言葉が驚くべきものだったので、亜紀の父親は目を大きくさせた。 「亜紀? お前、いったい何を―――― 「顔合わせをしたとき和明さんから取り引きを持ち掛けられたのよ、お互いの自由を得るために結婚しようと。だから契約することにしたの」  どうやら、契約結婚を取り交わしたことは知らないようだった。 「結婚して二年の間に妊娠して子供ができて、その子が男だったら離婚します。その二年のあいだに子供ができなくても離婚しますので、そのおつもりで」  亜紀はそれだけ言うと、ぼう然となっている父親をそのまま残し立ち去っていった。
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