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第52話

 夕方自宅に戻ると、すでに夫は帰宅していた。  玄関に置かれている革靴を見下ろして、亜紀は物憂げにため息を漏らす。今日は理事退任の話を理事会で切り出したはずだ。その前に理事長である父親にその話とともに離婚の話もしたはずだから、きっと引き留められているに違いない。そう思っていたけれど、そうはならなかったらしい。リビングへと向かう途中、ある部屋の扉が開いていて、亜紀はそっとなかを覗き込む。亜紀が覗き込んだ部屋は、和明の書斎だった。  亜紀の書斎の隣にある和明の部屋のなかは、段ボールがたくさん積まれていた。どうやら引っ越しの準備をしているようで、現実を突きつけられたような気がして辛かった。亜紀が思い詰めた表情で部屋の入り口で積まれた段ボールを眺めていると、背後から夫に声を掛けられた。 「おかえり、早かったな」  振り返ると、和明はシャツにスラックスといった姿で本を持って立っていた。髪がわずかに乱れている。 「あなたこそ早かったわね。お父様に引き留められていると思ったけど、その、話はちゃんと出来た?」 「ああ、離婚と理事辞任の話をしたが、特に何も言われなかったよ」  恐らく父親の反応が予想外のものだったからだろう。苦笑しながら和明が話しているのを、亜紀は寂しげな顔で見上げていた。振り返ってみれば、両親は気づいていたはずだ。和明が立てた計画の行き着く先が、別れだということを。それを薄々感じていたからこそ、あのような言葉を掛けたのだ。亜紀はそのとき聞かされた言葉を振り返る。そして計画を止めさせようと、シンガポールに向かったときのことも。  でも和明は計画を止めなかったし、亜紀も止めようとしなかった。長い長い年月のあいだ、彼は変わってしまったのだろう。シンガポールで目にした衝撃的な光景が脳裏に蘇り、亜紀はぎゅっと目を閉じた。 「と、ところで、引っ越し先はどこなの?」  思い出すだけでも忌まわしい光景から逃れるように問うと、和明は口を閉ざした。そしてしばらく黙り込んだあと重い口を開く。 「ひとまず前に住んでいたマンションに荷物を全部送って、それから次の引っ越し先を決めるつもりだ。無職だから、時間だけはたくさんあるし」  ということは前職に戻るつもりはないのだろう。前職に戻るならば、かつての職場は諸手を挙げて喜ぶだろうに。そして再会する前の暮らしをするのだろう。そう思ったとき胸の奥が痛んだ。だからといって引き留めることができないのは、裏切りを許すことができないから。しかしまだ愛している。たとえその相手がずっと自分を裏切り続けた男であっても。 「そう……。いつ―― 「明後日には出て行く。明日、剛毅に引き継ぎをしないとならんからな」 「きっと剛毅は嫌がるわ。面倒くさいことが嫌いだもの」 「でも俺はいなくなる人間だ。やってもらわないと困る」  この二年のあいだ和明は病院や医療法人の経営の見直しをし続けてきた。剛毅がその補佐をしていたが、ほぼ和明一人でやったようなものだ。ようやくそれが終わったけれど、それでもまだまだ和明の力が必要なのは誰の目から見ても明らかだった。それは剛毅は病院経営よりも、医師としての仕事が好きな人間だからだ。和明だってそれが分からない人間ではない。でも――。 「夕食は作ってあるから食べろ。俺はまだ片付けが残っているから」  それまで戸口に立っていた和明が、亜紀の目の前を通って部屋のなかに入った。そのとき亜紀は顔をはっとさせる。  どこにも行かないで。ここにいて。私の側に。そう思っていても口にできなかった。亜紀は和明の後ろ姿を眺めたあと、何も言わずにその場から立ち去った。
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