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第51話

「今夜はもう遅いし、別荘に泊まる。明日の午前中に帰ろう」  顔を上げると、前を歩く和明の背中が見えた。すぐ側にいるはずの男が、遠く感じて仕方がない。繋いだ手の感触は確かにあるのに、そこから彼の体温は感じなかった。それがなんだか和明との関係を示している気がして、亜紀は手を繋いだまま彼の背中をじっと眺めていた。  夏の到来を告げるような温かい風が、遠くに広がる海の香りを運んできた。それに緑の匂いが混じったものが鼻をかすめていく。すっかり日が落ち暗闇が広がる歩道には、足下を照らす程度の外灯しかなくて、その頼りなげな灯りが道路を照らしていた。  今まで幾度となく肌を重ねた男であっても、その胸の(うち)など分かるはずもない。かつて肌を重ねたら幾分かでも理解できると思っていたことが、思い上がりのように思えてくる。無遠慮に人の心の中にまで入り込んできたくせに、自らの心には決して触れさせようともしない。そんな男と結婚することを決めてしまったことが、今更ながら悔やまれた。いや、そうではなく何を考えているか分からぬ男に惚れてしまったことを、亜紀は心の底から悔いていた。  和明の部屋で抱かれたときに向けられた、孤独の影を強く感じさせるあの瞳。そのまなざしを向けられたとき、恐らく心を奪われてしまったのだろう。もしもそれがなかったならば、こうまで心を乱されずに済んだものをと思わずにはいられなかった。  幼いときから感情を表に出してはいけないと、祖父母から厳しくしつけられた亜紀の精神力は並大抵のものではない。医師である以上、どのような状況においても冷静な判断を求められる。知識と経験に裏付けされた判断を、決して見誤ることがないようにしなければならないからだ。それなのに突然目の前に現れた男の言動に散々振り回されている。そしていつの間にか抱かれるたびに、喜びと切なさを抱いていた。そのときのことを振り返っていると、突然前を歩いていた和明が立ち止まった。まだ別荘まではほど遠い。 「ここら辺は昔から蛍が見える場所らしい」  亜紀は目を大きくさせて、俯かせていた顔を上げた。目の前にいる和明は、背中を向けたままそこに立っている。後ろ姿をじっと見つめていると、和明がくるりと振り返った。影のせいで、表情が分からない。 「今の時期しか見られないものだし、少し歩くが見に行くか」 「場所、知っているの?」 「管理人から聞いた。近くに小さい川があって、そこに蛍がいると」  話している間も和明は手を離そうとしない。急に蛍を見に行こうと言った彼の意図を探ろうと顔を見上げるが、何を考えているか分からなかった。  以前新居で思い出した記憶の断片、それは若き父親と手を繋いでみた蛍の思い出だった。その場所はもしかしたら和明が話しているところかもしれない。確信に似たものを感じ、亜紀はそのとき思い出した記憶をたぐり寄せる。 「どうする?」  低い声で問われ、亜紀は現実に引き戻された。そこに行くのに迷いはないけれど、どうしてか言葉が出てこない。だから亜紀は返事の代わりに、繋いでいた手を握り返した。  その場所は歩道を外れた草むらの先にあるという。むせ返るほどの草いきれ、そして湿り気を帯びた空気が肌を掠めていく。温かかったはずの風がひんやりとしたものへと変わっていた。濃厚な緑の匂いが漂うなか、都会では早々聞くこともなくなった虫たちの声が聞こえてきた。歩きながら空を見上げてみると、今にも降ってきそうなほどの星空が広がっている。漆黒の闇に浮かぶ星々の瞬きが、都会の空で見るものよりも力強いもののように感じた。 「ここからもう少し先にその場所があるはずだ」 「そうなの?」 「蛍は水辺から離れない。もう少し先に小さな川があるんだ」  別荘の管理人から蛍がいる場所を聞いたと言っていたはずなのに、まるで和明自身がそこを知っているような気がする。あたりはすっかり暗くなっていて、それなのに目的の場所へ迷うことなく進む和明に対して、亜紀は疑念を抱いていた。そんなときかけられた言葉は、疑念を確信へと変えていく。だがそれを尋ねることもせぬままに、生い茂った草をかき分けながら和明とともにその場所へ向かっていくと、ようやく開けた場所へ行き着いた。水の流れる音がわずかに聞こえてくる。 「着いたぞ、見えるか?」  すぐ側で声を潜めて和明が告げる。声がした方を見るが暗くてわからない。すると腰を引き寄せられた。 「見えるか、蛍」  耳元で聞こえた声に、亜紀はとっさに身をすくませる。触れた場所から和明の体温が伝い、体が勝手に火照りだした。それを意識せぬよう前を見ると、暗闇にぼんやりと浮かんでいる蛍の光が見えた。まるで息づくように点滅している光が、ふわふわと浮かんでいる。目の前に広がる光景は、やはり過去の記憶と同じものだった。亜紀は記憶をたぐり寄せながら、闇夜に浮かぶ蛍の光を眺めている。 「きれいだな」 「ええ。とっても……」  和明に寄り添っていると、とくとくと心臓がせわしなく脈打ち、全身がわずかに熱くなり始めた。それを意識しないように蛍の光を見ていると、ただの求愛行動のはずなのに、まるで生命のきらめきのように感じる。それはその光を発したあと、短い命を終えるものだから、そう見えてしまうのだろう。  蛍は成虫になったあと二週間しか生きられない。その間に雌と出会い、次の命を託すのだ。そのためだけに光を放ち動き回る。その風景を眺めながら、もう何も考えずにいられたら、と亜紀は思う。  和明に対しても父親に対しても幾つかの謎がある。だがそれらは決して本人達から聞くことはできないだろう。ならば疑念を抱いたまま疑心暗鬼になるよりも、和明が言っていた通り何も考えずこれまでのように医師としてだけ生きれば、随分と楽だと思う。だがその代わり永遠に真実に行き着くことはない。 「これから毎年、見に来よう。二人で」  亜紀が考え事をしながら蛍を眺めていると、和明が話す。それに答えずにいると、同意を促すように強く抱きしめられた。背中に押し付けられた男のたくましい体から熱が伝ってくる。そして腰に回された腕が、自分自身を縛り付けようとする鎖のように感じた。そこには恐らく心はない。亜紀はそれが辛かった。 「毎年、ね」  亜紀は自嘲気味な笑みを浮かべた。 「ああ。毎年ここにきて二人で蛍を見に来よう」 「そうね……」  このまま心をろくに通い合わせることがないまま、時間だけが過ぎていくのだろう。本当に欲しいものはすぐ側にあるというのに、とてつもなく遠い彼方にあるような気がして、亜紀は寂しさを感じずにはいられなかった。
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