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第46話

 上条病院の敷地内には庭が二つあり、その一つは患者に開放している。建物に取り囲まれている庭には四季折々の花や木が植えられていて、見舞いに訪れた客人と患者が利用していた。もうひとつは渡り廊下に面している小さな庭で、そこは病院職員やドクター以外立ち入れないようになっている。  午前の診療を終えたあと、休憩がてらその中庭に亜紀はいた。彼女はベンチに腰掛けて、随分と思い詰めた表情を浮かべている。  それというのは古参の理事が急に二人も辞任したことが気掛かりなのもあるのだが、その空いた席に和明が祖父のたっての頼みで就くことになったからだった。 『俺は病院経営のプロだ。おかしいところがあればそのときは遠慮はしない。たとえ身内であってもだ。約束する』  和明はああ言っていたけれど、不安はなくなってくれなかった。しかもその後聞いてしまった言葉のせいもあるだろう。 『北条会と上条会の間に金の流れがないか調べろ』  和明は理事会の中に入って、何をしようとしているのだろう。立ち聞きしてしまった言葉の内容をみれば、不穏なものを感じずにはいられなかった。思い詰めた表情で亜紀が考え込んでいると、背後から足音がした。それに気づき、表情を引き締め振り返ると、白衣姿の父親が立っていた。  病院長でもある父親の顔を見ると、様子を窺うような表情を浮かべている。もしかしたら考え事をしている姿を見られていたのだろう。そういった姿はなるべくならば親にも見せたくないのだが、見られてしまったならば仕方がない。万が一何かを尋ねられたなら、そのときはどうにか切り抜けようと亜紀は気を引き締めた。  亜紀の表情が変わったことに気がついらしく、父親は遠慮がちに娘に近づいた。そして隣の席に腰を落とししばらく黙り込んだせいで、重苦しい沈黙が二人の間に流れ始める。実の親子とはいえそれまで父親と関わろうとしなかっただけに、会話がないことに関しては特に何も感じない。ただ自身の結婚の話が出たあとからは、父親の方から進んで関わりを持とうとしているように感じて、それが不思議だった。  なぜ今更関わろうとしているのか。それまでただの一度も娘の人生に関わろうとしなかったのにと亜紀は父親が隣にいながら、心の中で毒づいた。  夏のまぶしい日差しが少しずつ西に傾き、その光に照らされ続けた石畳からは、ゆらゆらと陽炎が揺らめいている。熱をふくんだ風が、みずみずしい葉や花をかすめながら庭を通り過ぎていった。  亜紀はちらと腕時計を見た。いきなり現れた父親が隣の席に座った理由が気になるところだが、そろそろ休憩時間も終わりを告げようとしている。腰掛けていたベンチから立ち上がろうとしたとき、それまで一言も発しなかった父親が口を開いた。 「その……。和明、くんと、何かあったのか?」  唐突に話しかけられてしまい、亜紀は立ち上がらず父親を見た。父親は不安げな表情だった。 「どうして?」 「どうしてって……。思い詰めた顔で考え込んでいたからだ」 「仕事のことかもしれないのに、なぜ彼のことだって思ったの?」  亜紀が聞き返すと、父親は再び黙り込んだ。考えてみれば、これまで同じようなやりとりばかりしていた気がした。両親に尋ねられると素直に答えられないばかりか、条件反射のように差し伸べられた手を払ってしまう。幼い頃からのこととはいえそれが辛く感じるときもあるし、素直になれない自分自身がいやになるときもある。しかし両親に対しては、心を開くことができないのだから仕方がない。罪悪感を抱きながら口をつぐんでしまった父親を見ると、みるみるうちに表情を曇らせていた。 「その、彼と同居を始めたばかりだからだ」 「なぜ同居をお認めになったのです? 向こうは花嫁修業なんてものを求めているわけでもないし、それなのになぜ認めたのか教えてほしいの」  さも最もらしい理由を父親が言ったものだから、亜紀はこれ幸いとばかりに同居の理由を問う。続いて聞き返されてしまった父親は、娘の本意を探ろうとしてか凝視していたが、しばらくすると観念したかのようにため息を吐き出した。 「和明くんと信頼関係を築いてほしかっただけだ。長い人生の中で共に生きるということは、互いに信頼関係がないと始まらないからね」 「それは結婚したあとでも築けるはずよ、違う?」 「結婚したからといってすぐにそんな関係になるわけがない。そうなるためには時間が必要なんだよ、亜紀」  諭すように言われたが、亜紀はそれを聞き流した。そうは言っているけれど両親の間にはそのような物など存在しないように見えるからだった。  それに和明から求められた信頼関係は、父親が話すそれとは全くの別物だ。彼は互いの役割さえ果たせたらそれでいいと言っていたし、それ以上求めるつもりはないと言っていた。今思えばそれに寂しさを感じてしまうが、それでもいいと決めたのは自分自身。亜紀は寂しげな笑みを浮かべ、視線を落とした。 「それに和明くんもそれを望んでいた。時間をかけてお前と理解しあいたいと」 「和明が?」  亜紀が苦笑しながら聞き返すと、父親はそれにすぐに答えず、歯切れ悪く答えた。 「あ、ああ。もっとお前という人間を知りたいと。確かそう言っていた」  とってつけたような言葉を述べたあと、父親が急にかしこまった。 「と、ところで亜紀。お前に頼みたいことがあるんだ」 「なに?」 「お前に行ってほしいところがあるんだ。できれば一人で」  見つめる父親の表情がいつにも増してまじめなものになっていて、その依頼が重大なもののように感じ、亜紀はその次の言葉を待つことにした。

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