12 / 13

恋供養

 白い煙が舞い上がり、澄んだ秋空に溶けていく。  それを、真緒は思い詰めた顔で眺めていた。  亡き母が残した秘密に触れたあの日から、彼女はずっと悩み続けている。  このまま、何もなかったかのようにしていいのだろうか。  とはいっても、全ては過去の出来事だ。今更むし返すことではない。  そう頭では分かっていても、どうしても受け入れ難かった。  燃え盛る炎へ目を向けると、並べられた二つの文箱がぱちぱちと音を立てながら燃えている。その前では、年老いた住職が張りのある声で経を読み上げていた。  二つの文箱は、かつて母の恋人だった男が作ったものだった。  ひとつは、一年前に亡くなった母が持っていたもので、もうひとつは母のかつての恋人が死ぬ間際まで手元から離さなかったものだという。母が持っていたものには日記が、もうひとつには母が恋人へ宛てた手紙がしまい込まれている。  日記と手紙をしまい込んだまま、供養の炎に包まれている文箱を見て真緒は思った。二人の思いをしまい込んだまま、この世から消えていくさまはまるで心中みたいだと。それを見るのがつらくなり隣にいる父へ目を向けると、空に向かって立ち上る煙を見上げているようだった。  煙を見つめる瞳は、はるか遠くを眺めているようだった。父は何を思いながら、立ち上がる煙を眺めているのだろう。空に吸い込まれていく白煙を一心に見つめている父の姿が哀れに見えてしまい、胸が痛んだ。真緒は、そっと父に声をかける。 「お父さん」  父は、ゆっくりと娘へ視線を向ける。  見慣れた穏やかな笑みを向けられて、真緒はほっとした。しかしそれは、胸の痛みを完全にはなくしてくれなかった。 「これで、いいの?」 「え?」 「ねえ、お父さん。本当にこれでいいの?」  真緒が思い詰めた表情を向けると、父は目線を下げて黙り込んだ。その姿が、迷っているように見えてしまい、娘もまた口を閉ざす。しばらく無言のままでいると、父がため息を漏らした。 「……これでいいんだよ、真緒。董子(とうこ)が死んだあと、こうするべきだったんだ。それに、私もこうしてやりたいと思っていたから」  思いがけない言葉を耳にして、真緒は驚いてしまう。  父はその後何も言わず、燃えさかる炎を見つめだした。  話は一週間前に遡る。  その日、亡き母の一周忌を迎えるにあたり、真緒は遺品整理を行っていた。本来ならば母が亡くなったあとすぐにやるべきことなのだが、父がどうしてもいやだと言ってきかなかったのだ。  娘の目から見てもとても仲のいい夫婦だった。最愛の伴侶に先立たれた現実を父は受け入れられずにいたから、母の遺品を片付けたくなかったのだろう。そう思った真緒は、以降亡き母の部屋に立ち入ることをしなかった。  それから一年が過ぎた。亡き母の一周忌が近くなり、そろそろ遺品を整理しようと真緒が切り出すと、父は特に反対もせずに承諾してくれた。それを見て、ようやく母の死を受け入れてくれたのだと真緒は安堵した。  父の承諾を得たあと、早速遺品整理を始めたのだが、そのとき真緒はあるものを見つけてしまう。それがあの文箱だったが、そのとき見つけたものは一つだけだった。  文箱は風呂敷に包まれて、クロゼットの奥深くにしまい込まれていた。中身を確かめるために風呂敷をとり外してみると、美しい装飾が施されていた。黒い漆塗りの蓋に、蒔絵で描かれたヒナギクの上を螺鈿で作られた二匹の蝶が舞っている。その蓋を恐る恐る開いてみると、中には色あせたノートが入っていた。何も考えないままノートを取り出し読んでみると、その中には終わった恋が書かれていた。  供養を終えたあと、真緒は控え室でこの一週間の出来事を思い返していた。  母の日記を見つけたあと、偶然通りがかった先で母の遺品と対になっているような装丁が施された文箱を見つけたときや、その中にしまわれていた手紙を読んだときのことを。  もう一つの文箱は、母の恋人だった男の遺品だった。その男・生島(いくしま)は十六年前に他界している。生島の息子は、その文箱をずっと保管していたようだった。そして、生島の十七回忌にあたる今年、展示会を開くため取り出してみたところ、その中にずっとしまい込まれていた手紙を見つけてしまったという。かつて父が愛した女性からのものだったから、文箱とともにどう扱っていいものか悩んでいたと真緒は聞かされた。  結果、その文箱とともに手紙を押しつけられてしまい、真緒は困り果てた。幾ら亡き母の手紙とはいえ、終わった恋の形見の品だ。父に見つかるわけにはいかないし、かといって手元に置いておくのもいやだった。考えに考えた結果、母の形見を供養してもらうとき、密かに供養してもらおうとしたのだが、それを父に見つかってしまったのだ。  生島の遺品である文箱を見たとき、父は確かに驚いていた。だが、すぐに安堵したかのような表情になった。父がなぜそのような表情をしたのか、真緒には知る由もない。しかし、それを目にしたとき、父は全てを知っているような気がしたものだった。だから、あのような言葉がでたのだと真緒は思う。 『……これでいいんだよ、真緒。董子(とうこ)が死んだあと、こうするべきだったんだ。それに、私もこうしてやりたいと思っていたから』  供養の際、父から掛けられた言葉を思い返すと、やり切れなくなった。窓の外へと目を向けると、視線の先では住職が供養の後片付けをしているようで、燃やしたあとに残った灰を白い陶器に移していた。それを見ているうちに、胸が苦しくなってきて、真緒は顔をしかめさせる。するとそのとき、からりと引き戸が開く音がした。真緒は顔をはっとさせ、部屋の入り口に目を向ける。 「真緒、帰ろうか」  部屋に入ってきたのは父だった。 「一周忌の法要の話になってしまって、遅くなった」 「そう……」 「あと、遺品を焼いた灰だが、当初の予定通り寺へ預けるつもりだ」  その言葉を聞いた瞬間、真緒は目を見開いた。  それまで抑え付けていた感情が、言葉となって勢いよく口から飛び出してしまう。 「いやよ! 絶対にいや! お父さんはそれでいいの?」  真緒は思い詰めた表情で、父に勢いよく言い放った。激しい怒りを隠そうともしない娘に対し、父は冷静だった。涙ぐみながら睨んでいる娘を、じっと見つめている。しばらく言葉もないままそうしていると、父がため息をはく。 「真緒。落ち着きなさい。ここは声を荒げて良い場所ではない。亡くなった方々を静かに供養する場だ」  険しい声で諭されて、真緒は怯んだ。ふだんの父は、とても物静かで穏やかな人だ。険しい声を出すような人ではない。それだけに、父の怒りの度合いがいかほどか分かってしまい、真緒は怯んでしまったのだ。  真緒は所在なさげにしながら、顔を俯かせる。父に訴えたいことも聞きたいことも山ほどある。だが、それを口にしてしまえば、感情を抑えられなくなってしまうだろう。だから真緒は耐えた。膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめる。 「まずは家に帰ろうか。家に戻ってから、ゆっくり話そう」  聞こえてきた声に険は感じられなかった。真緒は気まずそうに父へと目を向ける。目に映る父の姿は、いつもと変わらぬ姿だった。優しい笑みを向けられて、こわばった体から力が抜けていく。娘の体から緊張が解けたのを気づいたのか、父はほっとした顔をした。  それまで、二人のあいだにあった張り詰めた空気が緩む。父は、立ったままだった娘に近づき、背中に手を添える。大きな手の感触と、温かい体温が喪服越しに伝ってきた。 「さあ、帰ろう。董子が待ってるから」  背中に添えられた手が遠慮がちに部屋から出るよう促した。真緒は父の言葉に頷いて、共に部屋から立ち去った。  実家には、シマトネリコの木が植えられている。  それは、母の部屋にまぶしい日差しが入るのを防ぐために父自ら植えたものだった。その木は、三十年以上の月日を経て、その役目を立派に果たせるまでになっている。  真緒は実家に戻ったあと、母が使っていた部屋の入り口に立ち、窓越しに見える茂みを眺めていた。部屋の中には、母が愛用していた香水の香りがほのかに残っている。こうしていると、母が亡くなって一年が経とうとしているようには感じられない。だが、母はもうこの世にはいない。一年前に彼岸へ旅立った。母のことを思い起こすと、後悔ばかりが募ってくる。  真緒は大学進学を機に独り暮らしを始め、その後そこで就職したため実家を離れている。自分がいなくとも、両親は仲良くやっていると思っていたし、健康も問題ないとも思っていた。そう思っていただけに、突然知らされた母の入院は、正に晴天の霹靂だった。  そのときには、既に手遅れの状態だったらしい。しかし、真緒がそれを知ったのは、母が旅立ったあとだった。父は全てを知っていたようだが、母からきつく言われていたという。娘には知らせるなと。  なぜ、母がそのようなことを言っていたのか。それはひとえに、心配を掛けたくなかったからだ。いつも自分のことを後まわしにしていた母らしいと言えばそれまでだが、せめて死が近いことを悟っていたならわがままを言ってほしかった。 「結局、親孝行らしいこと、できないままだったな……」  真緒は湿っぽいため息をつきながら、母の部屋を見渡した。まだ、家具は残っているというのに、がらんとしているような気がする。一抹の寂しさを感じながら部屋を眺めていると、そこに父がやって来た。 「どうした、そんなところで突っ立って」  普段着に着替え終えた父が、穏やかな笑みを娘に向ける。  真緒は今にも溢れそうな涙を拭い、側にたたずむ父の顔を見上げた。 「お母さんのこと、思い出していたの」  母との思い出をかみ締めながら真緒が答えると、父は部屋へと目を向けた。 「まだ、董子の匂いが残っているな……」  父を見ると、とてもつらそうな顔をしていた。それを見ていると、こちらもつらくなる。この部屋で初めて香水をつけた。母がいない隙に化粧道具を使ったこともある。それに、この部屋で成人式の振り袖を着付けてもらったときから、もう十二年が過ぎた。母と過ごした懐かしい思い出が次々と浮かんできてしまい、真緒の視界が歪み始める。目元に溜まった涙をそっと指で拭いとった。すると、それまで部屋を眺めていた父が、娘へと顔を向けた。 「そういえば、あの文箱はどうしたんだ? 確か彼の息子が持っていたはずだが」  唐突に切り出され、真緒は驚いた顔で父を見上げた。真緒が口を閉ざしたままでいると、部屋へ入るよう父から促される。 「董子の部屋で話すのもなんなんだが、この部屋にいると彼女が側にいるような気がするから、ここで話そう」  父は再び部屋の中へと目を向けた。それにつられて、真緒もまた母が愛した香りが漂う部屋へ目を向ける。母を未だに愛し続けているから、父にはまだそこにいるように思えるのだろう。そう思うと胸が痛んだものだった。 「さて、どうやって、あの文箱を手に入れたんだい? あれは故人の私的なものだから、そう簡単に手に入れられるようなものじゃない」  窓辺に置かれた椅子に腰かけた父が、鏡台の椅子に座っている真緒に問いかけた。確かにあの文箱は、金を出して手に入れたものではなかった。だが、なぜ父はその文箱の存在を知っていたのか気になって、真緒は父に聞き返す。 「その前に教えてほしいの。お父さんはもう一つの文箱のことを知っていたのね?」 「彼が死んだあとだったと思う。故人を偲んで展示会が開かれていたんだ。大通り沿いにある漆器店でね。そこで見たんだ」  真緒は父からの返事に驚いてしまう。 「私もそこで見つけたのよ。ブーシェで」 「えっ?」 「展示会をやっていたのよ。生島 恒樹(いくしま つねき)さんの十七回忌だからって」  大通り沿いにあるブーシェは、小さな漆器店だ。オーナーの目に叶ったものしか置いていない。そのオーナーが推している漆芸作家の作品を月に一度展示販売している店であり、漆器が好きな母が生前足しげく通っていた店だった。  母の文箱を見つけた日から数日後、その店の前を通りかかったとき、壁に貼られていたポスターに生島の文箱が載っていた。真緒は、それを偶然目にしてしまったのだ。  構図こそ違うけれど、装丁は同じものだった。その文箱を食い入るように見ていると、店のオーナーから声を掛けられ、生島の息子を紹介されたのだ。そして、その文箱を作った人間、つまり生島だ。彼が十六年前に他界したことを聞かされたとき、真緒の頭の中に浮かんできたものがある。それは、庭に植えられていたヒナギクの側でうずくまり、泣いていた母の姿だった。真緒がそのときのことを振り返っていると、父がため息交じりに小さな声で呟いた。 「そうか。もう、そんなに経つんだな……」  真緒の目の前で、父が感慨深げに話す。しかし、その表情は昔を懐かしむようなものではなかった。それがなんとなく引っかかり、真緒は怪訝な表情を父に向ける。  引っかかることはそれだけでなかった。  父は母が残した日記の存在を知っているだけでなく、そこに何が書かれているのか全て知っているようだった。あの日記に書かれていたのものは、すべて結婚前のことなのに。それらを全て知っているということは、日記を読んだからだと思うけれど、母が生きている間に父がそれを読んだとは考えにくい。だって、あの日記はクローゼットの奥深くにしまいこまれていたのだから。まるで誰の目にも触れさせないように。真緒は風呂敷に包まれた文箱を見つけたときのことを思い返しながら、父に切り出した。 「お父さん、母さんが日記を書いていたことを知っていたの?」  父が母の日記を読んだかどうか確かめる前に真緒は切り出した。  娘から問いかけられた父は、無言のまま首を横に振る。 「そう、知らなかったの……」 「董子が日記を付けていたことなど知らなかった。だから、あれを見つけてしまったときは驚いたよ。結婚式直前に運ばれてきた荷物を片付けていたら、文箱が出てきてね。それを取り出そうとしたら、うっかり落としそうになったんだ。そのとき日記を見つけた」」  そう言ったきり、父はまぶたを伏せてしまった。その姿が、日記についてはこれ以上聞くなと言っているように見えてしまい、真緒は何も聞けなくなってしまう。恐らくそのとき、父はあの日記を呼んでしまったのだろうと真緒は思った。その後、しばらく無言のままでいると、唐突に父が小声で呟いた。 「そうか、あれは偶然見つけたのか……」  つぶやきにも似た声が耳に入り父を見ると、落胆が滲んだような表情を向けられていた。その表情の理由が分からず、真緒は戸惑ってしまう。 「えっ、ええ……」  すると、父は表情を曇らせた。 「不思議な巡り合わせもあるもんだな。彼の十七回忌と董子の一周忌が重なった年に二つの文箱が揃うだなんて」  父の表情を見ると、感慨深げなものになっていた。それがまるで、そうなることを望んでいたかのように見えてしまい、やり切れない思いが言葉となって勢いよくあふれ出してくる。 「まさか、もう一つ同じようなものがあるだなんて知らなかったのよ。それより以前に、相手のことをわざわざ調べる気にはならなかった。だって……」 「だって?」 「……ショックだったの」  誰にだって過去のひとつやふたつあることを知らない訳ではない。結婚前に幾つもの恋愛を経験したって別に構わない。その恋が終わって過去のものになっているならば。  だが、母の恋は完全に過去のものになっていなかった。それを知ってしまったときのことを振り返り、真緒は口を閉ざす。すると、父が苦笑しながら、娘に問いかけた。 「ショック? なぜ? 私と結婚する前に董子が誰とも恋愛してないと思ったのか?」 「そうじゃないわ! そうじゃないけど……」  真緒は急に顔を上げ、父に言い放った。だが、尻すぼみになってしまう。  どう説明したらいいのだろう。胸に渦巻く感情を、どのような言葉で言い表していいか、真緒は思い悩む。  偶然見つけた日記を読んだとき、そこに書かれていたものに驚きを隠せなかった。  結婚前とはいえ、父と婚約していたときに出会った男のことが書かれていたから。  大学からの帰り道、急に雨が降り出した。そこで母は、近くにあった甘味処の軒先で雨宿りしようと駆け込んだのだが、その後飛び込んできたのが生島だった。雨宿りしたものの、雨は止む気配がない。それで二人はその店の中に入って、雨が落ち着くのを待つことにした。  そこで交わされた会話の詳細は、日記には書かれていない。ただ、その男が螺鈿師で、母の実家からそう遠くないところに工房を構えていることを知ったらしいから、ある程度お互いの素性について話していたと思われる。  真緒の母は漆器が好きだった。父と真緒がもう一つの文箱の存在を知ったきっかけとなるブーシェは、母の行きつけの店だった。二人はその後、その店で偶然再会することとなる。  生島はブーシェのオーナーの古くからの友人であると同時に、作品をその店に卸していたし、二人が再会したのは、年に一度開いていた彼の作品の展示会だった。  その後、二人は急速に距離を縮めていった。母は、大学の帰り道に生島の工房へ立ち寄るようになり、やがて螺鈿細工を教わるようになっていた。そして、細工を教えてくれる代わりに生島の身の回りの世話をするようになり、工房へやってくる人間達は母を恋人か妻だと思うようになっていた。日記には、そういったことまで書かれていた。また思い違いされてしまった、と。  そしてそういったことが続いたある日、突然生島から告げられた。「もう、ここへは来ないでほしい」と。日記は母の視点から書かれたものだし、そのとき何を思って生島がそのようなことを言ったのかは分からない。しかし、その下りを読んだとき、真緒は思った。このとき既に生島は、母を好きになっていたのだろうと。そして、生島に突き放されたとき、母は心に芽吹いていた感情にようやく気づいたらしい。 もう、あの人のところへは行けない そう思うと、つらくて苦しくて涙が止まらない  生島から、ここへは来るなと言われた日の日記に書かれていた一文が頭に浮かび、真緒はまぶたを閉じた。恋の始まりは唐突にやってきて、心が乱れるものだ。それが甘く感じるか、苦しいものに感じるかは、気づいたときの状況次第だ。真緒は自身の恋を振り返る。  どう足掻いても決して叶うことがない恋だった。  苦しい思いを味わい続け、身を引き裂かれるような痛みを伴い自ら身を引いた。  だから、このときまでの母の気持ちは痛いほど分かる。しかし、問題はそのあとだ。真緒は手紙にしたためられていた一文を思い出し、苦しそうに顔を歪ませた。すると、父から急に尋ねられる。 「あの手紙を読んだから、か……」 「えっ?」 「ショックを受けた原因だよ。違うかい?」  真摯なまなざしを向けられて、真緒は目を伏せた。  正確にいえば少し違うが、真緒はそれをどんな言葉で言い表していいのか分からなかった。  窓ガラスの向こうに見える風景が、徐々に暗くなり始めた。  夕暮れ時の日差しに温められた空気が、母の残り香をより鮮明なものにした。母が死んだ現実を受け入れた身としては、亡き母の匂いがするたびに嬉しくもありつらくなってくる。  父から尋ねられたあと、真緒は何も返せなかった。  なぜショックを受けたのか、その理由が余りにも子供じみたものだったからだった。  真緒は今年、三十二になる。  大学卒業後、就職してからもう八年が過ぎようとしている。その間幾つもの出会いと別れを繰り返してはいたが、結婚に結びついた縁はなかった。それどころか、彼女は恋を自ら手放している。だから、日記に書かれているところまでは、母の気持ちが理解できたのだ。  しかし、手紙を読んだあと、彼女は深い喪失感を味わうことになる。  それは、それまで信じて疑わなかった母の姿が偽りのものに思えたからだった。  生前の母は、とても優しい人だった。  常に父と真緒のことを考えてくれる存在だった。それなのに、実は昔の恋人を思い続けていた。だから十六年前、彼の死を知り嘆き悲しんでいたのだ。 あなたを愛しています。尊敬しています。 恋い慕う方と一時でも思いを交わすことができたあの夜のことを、私は生涯忘れないでしょう。 あなたに言われたとおり私は婚約者と結婚します。あの夜の思い出を胸の奥にしまいこんで。 もう、二度とお会いすることはないでしょう。どうか、お元気で。  生島が生涯手元から離さなかった文箱に収められていた手紙には、そう書かれていた。母は父との結婚式を控えた身でありながら生島のもとへと向かい、思いを交わし合った。  だが、生島は母を諭した。恐らく生島は、母に婚約者がいることを知っていたのだろう。そして母は、父のもとへと嫁いだのだ。生島への思いを胸の奥にしまいこんだまま。そしてその後すぐに父と結婚し、一年後には真緒を産んでいる。  それが十六年前、生島の死を知ったとき発露した。当時は母が声を殺し泣いている理由が分からなかったけれど、手紙を読んだあとなら分かる。父と結婚したものの、生島のことを忘れられなかったから、あれほど嘆き悲しんでいたのだ。妻として母として生きてきた母が、そのような思いを抱いていたなんて思いもしなかった。真緒は黙り込んだまま顔を俯かせ、ゆっくりと息を吐きだした。 「十六年前、見たの。お母さんが庭の隅で泣きじゃくっている姿を。そのときは、なぜお母さんが泣いていたのか理由が分からなかった。でも、手紙を読んだら分かったの」  父に目を向けると、特に驚いてはいなかった。その姿が、母が泣いていたことや、その理由を知っているように思えてしまい、真緒はその先を言っていいものか一瞬だけ悩んだ。しかし、ここまで言ってしまった以上、言わないわけにはいかない。 「お母さん、生島さんが死んだことを知って泣いていたの。それって、つまりずっと生島さんのことを思い続けていたってことよね。そう思ったら、急に……」  なぜだかそれ以上言えなかった。 「急に?」  父から落ち着いた声で問いかけられて、真緒は小さく息を吐き出したあと、自らの感情に向き合い、それを言葉にした。 「急に、お母さんがいなくなってしまった気がしたわ。自分が知ってる優しいお母さんが」  供養の際、燃える二つの文箱を見て心中のようだと思ったのは、現世で叶わなかった恋が、常世(とこよ)で成就しようとしている気がしたからだった。文箱を燃やしていたとき、立ち上がる白煙はまるで渦を巻くように空に向かっていった。それが二人の思いがようやく重なり合ったもののように見えてしまいつらかったのだ。現世に取り残された父とともに見ているだけしかできなくて。  それに、燃えたあとの灰を寺に安置しようと言われたときだってそうだった。母と過去の恋人を一緒に供養しようだなんて思わない。しかし、父は特に気にもしていなかったようで、それが不満だったのだ。  今の真緒は、まるで子供だ。母を奪われそうになっている、幼い子供と同じ。一連の出来事が他人の話であるならば、残された父と娘を多少は慮るが美談の一つとして受け流していただろう。しかし、取り残された娘の立場にたったとき、それまでの母が偽りのものに見えたとは、さすがに口にできなかった。  胸の内に抑え付けていた感情を吐き出したあと、残ったものは痛みだった。母を失った痛みは、まるで自分の半身をちぎりとられたような痛みだった。真緒がその痛みに耐えていると、突然体を抱きしめられた。 「すまない……」  くぐもった声が耳に入り、それが父のものだと知ったとき、真緒は疑念を抱いた。 父が何に対して申し訳ないと言っているのか、分からなかったからだった。  全てを教えると言っておきながら、父から聞かされたものは余りにも少ない。 その中に、父が謝らなければならないことなどなかったはずだ。強いてあげるとするならば、あの二つの文箱を燃やしたあとの灰を寺に安置すると言ったことくらいしか思い浮かばない。真緒は、父に抱きしめられたまま、次の言葉を待つことにした。  服越しに伝う柔らかな温かさと、嗅ぎ慣れた父の匂いのおかげで、ささくれ立っていた心が少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。こうやって父に抱きしめられたのはいつ以来だろうか。そういえば、母もこうやって抱きしめてくれた。そして安心感を取り戻させてくれた。そのときと感じるものが少し異なる気がして、真緒は最後に母から抱きしめられた記憶をたぐり寄せる。  同じ親でありながら、父と母では与えられる安心感は種類が異なると真緒は思う。父が与えてくれる安心感は頑丈な鉄壁のようなもので、いかなるものをもはね付ける。片や、母が与えてくれるものはそれとは異なり、温かい風が体を取り巻くような柔らかなもののように思えた。  それは多分、十月十日母のお腹の中で過ごしたことが関係しているのではないか。遺伝子を父から受け継いでいたとしても、子供にとって母は生涯特別な存在なのだ。そう思うと、真緒は途端に心細くなった。かつて母が与えてくれた安心感を、二度と得ることができないことを思い知ってしまったからだ。しかも、自分を抱きしめてくれた母の心が、いかなるときも生島を思っていたことを知ってしまった今、過去に得ていたはずの安心感や温かさまでまがい物のように思えて仕方がなかった。  記憶に残っていた母のぬくもりが徐々に消えていく。そのせいで肌寒さを感じてしまい、真緒は無意識のうちに父に体をすり寄せた。しかし、失った分を全て取り戻すことは難しい。喪失感を味わいつつ、安心感を覚えることは妙な気分だった。しばらく抱きしめられていると、父が深く息を吐き出した。知らず知らずのうちに緊張が走り、真緒は唇を引き結ぶ。 「あのときは、ああすることが最善の方法だと思ったんだ。だが、巡り巡ってお前を悲しませてしまった。私一人が背負うべきものなのに」  その言葉を耳にしたとき、真緒は体をこわばらせた。  父がいう最善の方法とは一体なんだろう。巡り巡って自分だけではなく母をも悲しませたとはどういう意味だろう。真緒の頭の中では疑問符が飛び交っている。得体の知れぬ不安が急に広がりだしてきて、真緒は恐る恐る父に問いかけた。 「お父さん?」  呼びかけてみても、父からの返事はなかった。 「ねえ、なんの話をしているの?」  意を決して尋ねてみるが、やはり何も返ってこない。父からの返事を待っている間に、漠然とした不安は心を覆い尽くそうとしている。嫌な予感がする。父が話したことは、母の日記や手紙には書かれていないことだ。それを確信し、真緒はゴクリと喉を鳴らす。父は娘を抱きしめたまま、黙り込んでしまった。 「もしもあのまま何もしなかったら、どうなっていただろう……」  父が口を開いたのは、しばらく経ってからだった。  意味深な言葉ばかり聞かされるものだから、真緒としては気が気でない。この先どのような言葉が飛び出してくるのか予測が付かないから、不安ばかりが募ってくる。できることならこの先の話は聞きたくない。でも、聞かなければならない気がした。 「もしもあのとき彼に会わなければ、董子は彼への思いに気づかなかったと思う。彼からここへは来るなと言われて、彼女はそれに気づいたのだから」  真緒が募る不安と戦っていると、父が独り言のように話し出した。  それを耳にした瞬間、あの日記の最後のページに書かれていたことが頭に浮かんだ。真緒は目を大きく見開いて、体をこわばらせる。  日記の最後のページには、そのときのことが書かれていた。生島からきっぱり告げられてしまい、それがとてもつらくて悲しいと。そして、母は生島への恋心を自覚し、彼のもとへ駆けつけたのだ。  それまでつぼみだった恋心が心の中で花を咲かせたとき、母は生島を求めた。そして、抑え付けていた恋慕の情にのみこまれ、生島は母の思いを受け止めたに違いない。しかし、生島は母を諭した。どういった理由から自分以外の男と結婚するよう母に言い聞かせたかは分からない。けれど、今父が話したことが深く関わっているような気がしてならなかった。父がわざわざ生島のもとを訪れて母と結婚することを告げたのなら、彼が母を諭した理由が分からなくもない。だが、母が自らの恋を手放した理由が、生島から諭されたからというには少々小さい気がした。 「私は幼いときから董子のことが好きだった。たとえ彼女が幼なじみとしてしか私のことを見ていなくとも、どうにかして結婚したかったんだ。だから二人の家の繋がりを利用して結婚話を進めたが、時を同じくして彼女は彼のもとへ通い出した。その姿を見ていることしかできずつらかった。彼女が誰に恋しているのか思い知らされているようで」  両親の実家は祖父母の代から続く長い付き合いで、二人は幼馴染みだったことは真緒も知っていた。それだけに不思議だったのだ。結婚が控えていながら生島のもとへ駆けつけたことが。そして、自ら別れを切り出し、父の元へ嫁いだことが。だが、それらの答えは、あっさりと見つかった。 「だから私は董子の両親や祖父母にそれとなく伝えたんだ。彼女がわざわざ寄り道して彼のもとへ行って身の回りの世話をしていると。そう言えば、彼女の両親たちは結婚を控えている娘を案じる余り、注意をするだろうから」  真緒はその言葉を聞いて得心した。生島が母を諭した理由も、母が自ら別れを切り出した理由も、元をたどれば父の恋心からきたものだったから。いや、恋心ではない。単なる嫉妬でもな。それに言葉を付けるならば、独占欲と呼んだ方がしっくりくる。母に恋した男の中で、その恋は独占欲へと変化を遂げたのだろう。家同士の繋がりを利用し結婚まで持ち込んだはいいが、今度は母が自分とは違う男に恋してしまったから外堀をすっかり埋めてしまい、結婚せざるを得ない状況を作り上げたのだ。  しかし、母は生島への思いを捨てきれないままだった。そして、日記と手紙でそれを思い知ったとき、父は深い後悔に苛まれたのだろう。もしも何もせずにいたならば、と。  それらを振り返ると、父が話したことは的を射ている。恐らく生島からそう切り出されなかったなら、好意は恋へ変わることはなかっただろう。そして何事もないまま、父と結婚していただろうと。それに、母だってつらい思いを長年抱くことはなかったろうと。だが、父の後悔はそれではなかったようだった。 「本来ならば、董子は彼と結ばれたはずなんだ。私さえ、己の欲に負けてしまい結婚話を両親に頼まなかったら、あの二人は出会うべくして出会い結ばれていたはずなんだ。だから……」  父の声は涙交じりになっていた。真緒を抱きしめる腕が、体が小刻みに震え出す。それに気づいた娘は静かにまぶたを閉じて、自責の念で涙する父の体をしっかりと抱きしめた。 「これ、供養してもらったお寺の住所です。焼いてもらったあとの灰は、ここに置かせていただいているので、いつでもお参りできますよ」  真緒は紺色の着物を着ている男に一枚のメモを差し出した。その男は、差し出されたメモを手に取り、それを眺め始める。 「ありがとう。これでようやく親父の弔いが終わったような気がする」  向けられた顔は、実にすっきりしたものだった。それを見て、真緒は目を大きくさせてしまう。 「俺の顔に何か?」 「いっ、いいえ。あのとき遺品を無理やり押しつけられたから、てっきり邪魔なんだとばかり……」  ブーシェで生島の文箱を見つけたとき、彼の息子である恒久(つねひさ)から掛けられた言葉があった。展示会が終わったら、是非とも工房へ来てほしいと。今、真緒の向かい側にいる着物姿の男が、その恒久だった。  恒久から工房へ来るよう誘われたのは、生島の文箱を食い入るように見ていたからだと真緒は思った。購入する意思がある人間として思われていたのだろうと。しかし、恒久の工房に行ってみると違っていた。いきなりあの文箱を押しつけてきたのだ。中に入っている手紙があるから、供養できないのだと勝手なことを言い出して。  確かに恒久の言ったことも分かる。文箱は生島が作ったものではあるが、その中に収められていた手紙は、生島が書いたものではない。でも、だからといってその手紙を書いた人間の遺族に押しつけるとはどういうことだと真緒は思ったものだった。 「本音を言えばこっちで全部供養してやりたかったけれど、その為には董子さんの文箱が必要になる。だから、実はそれを手に入れるためあなたを工房へ呼んだんだ。すぐに分かった。あなたが董子さんの娘だと」 「えっ?」 「そっくりだからね、俺が工房に引き取られてきたとき見た董子さんの姿と」  真緒は瞬きしながら、恒久の顔をじっと見る。工房へ引き取られてきたときと言っていたが、彼は確か生島の息子ではなかったか。それとも、例えば離れた場所に暮らしている生島の妻のもとから引き取られたか。様々なケースが浮かんできてしまい、真緒は混乱してしまう。 「俺、親父のもとに来たのが六歳のときで、ちょうど董子さんが親父のもとに通っていたときだったんだ。きれいな人だった。俺にもとても優しくて。董子さんが母になってくれたらなって思うほどね」 「あ、あの、つかぬ事を伺いますが、あなたは生島さんの息子さん、ですよね?」 「俺? 俺は親父の姉の息子だよ。親父には子供なんかいないし、それより以前に結婚しなかったんだ」 「どういう、ことです?」  意外な事実を耳にして真緒がうろたえていると、恒久は苦笑しながら小さなため息を漏らした。 「生島家は江戸時代から続く家でね。代々漆器と螺鈿を扱ってきた。親父はその当時生島家の当主だったんだ。だが、いつまで経っても結婚しない親父に、ついに本家のうるさがたが出張ってきてね。このまま生島の家を途絶えさせるつもりかって。それで苦肉の策として、俺が養子になったわけ。それが俺が六歳のとき。そしてその当時、親父には恋人がいた。あなたのお母さんである董子さんだ」  真緒は恒久の話に耳を傾けた。 「生島家の家紋は蝶だ。代々の当主は自分の蝶を螺鈿で作り上げて、それを装丁に用いることが多かった。いつも身の回りの世話をしてくれる董子さんのために、親父は文箱を作っていたんだ。そのとき親父が作った蝶を漆を塗る前の蓋に置いていたら、董子さんがこう言ったんだ。一匹だけなら寂しそうと。だから親父はもう一匹蝶を作って、それをあしらったものを贈ったんだよ。そして、対の構図のものを作って手元に置いていたんだ。多分そのあたりから親父は董子さんに好意を抱いていたんだと思う」  昔を懐かしみながら話す恒久の表情は、すっかり柔らかくなっていた。しかし、すぐにその表情が曇り出す。 「恋人がいながら、なぜ親父は彼女と結婚しないんだろうって思ってた。それだけ二人は仲が良かったし、董子さんは親父の身の回りの世話をうれしそうにやっていたから。でも、今思えば親父は董子さんに婚約者がいたことを知っていたんだと思う。だってその相手が相手だからね」  恒久が苦笑しながら、視線を落とした。  真緒の父の実家は、町でも有数の名家だ。それに、祖父は商工会議所の会頭を務めていた人間だった。当然地域産業に従事する人間達との繋がりは深い。だから、生島がそのことを知っていても何ら不思議ではないと言うことだ。 「ただなあ、恋ってやつは押さえ付ければ押さえ付けるほど募るものだから、親父としてはそのときが来るまで側にいたかったんだと思う。たとえ好きだと言えなくてもね」 「そう、ですか……」  このとき、真緒は当時の生島に自分自身を重ね合わせていた。母が亡くなる少し前、真緒は自ら恋を手放した。それはずっと思っていた相手が、自分とは違う相手と結婚したからである。彼は同じ会社の人間で、結婚相手は会社の重役の一人娘だった。  どう足掻いても叶わぬ恋だった。しかし、結婚が決まったからといって、思う気持ちはすぐには消えうせてくれはしない。だから、真緒は時を待った。彼らが結婚するまでに、恋心を手放そうと。  そして二年が経とうとしているが、彼への恋心はいつまで経っても心の奥で燻ったままだった。新しい出会いもそれなりにあったけれど、踏ん切ることができないまま、その出会いは目の前を通り過ぎていく。そんな自分を変えようとは思うけれど、すぐに切り替えできないものだから、心のどこかで諦めている節がある。真緒は恒久の話を聞きながら、小さなため息をついた。 「親父はずっと独り身だったけれど、董子さんと過ごした思い出があったから、それで十分だったんじゃないかな」 「え?」 「たとえ添い遂げられなくても、相手の幸せを願い続ける愛し方もあるんだなって、俺は親父を見て学んだよ。実際親父の願い通り、董子さんは幸せな結婚生活を送っていたみたいだし。十年くらい前かなあ。ブーシェで見かけたんだが、旦那さんと二人で漆器を選んでいた姿は仲睦まじかった。見ている方が照れくさくなってしまうほどね。そういう意味では親父の願いは叶ったんだ。俺はそう思ってる」  そう言って恒久は、真緒が差し出したメモを懐にしまい込んだ。  父と恒久それぞれから思いがけない話を聞かされてから、真緒は思い悩むことが多くなった。  全ての始まりは、あの文箱を見つけてしまったことだ。  もしも見つけたとき、風呂敷に包まれたまま遺品として片付けていれば、今のような状況にはなっていない。それに両親のことだって、複雑な気持ちを抱かずに済んだだろう。  良妻賢母の見本のようだった母は、その裏で結婚前に恋した男をずっと思い続けていた。  愛妻家の父は、愛する人が離れていくのを恐れるあまり計略をめぐらせた。  それまで知る由のないことばかり知ってしまうと、娘としては戸惑うばかりだ。  両親は娘の目から見ても仲睦まじかった。二人が寄り添い合う姿は年を重ねていたとはいえ、見ている方が照れくさくなってしまうほど仲が良かった。しかし、母の心には常に生島がいたのだ。それなのに、父に寄り添い続けていたことが真緒には理解できなかった。  恒久が話していたとおり、仲よさげに寄り添う二人の姿は、はた目には幸せな夫婦に見えるだろう。しかし、母は生島への思いを胸に秘めながらそうしてたのだ。二人で漆器を見ていたというが、母はどのような思いで父とともに器を見ていたのかと思わずにいられない。  それに、父だってそうだ。幾ら母と結婚したかったからといって、生島に忠告まがいのことをほのめかしたり、母の実家を巻き込んでいいわけではない。そんな真似をしてまで母と結婚して、父は果たして幸せだったのかと思ってしまう。その父はあの日以来、ずっと塞ぎ込んでいる。  両親に潔癖さを求めているわけではない。しかし、子供にとって親というものは人としての在り方を教えてくれる最初の存在だ。それだけではなく、他者との繋がりや恋愛、果ては夫婦の在り方をも示してくれる。真緒にとって、両親は理想そのものだった。両親のような夫婦関係を、いつか誰かと築いていけたらと思っていたのだ。そう思っていた娘にとって、父と母のことは正に青天の霹靂だったといえよう。  また、母を愛し続けた生島にも思うことがあった。  父は母を愛するあまり、その思いが独占欲へと変わっていったのだろう。それに対して生島は、母の幸せだけをひたすらに願い続けていたという。母に恋した二人の男がたどりついたものを考えれば、どちらのほうが幸せなのか考えずにはいられなかった。  やはりあの文箱を見つけなければ良かった。日記も読まなければ良かった。  真緒がそう悔やみ続けている間に、母の一周忌の法要が行われる当日になっていた。  その日は朝から晴天だった。  深い青が広がる空はどこまでも晴れ渡っていて、いっそ憎々しい。  真緒は父とともに亡き母の一周忌を執り行ったあと、父の実家である高藤家の墓の前にいた。墓前には母が愛したヒナギクが供えられている。線香の香りが漂う中、父と娘がそれぞれ物思いに耽っていると、寺の住職が早足でやって来た。 「良かった、まだいらっしゃって」  住職は父と娘の姿を目にし、ほっと安堵したような表情を向ける。既に法要は終わったのだし、あとは墓参りをすませたら家路につくだけになっていた。 だが、息せき切ってやってきた住職を無碍に扱うことなどできず、真緒は呼吸を整えている高齢の住職に近づいた。 「どうなされました?」  真緒が問いかけると、住職は懐から白い封筒を差し出した。 「故人さまからお預かりしていたものです。一周忌が終わったら施主さまに渡すように、と」  真緒が目を大きくさせて父を振り返ると、怪訝そうな表情を浮かべていた。 故人さまということは、亡き母だ。その母の法要で施主を務めた父にあてた封筒の中には、何が入っているのだろう。真緒がおずおずとしながら封筒を受け取ると、住職は頭を下げてからその場から離れていった。  立ち去る住職の後ろ姿が見えなくなってから、真緒は父に封筒を手渡した。父は戸惑いの表情を浮かべたまま、封筒の中に入っていた手紙を取り出し読み始めた。その様子を娘は黙ったまま、じっと見つめている。重苦しい空気が漂いだしてきて、息が詰まりそうだった。だが、真緒は手紙を読んでいる父を凝視し続けている。すると、突然父の目から一筋の涙がこぼれた。真緒は目を見張る。 「お父さん、何が書かれているの? お母さんはなんて?」  真緒が身を乗り出して尋ねると、父は何も返さず、手紙を差し出した。  父から差し出された手紙を読んだとき、真緒は目を疑ってしまう。  今は亡き母からの手紙には、たった一言だけ書かれていた。  愛するあなたに愛されて、とても幸せでした、と。  手紙の最後にある日付は、母が亡くなる少し前だった。恐らく自らの死期を悟った母が、遺言替わりに認めたものだと思われる。そこに書かれている一文を目にした真緒は戸惑った。  母は生島を思い続けていたはずだ。だから十六年前、生島の訃報を耳にして泣いていたのだから。それなのに、今目の前にある手紙には、愛する父に愛されて幸せだったと書かれている。あの日記と手紙を読んで一度覆ってしまった優しい母の姿が脳裏に浮かんだ。真緒が二つの異なる印象を持つ母の姿に戸惑っていると、父が静かに話し始めた。 「董子と結婚する前の日、生島さんが私の職場にやってきてね。彼は私に頭を下げてきた。必ず幸せにしてほしいと。そのとき、私は彼に誓った。必ず董子を幸せにすると」  意外な事実を聞かされて真緒は目を大きくさせた。父は、まるでそこに母がいるかのごとく、優しいまなざしを墓に向けている。その姿を眺めながら頭の中で父の言葉を思い返したとき、娘はあることに気がついた。それまで父は、決して生島の名を口にしなかった。ただ「彼」としてしか呼んでいない。それが今はちゃんと生島の名を口にしている。真緒は次の言葉を待った。 「董子が亡くなるときまで、その約束を忘れない日はなかった。もし少しでも気を緩めてしまえば、董子を奪われてしまうから。それと同時に私は董子に対しても生島さんに対しても罪悪感を抱いていた。その理由は話したね」  父から苦笑を向けられたとき、真緒は頷くことしかできなかった。 「あの手紙を読んだとき、私もショックだった。日記と文箱を隠し持っていたことを知っていたから、特に。でも、これは自業自得だ」  自嘲めいた笑みを浮かべる父の姿を目にして、胸が痛んだ。  きっと父はあの手紙を目にしたときから、ずっと自責の念に苛まれているのだろう。 「董子は生島さんのことをずっと思い続けていると思っていた。しかし、あの手紙の内容を思い返してみると、董子のなかで生島さんとの恋は終わらせたんじゃないかと思ってね。だから思い出を胸にしまいこんで結婚すると書いたのではないだろうか。といっても、この解釈だと私に都合が良すぎるが」 「お父さん……」 「そう思い至ったあと、董子がなぜ生島さんとの思い出の品を持っていたのかを考えていた。そして、さっき法話を聞いたとき、あれはもしかしたら供養のようなものかもしれないと思ったんだ」 「えっ?」  真緒は、手紙から父へと目を走らせた。  父は母が眠っている墓を再び優しく撫で始める。 「さっき、聞いただろう? 亡き人を思うだけでも供養になると。もしかしたら、董子にとってあれはそういうものだったんじゃないかと思ってね」  一周忌の法要が終わったあと、真緒と父は住職の法話を聞いていた。その中で聞かされたものが、亡き人を偲ぶことも供養になるというものだった。もしも父の言う通りなら、母が供養していたものは、自ら手放した恋だ。もしもそうだとしても、ひとつだけ腑に落ちないことがある。 「でも、生島さんが亡くなったと知って、お母さんは隠れて泣いていたわ」  真緒の中で、母が生島のことを思い続けていたと思い込んでいる一番の理由は、十六年前の出来事だった。恒久から聞いた生島が亡くなった時期と、母が庭先で泣きじゃくっていた時期はぴったりと重なっている。その上、あの手紙だ。母は生島への思いを胸に秘めたまま父のもとへと嫁いだに違いない。真緒が唇を引き結び顔を俯かせていると、父は娘の肩を抱いた。 「自分自身と一時でも時間を共有した上に、深い関わりがあった人間が亡くなったと知ったら誰だって悲しむ。それに、関わりが深ければ深いほど、悲しみだって深くなる」  父から諭されて、真緒は頷いた。  亡くなった母の胸の内は分からないけれど、父が話したとおりなら、全てに合点がいく。あの文箱と日記と手紙は、いわば過去の恋の形見のようなものだから。そう思い至ったとき、優しい母が戻ってきてくれた気がした。真緒は、一時でも母を疑ってしまったことを悔いた。 「さあ、法要も終わったことだし、董子が好きだったレストランで食事をしていかないか?」  父はそう言って、肘を差し出してきた。そう言えば父はいつもこうやって、母に肘を差し出していた。母はちょっと照れくさそうに、しかし嬉しそうな顔でその肘に腕を回すのだ。それを思い出した娘は、小さく頷いたあと、父の肘に腕を回したのだった。  父とともに寺を出て、母が好きだったレストランへと向かう道すがら、真緒はかつて好きだった相手と妻が一緒に歩いている姿を見かけてしまう。彼らは楽しそうに話しながら、どこかへ向かって歩いている。その姿を目にしたとき胸の奥が痛んだが、好きだった人が幸せそうにしている姿を見ているうちに、その痛みは少しずつ薄れていった。  恋の残り火はまだ完全には消え失せていない。これから同じような光景を目にする度、胸は痛むだろう。でも、彼が幸せならば、それでいい。そう思ったら、少しばかり残っていた痛みが、引き潮のように消え去っていった。その痛みがすっかり消えたあと、腕を組んでいる父の顔を見上げると、晴れ晴れとした表情を浮かべていた。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!