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接吻

 誰にでも忘れられない思い出の一つや二つある。  その思い出はふだんこそ記憶の引き出しの中で眠っているけれど、ふとしたときに浮かんでくる。そのきっかけとなるものの多くは、匂いだったり感触であったり様々だ。それらに触れたとき、現在にいながら過去へと旅立ち、懐かしい思い出に触れることができる。  由理は唇に指をそっと押し当てた。ふっくらとした唇には、淡いピンクのルージュが塗られている。口紅と同じ色合いのマニキュアが塗られた指先を、ほんの少し押しつけてみると、最後に交わしたキスの思い出が浮かんできた。そして胸がじんと熱くなる。とくとくと忙しなく鼓動が脈打ち、やがて緊張でこわばった体がじんわり温かくなってきた。彼女にとってキスの記憶をたどることは、緊張を解す儀式のようなものだった。唇に指を押しつければ、いつだってそのときのことを思い出し、体だけでなく心までも温かくなってくるからだ。  だがしかし、ここは見合いの席である。今日は、由理にとって三度目の見合いが行われようとしているのだが、そんな場所でやっていいことではない。何せキスした相手と違う男とこれから見合いをするからだ。  由理は今年二十九になる。地元の大学を卒業したあと、市役所のアルバイトをしている。本当はバイトでなく会社員として働きたかったけれど、彼女の両親が早々に結婚させたいばかりにこぞって反対したのである。今の時代正職員だからといって、結婚が遅れるようなことはないのだが、古くさいもとい古風な考えを持つ父親は今でもそう思い込んでいるようだった。  それに彼女の父親は、また違う狙いを抱いていた。得体のしれない会社員のところに嫁いで苦労するより、しっかりしたところに勤めている公務員の方が後々安泰だと思っていたのである。だがそんな父親の期待を裏切るように、彼女は色めいたこともないまま今に至っている。それに業を煮やした両親は、ついに公務員限定の見合い相手を探し始めたのだ。  初めて見合いした相手は、どこから探し出してきたのか総務省の人間だった。二度目の相手は財務省。いずれも本省に勤務しているれっきとしたキャリア官僚だった。父親の当初の獲物(ターゲット)は、市役所勤務の公務員だったはず。それがどうしてキャリア官僚と呼ばれる人間相手に変わったのだろう。そこが分からない。  しかしよくよく考えてみると、公務員と言えば市役所しか思い浮かばなかった父親が、いろいろ調べてみたところ本省勤務というものがあると分かったからだろうと思い至った。それなら理解できると。  そんな父親に見合いを言い渡されてしまったが、もともと見合いを断る気満々の由理は軽く受け流した。それだけでなく、見合い相手の写真やプロフィールを見ることなく、その場に向かうのだ。何せ断る気満々だ。見合いをしたあと、いろんな理由を挙げつらね断ろうと思っていたから、その相手がどんな肩書きを持っていても関係なかったのである。  そうやって断り続けた現在、三度目の見合いの席である。由理は季節に合わせ、白いナツツバキが描かれた色留め袖を身につけていた。由理は未婚である。本当ならば振り袖でも構わないのだが、彼女の母親が用意したのは未婚既婚問わず着用できる淡いクリーム色の色留め袖だった。  それに濃いグレーの帯と、真っ白な帯紐を組み合わせ、大人の落ち着きを際立たせた。ほっそりとした顔立ちが目立つため、ふだんは下ろしている髪を夜会巻きにあげさせられている。そして清純そうな顔に、うっすら薄化粧を施された。 「これでどうにか誤魔化せる」と意味不明な言葉をつぶやいた父親に、由理は文句のひとつも言いたくなったが、何せ帯のせいで胸が苦しい。だから自宅につくまで我慢しようと思ったのだった。  三度目の見合いまでの出来事を振り返っているうちに、見合いの時間になっていたらしい。由理と彼女の両親がいた控えの間に、仲居の女性がやってきた。そして今度はどこの人間だろうと思いつつ、由理はしずしずと見合いが行われる部屋へ向かったのだった。 「|中院(なかのいん) 徳也(とくや)と申します」  鏡のように磨き上げられた漆塗りの卓の向こうで、恭しく頭を下げた見合い相手はなかなかの男前だった。今でこそ仕立ての良さそうな黒いスーツを着ているが、着物の方が似合いそうな気がした。ほっそりとした顔立ちに涼しげな目元、髪は短く刈り上げられていて清潔感が漂っている。それに高すぎず低すぎずよく通る声だった。由理は頬を赤くさせながら、徳也の顔に見入っている。内心で父親への文句を言いながら。 (ずっとお見合い断り続けているからって、イケメン公務員連れてくることないじゃない!)  恐らく両親の良いところを良いバランスでもらったからだろう。それだけ整った顔立ちをしていた。由理は失礼に当たらぬように細心の注意を払いながら、徳也の両側に座る彼の両親を眺めていた。  一度目の見合いは相手が余りにも堅物だったから息が詰まった。二度目の見合いは言動が余りにも軽すぎて辟易した。それらを口実に断ってきたのだが、まさか相手がいい男すぎることを理由に、見合いを断ることになるとは由理自身思いもしなかった。とはいえ実際それを断る理由にはできないが。それならば理由を作れば良い。そう思って由理は見合い相手と二人きりになるときを待つことにした。  やがて見合いの仲立ちを務めてくれた老夫婦が、それとなく徳也のことを褒め始めた。見合いは、当事者を褒めて褒めて褒めちぎる場だということくらい分かっているが、それでもこれが始まると少々げんなりする。由理は心の中でうんざりしながら、それを決して顔に出さぬよう聞いているフリをし続けた。  だがそれまでの見合い相手より、かなりハイスペックな徳也の話についつい聞き入ってしまっていた。彼は国立大学を首席で卒業したあと、しばらく大学院にいたのだが、その後突然公務員になったようだった。  現在は外務省欧州局政策課で日々働いているエリートらしい。海外での勤務経験もあり、英語はもとより、フランス語・スペイン語・ロシア語・ドイツ語を話せるらしい。それらを耳にするたび、由理は見合い相手のすごさに圧倒されてしまい、一刻も早く見合いが終わることを心の中で願っていた。  それを仲立ちの人間が褒めるたび、誇らしげにしている両親のあいだで徳也は苦笑していた。それに気づいた由理は、ついつい徳也のイケメン顔をじっと凝視した。それというのも、今まで見てきたイケメンの反応と違っていたからだ。  由理が勤めている市役所にも、顔がいい公務員の男性はいる。ただそういう男の大半は自分の顔がいいことを自覚していることが多い。ちょっと声をかければ、目がハートマークになって当たり前という気になっているものだから、何度心の中で殴ったか分からない。  そんな残念な男たちは褒められることに慣れきっているので、言葉では謙遜しながらもどこか尊大な態度を崩さない。特に目は。だから由理は表情では、困ったような顔をしている徳也の目をじっと見始めたのだった。  すると予期せぬことが起きた。徳也がそんな由理に気づいて、彼女に目を向けたのだ。徳也と目が合った瞬間、心臓をぎゅっと握られたような痛みが走った。それだけではない、時間が止まったような気がしたし、二人以外の人間の気配が消えていた。  ああ、あのときと同じだ。由理はそう思った。そしてキスの思い出が頭の中に浮かんできたと同時に、ほろ苦い思い出が浮かび上がってくる。その思い出こそが彼女の忘れ得ぬ思い出のひとつであり、見た目が良い男が苦手になった理由だった。それがあったから、見た目が良い男イコール自意識過剰という図式が彼女の頭の中にできあがり、以降できるだけ避けるようになったのだ。  きっと見合い相手もあの男と同じだ。顔が良くてハイスペックな男ほど、傲慢な男はいない。そう思わせた相手の顔はもう思い出せないけれど、どうしてかその男と交わしたキスの感触は、今もなおはっきりと覚えている。初めて恋した相手だからなのか、それとも初めてのキスだったからか分からないけれど。でも、もうあんな思いはこりごりだ。由理は過去への旅を取りやめて、目の前で自分を見つめる徳也に愛想笑いで返したのだった。
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