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夫(男)と妻(女)のむねのうち

「ねえ、男を落とすランジェリーってどんなのだと思う?」  俺はすぐさま妻を見た。妻はピンクのブラジャーを両手で掲げながら険しい表情を浮かべている。  何がどうしてそんな質問をしたのか理解できず、恐る恐る声を掛けた。 「あ、あのさ。なんかあったわけ?」 「なんで?」  ぐりんと勢いよく妻は俺を見た。その手にはまだブラがしっかりと握られている。  まるで親の仇でも見るようににらみ上げられてしまい、俺はかなり動揺してしまった。 「いや。その。なんで今更男を落とすランジェリーがどんなものか聞くからさ」  すると妻の目が厳しいものに変わった。 「今更?」 「あ? え?」 「あんた、今更って言ったわよね! 何よその今更って!」  物凄い勢いで詰め寄る妻。俺はその迫力に圧されてしまい、無意識のうちに腰が引けていた。  どこにでもある一軒家のリビングには、冷たい空気が流れている。それに妻の背後から怒りのオーラが漂っていた。ただならぬ様子を見せている妻を見つめていると、俺をにらみ付ける目がウルウルと潤みだした。 「どうせね。私なんか女じゃないって思ってるんでしょう!」 「は!?」 「こんなかわいいブラなんかもう似合わないって思ってんでしょう? だからそんな言葉がすらっと出てくるのよ! このあんぽんたん!」  怒りの形相を浮かべている妻がすっくと立ちあがり、俺を見下ろしながら叫んだ。  問われたものに答えたいけれど、その前に勝手に自己解決してしまった挙げ句罵倒された。  結婚して五年目の夫婦だ。今までだって多少の口論はあったけれど、ここまで怒り心頭になった妻の姿を見たことがない。どうやって宥めようか考えていると、妻がその場にへたり込みついには泣き出した。 「お、おい。どうしたんだよ。いったい何が―――― 「だ、だから浮気したんでしょう?」  ブラを握りしめながら妻が訴える。突然飛び出た単語に驚いてしまい、結果何も考えずに聞き返していた。 「うっ、浮気い!? 誰がだよ!」 「あっ、あんたがっ、この前ラブホの前にいたっ! 見たもん! 若い子と一緒にラブホ入っていったの見たもん!」  妻はそう言った後握りしめたブラで目を押さえつけ、子供のように泣きじゃくっていた。 「それで奥さんになんて説明したの?」  そう言いながら彼女はたばこに火をつけた。ほっそりとした指には細いたばこが挟まれている。 「俺の方が聞きたいよ。全く……」  ため息交じりにそう告げると、隣でたばこを吸ってる彼女がころころと笑いだした。 「じゃあ、まだ浮気してるってことになってるんだ」 「そういうことだ。おかげで朝飯はないわ、弁当もなしだよ。この調子じゃ夕飯もないだろうな」 「私が奥さんだったら、ぶん殴ってるわ」 「やめろ。実際ぶん殴られそうになったんだ」  というのは盛り過ぎだが、実際妻が勢いよく立ち上がったとき殴られると思ったのは本当だ。  それだけ妻は怒りを露わにしていたし、ブラを握りしめた拳を振り上げていた。 「そろそろ話した方がいいんじゃない?」  俺がプレゼントしたブラを握りしめ立ち上がった妻の姿を思い出していると、彼女が煙を吐き出しながら問いかけてきた。 「何度か話そうとしたんだが、いざとなるとどうもな……」 「そうやって伸ばし伸ばしにしているうちに言いだしにくくなったんでしょう。気持ちは分かるけれど―――― 「じゃあなんだ? 仕事で妻以外の女とラブホ巡りをしてますって言えばいいのかよ」  そう言い放つと、浮気相手と思われている彼女は苦笑していた。 「その言い方だけはよした方が良いわね」 「ああ?」 「私があなたの奥さんだったら、問答無用でぶっ殺すわ」 「なんで?」  恐ろしい単語が飛び出たものだから、身を乗り出してその理由を尋ねると、彼女は呆れかえった顔をする。 「だってなんでそう言うことになったのか話してないもの。幾ら仕事とはいえ自分以外の女とイチャコラする場所に行かれたら、誰だって不安になるものよ」 「仕事だから仕方がないだろうが」 「男はその言葉で全部片付けようとしてるけれど、それってただの怠慢だと思うわ」  相棒の彼女から痛いところを付かれてしまい、何も言葉が出なかった。 「あのね、女ってちゃんと説明してくれたら笑って受け流すことができる生き物なの。でもその努力をしないから誤解が生じて溝になるの。あんた結婚して何年経つのよ、ばかじゃないの?」 「女の考えていることなんざ、男は一生理解できねえよ」 「またそうやってすぐ投げ出す。それ、悪い癖よ。だからあんたがデザインしてる部屋は人気がないのよ」 「大体よ、男の俺が女が望むような部屋をデザインできるわけねえだろうが……」  そうぼやくと、相棒は呆れかえった顔で俺をにらみ付けていた。  あれはもう一年も前の話になる。親会社が経営危機に陥っていたラブホを幾つか買収し、そのリノベーションを任されてしまったことがすべての始まりだった。  コンセプトは女性にとって居心地のいい部屋。それがどのようなものか、相棒とともに人気のあるところを見て回っていたのだが、それを妻は目にしてしまったのだろう。しかも俺と同じ年の相棒を若い女だと勘違いして。  ラブホなんかもう数年も利用していない。それに結婚前に妻と逢瀬を繰り返していたのは、ラブホではなく普通のホテルだった。仕事を請け負ったとき、そんな話を上司にしたのだが、そのとき思いがけない言葉を掛けられた。 『なら奥さんと一緒に利用してみたらいいんじゃないか? 奥さんだったら遠慮なく意見してくれるだろうし。そういった意見のほうが参考になると思うよ』  若い夫婦ならそれもありかもしれないけれど、互いに四十に近い夫婦だ。今更妻に対しそう言った行為をするためだけの場所へ行こうとは言いづらいものがある。だから妻には言わず相棒を伴って行ってるのだが……。 『私なんか女じゃないって思ってるんでしょう!』  妻だって俺のことを夫としてだけでしか見ていない、はずだ。  その証拠に俺の目の前でハリウッド俳優の体を眺め、ぽうっと頬を赤く染めている。  そんな姿を見てしまえば、結婚というものは男と女を夫と妻に、そして子供がいるならば父親と母親にしてしまうのだと痛感させられる。そういった肩書は男と女であることを、忘れさせていくものなのかもしれない。  今夜、仕事のことをちゃんと話そう。そして昔のようにデートして、その後一緒に行こうかな。  もうそういった行為は期待しないけれど、身近にいる女性の意見を聞ける絶好の機会だ。  いや下心は全然ないわけではないけれど……。  仕事の合間の休憩時間に、缶コーヒーを飲みながらそんなことを考えていた。  するとなぜだか妻が握りしめていたピンクのブラが頭に浮かんだ。  結婚する前は気障ったらしいセリフとともにランジェリーを贈ったものだ。  それを恥ずかしそうにしながら受け取る妻の姿が可愛くて。  そう言えば結婚してからは、そういったプレゼントは贈っていない。  そろそろ妻の誕生日だし、プレゼントをきっかけにして仲直りをしたかった。  その後の行動は自身でも驚くほど素早くて、仕事帰りに久しぶりにランジェリーショップに立ち寄った。  自宅に戻ってみると案の定夕飯は用意されていなかった。妻はどこから買ってきたのか、美味しそうなデリカを一人で黙々と食べている。仕方なく非常食のカップラーメンを食べたのだが、全く味が分からない。  そう言えば妻と結婚を決めたのは、二人で同じものを分かち合いたかったからだった。  食事も空間も、そして嬉しいことも悲しいことも。  それを思い出しながらラーメンをすすっていると、情けない気持ちになっていた。  早く妻に話そう。そして元の俺たちに戻ろう。  そうすればこんな惨めな気持ちはすぐに消えうせる。  そう思い立ちラーメンを食べ終えたあと紙袋を持って、テーブルで食事している妻の向かいに腰掛けた。 「あのさ、聞いてくれるかな」  恐る恐る尋ねると、妻は食事をとりながら上目遣いで睨みつけてきた。 「俺さ、一年前からラブホの部屋のデザインを任されてさ。それでカップルのふりしてチームの人間と人気のところ回ってたんだ」 「わざわざカップルで行かなくたっていいじゃない。おっさん一人で入ってもいいんだしさ」 「注文がさ、女性にとって居心地のいい部屋なんだよ。だからチームの女性と一緒に行って、意見をもらってたんだ」  そう言うと妻はスプーンを置いて俯いた。 「なんでそう言うこと教えてくれなかったのよ」 「ごめん、なかなか切り出せなくてさ……」 「そういうことをするからいろいろ疑うの。同じベッドに寝てても結局は赤の他人なの夫婦って。だから言ってくれないと分からないし、不安になるのよ」  手厳しい言葉を告げたあと、妻は黙り込んだ。その姿はいつもより頼りない。  見ていられなくなってきて、持って来た紙袋を差し出した。 「これ、少し早いけどプレゼント」  妻はふて腐れた顔のまま、それに手を伸ばした。 「開けてみて」  妻は紙袋の中からハート型の箱を取り出した。リボンを解いたあと蓋をゆっくりと開く。そしてすぐに嬉しそうな顔をした。その中に入っているのは、妻が大好きなイタリア製のランジェリーだ。 「俺以外の男を落とすランジェリーがどんなものかは知らん。だが俺は俺が選んだものを身に着けてくれたら確実に落ちる。お前に限って」  久しぶりに気障な台詞を言ったがいいがどうにも照れくさい。妻も照れくさそうにしている。  この流れで二人でラブホへ行こうと誘いたかったけれど、どうにも恥ずかしくてできなかった。
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