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「愛してる」  耳元で囁かれるその言葉は、私を嘘つきに変える。 「そういうの、苦手なの」  顔が見えないことをいいことに、胸の痛みをこらえながら面倒くさげにそう言えば、背後から抱きしめている夫はこりもせずにまた囁いた。 「心から君を愛してるんだ」  言葉で駄目なら態度で示せばいい。腰に回された腕を振りほどき、体を離そうとしたけれど、それができなかった。全身を包み込むように抱きしめている男の体温が心地よくて。でもそんなこと気取られる訳にはいかない。だから私は夫に嘘をつく。 「そういうのは苦手って言ってるでしょ?」  互いの家同士の為とはいえ、愛する人と別れてまで私との結婚を選んだ男。それが夫。その事実を知ったとき、彼に対して抱いた恋心は木っ端みじんに砕け散ったものだった。そしてその破片は今もなお、私の心に突き刺さったままになっている。  夫が彼女のことを今も愛しているのを、私は知っている。手帳の中に彼女の写真が挟まったままになっているのを見たのは、結婚してすぐの頃。そしてそれから二年経った今もそのままになっている。  もしかしたら別れたと見せかけて、ずっと関係を続けているかもしれない。むしろそうあってほしいと私は思っていた。だってそれならたとえ不倫であっても、彼は大好きな人と一緒にいることができるのだから。私は政略結婚で妻の座を得たけれど、夫の心まで縛るつもりはない。時折夫婦のまねごとさえできればいい、そう思ってた。  でももう限界。一緒にいることが苦しい。そして囁かれる言葉を耳にする度胸が苦しくなる。私のことを愛してもいないくせに、なぜ甘い言葉を言えるのか。心の中に彼女を住まわせながら、なぜあのように情熱的に私を抱けるのか。こうやって抱きしめられるたびに疑問符が駆け回る。男という生き物が愛などなくとも女を抱けることくらい分かっていても。  ベッドで夫を受け入れるたび、彼女の代わりに抱かれていると思うだけで、悲しい気持ちになってくる。夫の嘘を受け入れた罰、そして夫を愛しているのにそれをひた隠しにして拒む嘘をつき続けた罪は、らせんのように絡まり合って、私自身を苛んでいく。 「もう一度言うよ。君を愛してる」  その言葉を振り切るように、無理やり体を離そうとしたら、急に腰を引き寄せられた。そして夫は優しい嘘を耳元で繰り返す。その優しい嘘は、私を嘘つきに変える。 「あなたなんか嫌いよ。だから離して」 「いやだ」  夫をにらみ付けてみるが、彼は全く動じずに気だるげなため息を漏らした。 「なぜ、そうまでして私を拒む?」 「あなたを愛していないから」 「嘘だ。私はあなたに愛されていると思ってる。たとえ言葉で拒まれていても」 「あなた、前々から思っていたけど相当の自信家よね。私があなたを愛しているですって? うぬぼれるのもいい加減にして。他人の胸のうちなんか見えるわけがないのに、よく言えたものだわ」  あからさまにそう言うが、夫は更に私を抱きしめる。触れたところから伝う体温が、理性をじわじわと溶かしていく。駄目、溶かさないで。離して、私が本当のことを口にする前に。既に溶けかけている理性をかき集め、あらがいの言葉を口にしようとしたけれどできなかった。 「あなたは気づいていないかもしれないけれど、ふとしたときに愛されていることを実感できる」 「それはあなたの勘違いよ」 「勘違い?」  私の顔をのぞき込みながら、夫が薄く笑う。 「じゃあ聞かせてもらおうかな。私のどこが嫌い?」 「全部よ、全部。とにかく嫌い」 「それはひどいな。そうまで嫌いな男に抱かれるのは苦痛じゃないか?」 「苦痛以外なにものでもないわ。だからその気になったら他を当たって頂戴。私は構わないから」  心にもないことを口にするたび、気力が削がれていく。しかもそれは自ら鋭いナイフで心を切り刻む行為だから当然痛みが伴う。嘘をつくたび私の心は悲鳴をあげる。しかもその悲鳴は私の心の中でいつまでも反響し続けるのだ。もう耐えられない。胸の奥から熱いものがせり上がり、それをぐっと抑え込んだ。するとそれにあらがうかのように体が小刻みに震え出す。 「とにかく、もう嘘はまっぴら。私が何も知らないとでも思ってるの?」  体が震える。胸の奥が痛い。視界が歪む。夫がはっとした顔をするのが見えた。 「なんのことだい?」 「あなた、好きな人がいるのでしょう? それなのになぜ私を抱けるの? それが男というものなの?」  怒りと諦めのせいで、堰を切ったように次々と言葉が溢れてきた。言葉だけじゃない。涙さえぽろぽろとこぼれてきた。理性が夫の体温で溶かされてしまうその前に、せめてもの抵抗を試みたけれど失敗に終わったようだ。一度溢れてしまった感情は、そう簡単には鎮まらない。それまでずっと心の奥にしまいこんでいた疑問をぶつけていた。夫の返事が怖い。現実を突きつけられてしまうのが怖い。それを目の当たりにしてしまえば、もう……。 「君は誤解をしている」  夫は深いため息を吐き出した。 「おおよそ結婚前のことを誰かから聞いたのだろう? 彼女とは別れた。でも君と結婚するからという理由ではない。彼女が私以外の男に好意を抱いたことに気づいたからだ」 「え?」 「気づいていたんだ。彼女の心変わりを。でもそれを認めたくなかった。だけど、他の男を思っている彼女を抱けば抱くほど空しくなる。だからちゃんと話し合って別れた。君と出会う少し前のことだ」 「じゃあ、なぜ彼女の写真を手帳に挟んだままにしているの?」  苦笑する夫を見上げてそう言うと、彼は困ったような顔になった。 「見つけたのか……」 「結婚した直後見つけたの。今もそのままになってる。あれを見れば誰だって思うわ。彼女のことを好きなままなのだと」 「捨てようとは思った。結婚するときに。でも彼女と付き合った過去を捨ててしまうような気がしてできなかったんだ。話し合って別れたつもりでも、完全に吹っ切れていなかったのだと思う」  でもね、と夫は私の涙を指で脱ぐい取りながら続けた。 「今はもう彼女のことは過去のものになっているんだ」 「過去?」  夫が優しい笑みを浮かべながら頷いた。 「彼女と別れたあと、君との縁談の話が出てね。私としては断ろうと思ってた。気持ちの整理がついていないから。でも……」  体を抱きしめる力が強くなり、ぎゅっと抱きしめられた。 「私に向けられたまっすぐな瞳を見たとき、君と恋をしたいと思ったんだ」  優しいまなざしを向けられたとき、急にどうしたらいいのか分からなくなった。 「愛してる」 「嘘よ……」 「嘘じゃないよ。好きだよ、十和子。意地っ張りなところもかわいい」  顎を持ち上げられて、優しいキスをされた。唇同士が触れるだけのキスは、ささくれだった心を和らげる。 「時間は巻き戻せないけれど、私たちには時間はたっぷりある。夫婦になったあとでも恋はできる。そう思わない? あの写真のことが気になるなら、ちゃんと処分する」  唇に温かい息がかかる。抱きしめる腕の力が優しいものへと変わっていた。頑なだった心がほころんでいく。でも素直になれなくて、せいいっぱい強がってみせた。 「あ、あなたなんか大嫌い……」 「そう、私のどこが嫌い?」 「臆面も無く好きとか愛してるって言うところ!」 「だって本当のことだから」  そう言いながら夫は照れくさそうな顔をした。
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