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指先にキス、それが合図

 すっと彼に指先を向けると、彼は何も言わずに指先をとってキスをする。  それが二人の合図、これから始まる行為の。  彼は穏やかな瞳で上目遣いに私を見つめる。  でもその瞳の奥には激しく燃え盛ろうとしている炎が見える。  指先に押し付けていた彼の唇が開き、私の指を暖かな唇で挟む。  乾いた皮膚と濡れた皮膚の狭間に置かれた指先は、いともたやすく彼の口に含まれた。  軽く歯を立てられたあと、彼の舌がねっとりとした動きで指を舐めしゃぶる。  熱く濡れた舌に舐められるたび、指先からぞくぞくと震えが走った。  その間彼の瞳はまっすぐ私だけを見つめていて、徐々に熱を孕む彼のまなざしに身も心も裸にされていく。彼の舌が指と指の付け根に差し掛かったとき、その感触に思わず声が漏れた。 「あ……」  彼の年相応に皺が刻まれた顔に笑みが浮かぶ。  だけど細めた瞳は、まるで獲物を見つけた狩人のようなものになっていて、それを見たとき体の芯が熱を帯び、肌がほてり始めた。 「ここ、弱いよね」  彼がそう言って手の甲に唇を押し付けてきて、意味深なまなざしを向けてきた。 「みちる、君の負けだ」  ゲームは今日も私の負け。  着ていたブラウスのボタンに彼の指先が伸びてきて、そのボタンをはずし始めた。  あれは三ヶ月のことだ。  その日は珍しく仕事を早く切り上げることができたので、久しぶりに映画でも見ようと小さな映画館に行くことにした。  流行のシネコンではなく、今にもつぶれそうな古い小さな映画館。  そこで上映されるのはハリウッドの黄金期を彩った古い映画が多く、知る人ぞ知る存在の映画館だった。  もともと映画が好きだった私にそこを教えてくれたのは、三年前まで付き合っていた恋人だ。  大学時代からずっと付き合っていた同い年の恋人は30を迎えた年の秋に、私より若く美しい女性と新しい恋を始め、そして彼らが結婚したと風の便りで聞いたのは昨年のことだった。  30才の誕生日を迎えたとき、彼は私に求婚した。  そしてその言葉の次に、仕事と結婚どちらかを選んでほしいと告げられた。  私が出した答えは『仕事』。  その答えを告げたとき彼はたった一言「わかった」と言って、目の前から去っていった。  仕事と結婚、どれか一つだけ選べと言われ迷わなかったわけではない。  彼のことを愛していたし、いずれは彼と結婚するのだろうと漠然と思っていた。  だけど彼との結婚を選んでしまえば、その時点でそれまで積み上げてきた私のキャリアは意味をなさなくなってしまう。  だからずっと結婚の話を曖昧にし続けて付き合っていたのだが、いつかはこの日が来ることを覚悟していた。彼の父親は会社を経営してて、彼はいずれその跡を継ぐ立場だった。だから彼が望んだ妻とは、自分と家を支える役割を担ってくれる存在で、私はそれを選べなかった。  仕事にやりがいを感じていたからという理由ではない。  ただ夫の帰りを待つだけの妻にはなりたくなかったのだ。  おそらく彼はそれを分かっていたのだと思う。  だからずっと結婚の話を棚上げにしたままでいたのだろうし、それを彼の優しさとは思えなかった。  結局二人は現実から目をそらしたままで、ただ居心地がいいからとくっついていただけなのだと思う。  多分彼に恋していたのも、彼を愛していたのも、付き合っていた10年という時間のなかではほんのわずかな時間で、それ以外は馴れ合いのような関係だったのかもしれないとふと思った。  寂しいけれど、自由だ。  自由になったからには、好きなものを好きなだけ感じて謳歌しようと思っていた。  その小さな映画館はオフィス街のはずれにあって、一見雑居ビルにも見えなくはない。  だけど曇りガラスの扉を開き中に入ると、そこはまったく違う世界が広がっている。  黒い床に目にも鮮やかな真紅のカーペットが敷かれていて、まるでレッドカーペットを歩く女優にでもなった気分にさせられる。一歩、また一歩と足を進めるたびに夢の世界へ近づいているような気にさせられた。 「いらっしゃいませ。今宵も夢の世界をお楽しみください」  渋めの低い声が聞こえてきて、そちらを見ると男が立っていた。  黒のフォーマルな三つ揃えのスーツに身を包み背筋をピンと伸ばしていて、いかにも紳士然とした振る舞いに目が釘付けになってしまう。  ただ少し残念に感じたのはその男の髪が見事なシルバーグレイで、どう見ても父親と同じくらいの年齢を感じさせる皺が凛々しい顔に刻まれていた。  若かりし頃はたいそう女性にもてただろう。  それがその男・柳澤に対して抱いた第一印象だった。  じっと見ていると、それに気がついたのか彼は穏やかな表情でこちらに近づいてきた。  近づく彼の動きから目が離せない。なぜだか体も動かなかった。 「こんばんは」  彼が目の前に立って、夜のあいさつを告げてきた。ふわりとクセのある香りが漂っている。  香りに気をとられながらも彼の瞳を見上げると、不思議な感覚を覚えた。 「こんばんは。今日はどの映画がお勧めですか?」 「今夜はヒッチコックのめまいがお勧めですよ」 「ヒッチコックっていったら怖い映画しか思い浮かばないけど……」 「まあ精神的に迫る恐怖というか狂気は感じますが、それほど怖くありませんよ。もし不安なら一緒にいかがです?」 ―――― 一緒に? この人と?  彼の言葉に驚きを隠せず、つい瞬きを繰り返した。 「そうしましょう。今夜はこの映画の回で終わろうと思っていたし、一緒に見ましょう。そうすればあなたが怖いと感じたとき抱きしめてあげられる」  立て続けに彼の口から飛び出る言葉に、私はうろたえてしまう。  だがそんな私をよそに、彼はいたって平然としていた。  まるでそうすることが当たり前のことのように思っているならば、やはり彼は相当そんなシチュエーションを経験しているのだろう。彼の表情を見ながら思案していると、彼がくすりと笑いながら問いかけてきた。 「返事がないということは、イエスでいいのかな?」 「え? あの……」  首をかしげてにっこりと微笑む彼に、返事をしようとしたときいきなり手を握られた。 「じゃあ行こう。二人きりの贅沢な時間を楽しもう」  彼は穏やかな笑みを浮かべ、私の手を引いてそこへ向かおうとする。  少し強引だが、決して不快なものではない。  握られた手から彼の体温が伝わってきて、そのとき心臓がとくんと鳴った。  重厚な趣を感じさえる皮張りの扉を彼が開く。  その向こう側にはうす暗がりが広がっていて、ほのかに革の匂いがした。 「さあ、どうぞ。暗いから足元に気をつけて」  扉を開きそれを押さえながら、中に入るよう彼が促してきた。  恐る恐る足を進ませようとしたとき、彼のもう片方の手が腰に添えられ、思わず体がびくんと震え、背がわずかに伸びた。 「怖がらないで。この先にあるのは夢の世界。たった一夜だけの夢の世界だよ」  腰に添えられた彼の手が後押しする。中に入るとそこはもう現実の世界ではない。  彼が話す夢の世界、それは映画の世界を指している。  つかの間現実を忘れその世界に浸り、その余韻を楽しむ。  そんな贅沢な時間は、本当に久しぶりだ。  彼にエスコートされて中に入ると、100席もないであろうシートが並んでいた。  劇場の照明がその革張りのシートを照らしている。うっすらと照明が当たっている正面の白いスクリーンに目を向けると、彼がこほんと咳払いした。 「ちっちゃい映画館だけど、それなりに贅をつくして作ったんです」  隣に立っている彼を見ると、照れくさそうにしている。  少年が母親に褒めてもらいたくて仕方がないようにしている彼の姿を見たとき、なんだかかわいらしく感じた。しばらく彼の表情を見ていると、彼は苦笑いを浮かべはじめた。 「ここが特等席だよ、座って」 「あ、はい……」  ずらりと並んだシートの真ん中の席の背もたれに、彼が手を添えた。  そこに座るためには、列の端まで行ってでないと座れない。  だから彼の隣から離れ、列の端に向かう。  シートとシートの間をゆっくり歩いて、彼が待っている席に向かった。  席につくと適度に弾力があって、背もたれも普通の映画館のものより高かった。  まるで体全体をすっぽり包み込まれたような安心感を感じる。  すると肩に彼の手が添えられ、それに驚き後ろにいた彼を見上げると、優しい表情で私を見下ろしていた。 「飲み物を持ってくるね」  そう言うと彼はそこから離れ、部屋の出口へと立ち去っていった。  彼の姿が見えなくなってから、柔らかな照明が照らしている空間を見渡してみる。  乾燥した空気のなか革の匂いと、彼の香りだけがあたりを漂っていた。  誰もいないしんと静まり返った空間に一人でいると、現実から私ひとり切り離されたように感じ、とたんに不安が心を覆っていく。心細さを紛らわせるためにスマートフォンでなにか見ようと、足元に置いたかばんに手を伸ばしたときだった。 「お待たせ」  彼の声が聞こえてきて、体を倒したまま見上げると、彼がグラスが乗ったトレイを両手に持って立っていた。そのグラスに注がれていたのは、多分シャンパンだ。そのグラスを見ながら体を起こすと、彼がおもむろに隣の席に腰掛けた。 「はい、どうぞ」  すっと目の前に差し出されたグラスを見ると、注がれた液体の中には細かな気泡があって、やはりどこからどう見ても中身はシャンパンだ。色つきのサイダーならともかく、映画を見ながらシャンパンなど飲んだことがない。グラスを差し出した彼とグラスを交互に見ていると、彼がくすくすと笑い出した。 「軽めのシャンパンだから安心して。それともお酒に弱いのかな?」 「いえ、お酒は飲めますが、映画を観ながらシャンパンを飲んだことがないので……」 「ちょっとアルコールが入ったサイダーだと思えばいい。さ、そろそろ始まる。はい、持って」  ずいと近づけられたグラスに手を伸ばし、それを受け取った瞬間部屋の照明が落とされて、あたりは真っ暗闇になった。  すると間もなく目の前のスクリーンが明るくなった。 「眠くなったら眠っててもいいよ」  耳元でささやかれているような錯覚を感じ横を向くと、彼がこちらに身を乗り出していて、すぐそこに彼の唇が見えた。思わず彼の顔に目を向けると、こちらをじっと見つめている。彼の目と私の目がぶつかって、その時一瞬時間が止った。  そこから先はまるで夢の中にいるようだった。  私を見つめる彼の瞳に吸い寄せられてしまい、顔を近づけさせていた。  彼の息が唇にかかる。彼の体から立ち上る香りがその濃さを増した。  その香りに包まれて、いまにも眠りに落ちそうな陶酔を感じた。  するといきなり映画の始まりを告げる音楽が流れ始め、現実に引き戻された。  今の自分の体勢に気づき、だけどどうしても動けない。おそるおそる視線を彼の瞳に向けると、スクリーンに写し出された映画の明かりが彼の表情を照らしている。  ゆっくりと体を離して彼の顔を見た時、私は言葉を詰まらせた。  ゆらめく光に照らされた彼の瞳はじっとこちらを見つめている。  しかもうっすらと目を細め、形の良い唇がわずかに開いていた。  キスする間際の男の表情を初めて見てしまい、どうしたらいいかわからずにその姿を眺めていた。  首を傾げている彼の顔がふと緩み、何事もなかったように体を起こし映画を観始めた。  それに気づき、私もシートに座りなおし正面のスクリーンに目を向ける。  美しくなめまかしい女優が、スクリーンの中で夢の世界のヒロインを演じている。  それを目で追ってはいるものの、先ほどの出来事のせいで心臓は早鐘を打ったようになっていた。  彼が教えてくれたとおり、その映画は静かな狂気を感じさせた。  ヒッチコックの映画は随所に散りばめられている仕掛けが魅力的だが、その背景にはもの悲しさとやるせなさが潜んでいて、見終えたあとはその余韻がずっと残ったままになっていた。  映画が終わったというのにその余韻の中にいて、ぼうっとしたままでいると体を揺らされた。 「大丈夫?」  ゆっくりとその声がしたほうへ顔を向けると、彼が心配そうな顔で私を見つめている。  ひとつ大きなため息を漏らすと、彼は苦笑いを浮かべ私を包み込むように抱きしめてきた。  背中をなでる彼の手の動きが心地よい。全身から力が徐々に抜けていく。  なぜだか涙が勝手に流れていて、その涙が頬を滑り落ちていった。  ずっと心の奥にしまいこんでいた感情が、少しずつ流れ出る。  静かに静かに流れだすもの、それは3年前に別れた彼への思いの名残のようなものだった。  その日を境に週末の夜は、そこで彼と二人で映画を見るようになった。  二人だけでシャンパンを飲みながら、彼が好きな映画を見ては静かな時間を過ごす。  ただそれだけだ。それで私は満足していたし、彼も同じだと思っていた。  だって冷静に考えれば、彼は私の父親と同じくらいの年齢だろうし、そんな男性を恋愛対象として見れるわけがない。父親とそう大して年が変わらぬ男とセックスしている姿を頭に思い描こうとするけれど、自分の想像力が音をあげた。  確かに魅力的な男だとは思う。  人生の酸いも甘いも噛み分けてきた余裕からか、彼は決して自ら求めてこなかった。  最初の夜のような、ふとしたきっかけでぎりぎりのところまではいくのだが、その先に進むことはないままで、気づけばそれにもどかしさを感じている。女としての魅力がないのではないかとさえ、思い始めていた。  だけど彼と過ごす夢の世界は現実を忘れさせてくれる。  彼と過ごす夜中までの時間は、いつしかかけがえのないものになっていた。  そんなある日のこと。  いつものようにシャンパンを飲みながら映画を観ているときだった。  耳元に彼が顔を近づけさせて、かすれた声で話しかけてきた。 「この映画、どう?」  その日観ていた映画は、彼のチョイスにしては珍しくフランスの映画だった。  互いに脛に傷持つ男女が惹かれあい恋に落ちる内容で、特に女優の目の動きがすばらしい。  台詞に頼らず視線や音楽で表現されている映画は、ずっと心に残るものだ。 「トレビアン、よ」  フランス映画ということもあって、ふざけてフランス語で答えてみた。  そしてその数秒後、私の頭の中が真っ白になる出来事が起きた。 「今夜、一緒に過ごさないか?」  その言葉が耳に入ったとき、すべての感覚が一斉に消えた。  彼の言葉の意味がわからぬほど子供ではない。  目の前のスクリーンでは、男と女が抱き合い愛を交わしている。  それを眺めながらしばらく考えていると、彼が再び話しかけてきた。   「この映画の続きのフィルムが家にあるんだ。もしよかったら一緒に見ない?」  その言葉に彼の優しさを見た気がした。おそらく彼は私を求めている。女としての私を。  だけど彼は私の父親と大差ない年齢で、そんな彼とセックスできるかわからない。  彼に女として見られていることはうれしいけれど、女として求められていることに不安を感じた。  私が彼の誘いに迷っていることを察したのだろう。だから逃げ道を作ってくれたのだ。  一緒に映画を観るだけだ、と。  その心遣いがうれしくもあり、悲しかった。  映画館の上に彼の部屋があって、映画を見終えたあとそこへ向かった。  日付はとうに変わっていて、今から映画を見るとなると、眠るのは明け方近くになっているだろう。  週末はかきいれどきだと彼は話していた。朝早い時間から、その日上映する映画のフィルムを用意してそれを機械に取り付けたり、フロアを掃除したりとやることは多いと。それを彼一人でこなしているのだから、いくら仕事とはいえ好きでなければできないだろう。  ずっと映画の配給会社で働き続け、終の棲家として手に入れた雑居ビルを映画館に作り直したと聞いたとき、よくそんな資金があったものだと話したら、彼は子供のような顔で株で儲けたと話していた。  そんな彼の部屋はというと、当然のことだがフィルムやDVD、ビデオテープが山積みにされていた。  間接照明だけが灯された20畳ほどのワンルームの壁一面が本棚になっていて、そこには映画の原作と思われる文庫本が隙間なく並べられていた。 『サラリーマンのときから同僚たちからは映画バカって言われてた』  以前彼が面白おかしく教えてくれた話のひとつだ。  そのほかにもどうしても観たい映画があって、わざわざアメリカまで観にいったという話も聞かされている。 「どうしたの?」  壁の本棚に手をかけて、それらを眺めながら思い出し笑いをしているとき、黒のジャケットを脱いでベストとシャツだけになった彼が話しかけてきた。 「なんでもないわ、どうして?」 「本棚を見ながら笑ってたから、何か面白い本でもあったかなと思ってね」 「たくさん懐かしい映画の原作が並んでて、ついつい見ちゃってた」 「映画を見る前、見た後では、同じ本でも深みが違うような気がするよ」 「でしょうね」  他愛ない会話をしたあと、彼がベストを脱いで木の椅子の背もたれにかけた。 「おいで、一緒に観よう」  ソファに腰掛けた彼が声をかけてきて、私は彼の隣に腰掛けた。  すると彼が耳元に顔を近づけ、ひとつの提案をする。 「ね、ひとつゲームしようか?」 「ゲーム? なにそれ」 「映画を観ている間、私がすることであなたが声をあげたら負け」  彼の表情を見ればいつもどおりの顔だった。  彼が話した内容を思い返し、おそらくくすぐられる程度だと感じた。  映画館で映画を観ていたときに飲んでいたシャンパンで酔っていたのかもしれない。  私はそれを深く考えることなく受け入れたのだが、思えばこれが間違っていたのだ。  映画館で見た映画の続編だという映画は、あれから20年後という設定だった。  男と女のそれぞれの20年は二人に新しい魅力を授けていて、彼らの子供たちとともに物語は進んでいく。一度別れた男と女が再会し「あの頃と君は変わらないな」と男に告げられたら、うれしくない女はいないだろう。一番二人が愛し合った時間、確かに二人は輝いていたのだから。  3年前に別れた彼と再会したら、私は彼に「あの頃とあなたは変わってない」と告げたら、どんな表情をするだろう。そんなことを考えていたとき、隣に座って映画を観ていた彼が体を起こしてきた。  彼の手が私の手に触れる。指先で肌の上をすべるようになぞられて、そこから不思議な感覚が伝わってきた。手の甲を指先でなぞられたとき、そこからぞくぞくとした震えが走って思わず声を漏らした。 「負けだね」  くすくすと彼が満足げに笑う。  思わず彼を振り返りにらみつけると、彼はソファに置かれているクッションを手に持ってそれで自分の顔を隠した。そのクッションを取り上げて、彼をにらむ。すると唇になにかを押し付けられた。  突然の出来事に頭が働かず目を瞬かせると、続いて啄ばまれているような感触が唇から伝わってきた。  しかもそれは柔らかく温かい。目の前には彼の顔。その表情を見ると、まぶしそうに目を細めている。  ようやく彼にキスされていることに気がつき、彼の体を押しのけようとした。  すると彼の胸に置いた手を彼に掴まれた。  唇が離れ、ふと彼が息を漏らしたのか、私の唇にそれがかかる。 「ゲームに負けたら、ひとつ何かをもらう」 「そんなの聞いてない……」 「今、話したよ」  息がかかるほど近い距離で、彼がくすりと笑う。  不満げに訴えてみるが、効果はないらしい。  目の前の彼の瞳を見ることができなくなって、逃げるように彼から離れた。 「そういうのは、ゲームが始まる前に教えて。卑怯よ」  彼に背を向けて拗ねたようにすると、彼は私を背後から抱きしめ「今度はそうする」と告げた。  その日から彼と映画館で過ごした後、部屋で映画を観ながら過ごすようになっていた。  彼は映画を観ている私の手に悪戯をしかけてくるのだが、それに耐えて声を漏らさぬようにしていると、徐々に彼の悪戯はエスカレートしていった。  そしてそれに耐え切れず声を漏らすと、彼の唇が私の首筋、胸元へと吸い付いてくる。  彼の唇が肌に触れると、そこから震えが走りまた声を漏らしてしまう。  そんなことを繰り返されるたび、眠っていた女の感覚がよみがえり、どんどん彼が与えるものに敏感に反応するようになっていた。  それがうれしくもあり、苦しくもあり、複雑な思いが心を覆い尽くそうとする。  そしていつしか彼のもとへ行くことが苦痛に感じ始めていた。  仕事が忙しいからと自分自身に言い聞かせ、週末の夜がやってくるたび映画館へ向かいそうになりながらも、踵を返し自分の部屋へ帰るのだ。そして部屋でビールを飲みながら、映画のDVDを観る。  映画の中で愛を交わす男女の姿を見ては、胸が締め付けられるような痛みを感じた。  自分がなにを求めているのかくらい否が応でも分かっている。  でも私と彼の間には決して埋まらない22年という時間が存在する。  もっと早くに出会えていても、その22年という時間は変わらないのだ。  それを思うと辛くなる。  相手の側にいるだけで幸せだと言っても、結局セックスでしかわからぬものもあるのも事実だ。  彼を男として見れるかどうか、そしてセックスできるかどうか。  いくら彼が私の官能を高めてくれても、それを受け入れることができなければすべて徒労に終わる。  私はそれが怖かった。彼を受け入れることができなければ、即ち愛していないと同じことだと思うから。だからそれを思い知る前に、そこから逃げただけだ。  そう思うとやりきれない気持ちが全身に広がり、私を追い詰める。  彼に会いたい、でも会いたくない。会えばまた求めてしまう。  そして現実を突きつけられてどん底に叩き落される。  そのときあることに気がついた。  3年前に別れた彼との間には、そういった苦しみがひとつもなかったことを。  夢の世界は現実の辛さを忘れることができる世界だった。  どんなに仕事が苦しくとも、一時の夢の世界はその苦しみを忘れさせてくれる。  そして夢の世界でリセットされて、再び現実の世界へ戻る。  それがないまま時間だけが過ぎていく。  当然疲れも苦しみもリセットされないまま、どんどん心と体が疲弊していった。  そしてついに疲労がピークに達したとき、自然と足が向いたのは彼の映画館だった。  映画館の扉を開き中に入ると、あの日と同じように真紅のカーペットが出迎えてくれた。  そして黒い三つ揃えのスーツを着た彼が、穏やかな笑みを浮かべ近づいてくる。 「こんばんは。お久しぶりですね」 「こんばんわ。今日のお勧めは?」  何事もなかったように彼にたずねると、意外な言葉が飛び出してきた。 「今夜のお勧めは、まだ決めてない」  彼らしくない言葉に、思わず顔を見上げると、困り果てたような顔になっていた。 「あなたが来なくなった日から、ずっと一日の最後の映画が決められなくて困っていた」 「え?」 「その日の最後を締めくくり、幸せな時間を過ごすための映画は、あなたと一緒に観たいから」  私をまっすぐに見つめる彼の瞳は、とても真剣なものだった。  彼の瞳を見つめていると、彼と過ごした時間が頭に浮かんできて、そのとき感じた感情さえもよみがえってくる。 「年甲斐もないとはわかっている。でももう一人じゃ幸せな気分で映画を見ることはできそうにない。あなたとともに過ごした時間を知ってしまったから、なおさらだ」 「私はあなたと一緒に過ごす時間が苦しいの」 「……私も苦しいよ。あなたを抱きたいのに抱けない。すぐ手を伸ばせば触れられるところにいるあなたを、眺めているだけしかできないのだから」  その言葉を聞いた瞬間、現実を突きつけられてどん底に叩き落された。  それと同時に浅ましいまでに目の前にいる彼を求めている女の欲深さを痛感させられた。 「でも、だからと言ってあなたを諦めきれない私は、なんとも浅ましい男だと思う」  顔を俯かせ視線を落としたとき、彼の言葉が耳に入り顔を上げた。 「あなたが好きだ。抱きたい。愛したい」  切なげな表情をする彼を目にしたとき、世慣れた男を夢中にさせていることに愉悦を感じずにはいられなかった。  そのとき体が勝手に動いて、彼の目の前に手を差し出した。  彼ははっとした顔で、私を見つめている。  すると彼が私の手を包み込むように両手で支え持ち、その指先にキスをした。  彼の唇が触れたところから、えもいわれぬほどの恍惚と愉悦がまじりあったものが駆け上がり、それだけで体が火照り始めた。  その日から彼と私の間に、不思議な関係が成立した。  週末に映画館へ向かい、彼と一緒に二人だけの夢の時間を楽しんだあと、彼の部屋でゲームに興じるのだ。  ルールは一つ。  彼の悪戯に音をあげたら、ひとつだけ彼がしたいことをさせること。  それは時に生まれたままの姿で、彼の愛撫に身を任せることもあった。  指先で受けた愛撫ですっかり鋭敏になった肌の上を、彼の指が滑るように動く。  そのたびに全身にかすかな電流が走る。羽根のように優しい彼の手の動きに、どんどん官能が高められていった。荒々しさなど微塵も感じさせない彼の動きに反して、私は狂おしいまでに彼を求め始めてしまう。でも、彼は触れてほしいところに手を伸ばそうとしない。それがどれほど辛いものか、わかっているのにそれをしなかった。  彼の唇が胸元に触れる。柔らかな乳房の上にほのかに赤い痕をつけて、そこを舌先で舐められたとき、体の内側からなにかが染み出した。胎の奥がじくじくと熱を伴って疼き始める。どんどん思考が細かな布切れのようになっていって、ばらばらに飛び散りそうになっていた。  彼の唇がわざとそこをはずし、周りばかりを触れるせいで、かえってそこに意識が向かう。  唇を噛み締め耐える。痛みで意識を戻しては、なけなしの理性を保とうと必死になっていた。  そうでもしなければ、最後の一線を越えそうで怖かった。  もしも彼に堕ちてしまえば、私は私ではいれらなくなってしまうかもしれない。  だから今日も私は唇を噛み締めて、彼の愛撫に身を任せるのだ。
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