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第5話
母親の『まさよしお兄さん』への愛に怖気づいてしまい、その日一日中は黙り込んで過ごしてしまい、愛華からは具合が悪いのかと心配された。
不意に正義の事を話してしまったらと思うと、怖くて何も話せなかったのだ。
疲れて家のドアを開けると、まだ正義は帰ってはいなかった。
「ただいま」
正義に会って癒されたいと思うのだが、今日も恐らく帰りは遅いのだろう。
早ければ連絡をくれるだろうし、何かあれば必ず連絡はくれていた。
思わずソファに寝そべってしまうと、さくらは疲れてそのまま眠ってしまった。
(世の中のお母さん全てを敵にまわした気分……)
不意に目が覚めると、カレーの匂いが鼻先をくすぐった。
がばっと起き上がりキッチンに向かうと、正義が居た。
「おはよう、さくら。疲れてたみたいだからカレー作ったよ」
「ありがとう~」
さくらはカレーの味見中の正義に抱き着いた。
今日ほど、正義の傍に居たいと思った時はなかったし、心細い思いはなかった。
今迄ピアノ教室に呑気に通っていた自分が、きっと平和だったのだ。
何も知らなければ、きっと今でも呑気に知らずに子供にも母親にも接することが出来る。
でも、今日の教室はとても活気があり、親は嬉しそうにしていて、曲のリクエストが入ったのだ。
愛華いわく、『まさよしお兄さんで人気の曲』だそうだ。
「今日ね、ピアノ教室でね。……とにかく、大変だったの!」
「どうかした? 子供で手こずることでもあった?」
正義はさくらの瞳を覗いて、心配そうにする。
子供相手は正義だって同じだから、きっと気持ちは分かってくれるだろう。
そして、母親が正義に対して熱狂的だということも知っている。
今更弱音を吐くなんてと思うのだが、バレたらと思うと怖くて仕方がないのだ。
「今日、まさよしお兄さんが歌う曲でリトミックやったの。人気だったわ」
「そっか! 良かったじゃないか。子供が元気っていいだろ?」
「親も元気だった……けど」
「まあ、それも良いことだよ」
「正義……。バレたらどうするの?」
泣きそうになりながらいると、出来たてのカレーがさくらの口に運ばれてきて、思わず食べてしまう。
スパイスが効いた、美味しいカレーだ。
「あ、美味しい」
「だろぉ! 細かいことは忘れて、カレー食べよう!」
「……うん。ありがとう、正義」
もう一度正義に抱き着こうとすると、するりとかわされてしまう。
(もう……疲れてるのに。私だって正義に癒しを求めてるんだからっ!)
さくらは口を尖らすと、ぷいっとダイニングテーブルに座った。
正義の様子を見ていると、楽しそうにカレーを盛り付け、サラダやスープまで用意してある。
「全部作ったの? 疲れてるからいいのに」
「いつもさくらやってるだろう? たまには俺がやるよ。あ、片付けもきちんとやるから、今日はさくらのんびりしてろよ」
「そう、だけど。正義だって疲れてるでしょ?」
今日の元気いっぱいの子供達や母親の気遣いを思い出すと、同じような思いをしている正義に申し訳なくなる。
確かに、さくらだって疲れた体で家事をするのは大変だし、分担したりするのは嬉しい。
でも、正義に余計な負担をかけたくはないし、家に帰ってきたらのんびりして欲しいのだ。
「折角さくらと一緒になったんだから、気を使ってばかりじゃ疲れるだろ? 俺料理好きだから、やるよ」
さくらは「うん」と小さな声で頷き受け入れてしまうが、本当に良かったのかと不安になる。
(疲れて風邪引いても、正義の代わりはいないのに)
「さくら。そういえばさ、具体的な話を聞いたことがなかったんだけど」
カレーが目の前に運ばれてきて、正義がぽんとさくらの肩に手を置いた。
何だろうと上を向けば、正義が顔を寄せてくる。
「子供、何人欲しい?」
「えっ! こ、子供っ⁉」
「おれはね、五人くらい欲しいな。いや、六人でもいい! 沢山の子供に囲まれて、歌を歌って踊って生活したいな。勿論、精一杯稼ぐし、仕事だってなんでもするけど」
「あの……正義。私、まだ」
さくらが言い淀んでいると、正義は耳元で囁く。
「とりあえず、ひとり。まずはひとり、無事に欲しいよな?」
「え⁉ いや、えっと。う、うん。欲しいけど。あの……」
今日のことを思い出すと、子供が欲しいなんて到底考えられない。
ふたりでひっそりと、正義が歌のお兄さんを引退するまでは、さくらは身を潜めていたいと思った。
妊娠なんてしたら、正義はきっと病院に連れそいたがるだろうし、子連れの母親には見つかってしまいそうで怖い。
「まだ、私正義とふたりがいいな」
「そうか? 俺は、早く子供が欲しいけど」
また囁かれると、ぞくりとして肩がぴくんと跳ねた。
逃げ出そうにも、正義はさくらの後ろに立ち、耳元で囁くことを止めそうにない。
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